神田武夫 単語

カンダタケオ

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神田武夫(かんだ たけお)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

OB
神田武夫
基本情報
日本日本
出身地 京都府
生年 1922年
1943年7月27日
身長
体重
173cm
64kg
選手情報
投球・打撃 左投右打
守備位置 投手
プロ入り 1941年
引退 1943年
経歴
選手歴
プロ野球選手テンプレート

1922年生まれ。京都府出身。

京都商業学校へ進学。『エースで4番』として活躍し、甲子園大会に3季連続で出場。1940年春の甲子園大会ではチームを準優勝へ導くなど、全投手として活躍し、同校OBの沢村栄治になぞらえて『沢村栄治2世』との呼びもあった。

素材ということもあり、複数の社会人野球プロ球団から誘いがあったものの、膜炎を患っていることが発覚して以降はパッタリと誘いがくなっていた。そんな折、南海軍だけが「投手でダメなら野手でも良い」とをかけ続け、1941年南海軍に入団。

初年度の1941年膜炎が治していない状態ながら、応召で抜けた選手たちのを埋めるべく、川崎徳次とともに奮闘。52試合に登板して、25勝15敗、防御率1.56を記録。同年、南海チーム勝利数は43であり、チーム勝利数の半分をひとりで稼ぐという驚愕の活躍を見せた。

ただ、病状は悪化の一途をたどっていた。同僚たちに病気をうつしたくないからと、マウンド以外では常にマスクを着用し、咳が出た際に口を抑えられるようポケットにはハンカチをばせており、ときには喀血ハンカチに血が滲むこともあったという。

1942年、前年のシーズンオフに球団から引退を勧められたものの、「だいぶ回復してきました、やらせてください」と語り、現役続行。ときにはマウンドで吐血しながらも完投勝利記録し、川崎徳次が盲腸炎で入院した際には、自ら志願して登板するなど、チームエースとして前年以上に気迫を込めた投球を見せた。同年は61試合に登板し、24勝20敗、防御率1.14を記録

しかし、病状はさらに悪化。シーズン終了後、体力限界に達し、病床にす事となった。

1943年7月27日肺結核のため死去。享年21歳。

戦後、当時の指揮官であった三谷八郎氏は「神田を殺してしまったようなもの」と後悔の念を語っている。

人物・エピソード

切れ味抜群の速球と、鋭く曲がるドロップボール武器に活躍した右腕。

実働はわずか2年間だが、この間チームの全試合189試合のうち、113試合に登板している。

通算成績

投手成績

通算:2年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 113 52 13 49 35 --- --- .583 716.2 217 228 164 108 1.36

獲得タイトル・表彰・記録

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