柴田保光(しばた やすみつ)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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柴田保光 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 長崎県島原市 |
生年月日 | 1957年8月20日 |
没年月日 | 2022年10月9日 |
身長 体重 |
181cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト2位 |
引退 | 1994年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1957年8月20日生まれ。長崎県島原市出身。中学時代まで野球を始めておらず、それどころかほとんど野球を見たこともなかったという。
島原農業高等学校に進学。柔道部に入部したが、投げられ続ける日々に嫌気が差し退部。たまたま知り合いであった先輩が所属していた軟式野球部に入部し、ようやく本格的に野球を始めた。
卒業後、丹羽鉦電機の監督から誘われ同社に入社。同社には後に日本ハムでチームメイトになる島田誠が在籍していた。ここで初めて硬式野球に触れ、プロに憧れが芽生える。しかし、入社まもなくオイルショックの影響で野球部が解散。そこで監督や野球を続けたいと願った島田ら所属社員たちとともに、あけぼの通商野球部を立ち上げ、同部へと籍を移す。ここで右の本格派として評価を上げ、プロからも注目される存在となっていった。
1978年ドラフト会議にて、西武ライオンズから2位指名を受け入団。同期入団には森繁和がいた。
プロ入り後、将来のエース候補としてリリーフやローテーションの谷間で先発登板の機会を得て、1981年には38試合に登板して4勝、防御率3.26とまずまずの成績を残したが、制球面に難があり、一軍定着には至らなかった。
1984年、江夏豊とのトレードで日本ハムファイターズへ移籍。ここでフォームをサイドスローよりのスリークォーターに変更。球速は大幅に落ちたが、課題であった制球力が改善し、技巧派投手へと転身した。
移籍2年目の1985年、先発ローテーションに定着し、11勝13敗1セーブ、防御率3.28、160奪三振と好成績を残し、オールスターゲームにも初出場を果たした。
1986年、チーム最多の14勝を挙げ、日本ハムのエースとして活躍。2年連続でオールスターゲームにも出場している。
1989年、先発ローテーションに復帰し、9勝12敗、防御率3.76という成績を残す。
1990年、12勝を挙げ、4年ぶりに二桁勝利を達成。4月の近鉄バファローズ戦ではノーヒットノーランを達成。平成初のノーヒットノーランであり、与四球1、打者27人で抑える準完全試合という完璧な内容であった。
その後も1991年には9勝を挙げ、パ・リーグ2位の防御率2.48を記録し、1992年には6勝、1993年には7勝を挙げるなど、30代半ばに差し掛かったがまだまだ一線級の能力を示し、日本ハム投手陣を支え続けた。
しかし、1994年、心筋梗塞を発症し、虚血性心疾患で入院。退院後には復帰を目指しトレーニングをはじめたが、ドクターストップがかかり、同年限りで現役を引退。
引退後は日本ハムのコーチ、解説者としての活動を経てサラリーマンに転身。
多彩な変化球を武器に日本ハムの先発陣を支えた右腕。西武キラーとしても知られた。
一方で、打線の援護に恵まれず、日本ハム移籍後は移籍初年度を除き防御率3点台をキープし続ける所謂「計算できる投手」であったが、勝ち越したのはわずか2度のみ。メディアからは『悲運のエース』と呼ばれることも多かった。
心筋梗塞を発症し引退を決意した際、プロ入り時の監督であり当時ダイエーホークスで球団専務を務めていた根本陸夫氏から「お前、FAしろ。俺が面倒見るから」と移籍の誘いを受けたが、「根本さんに迷惑かけるからやめておきます」と断っている。
通算:15年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 346 | 64 | 14 | 84 | 97 | 13 | --- | .464 | 1621.2 | 460 | 1084 | 687 | 628 | 3.49 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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