OB | |
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廣田浩章 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県萩市 |
生年月日 | 1964年2月26日 |
身長 体重 |
175cm 89kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト2位 |
引退 | 2000年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
萩商業高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会出場歴は無し。
卒業後、電電四国に入社。リリーフ投手として活躍し、補強選手としての出場を含め3度都市対抗野球大会に出場している。
1985年ドラフト会議にて、読売ジャイアンツから3位指名を受け入団。同期入団には桑田真澄がいた。即戦力投手として期待されての入団であった。
1987年、中継ぎ投手として起用され、30試合に登板して1勝2敗、防御率1.76と安定感を発揮。特に投手陣に疲労が見られた夏場に重宝された。
1989年、抑え投手としても起用され、36試合登板で8勝1敗11セーブ、防御率2.36を記録。
しかし、以降は肩の故障に悩まされ登板数が減少。1992年に30試合に登板して防御率3.01という成績を残したが、1993年、右肘靭帯断裂してしまい、手術を受けたため一軍登板なし。
1994年、リハビリに専念したため2年連続で一軍登板なし。シーズンオフに戦力外通告を受けた。
その後、恩師の王貞治監督から誘われ、福岡ダイエーホークスに移籍。ただ、ダイエーでは開幕早々膝に打球を受けて骨折するなど、不運に泣かされ、2シーズンで18試合の登板に終わってしまう。1996年シーズンオフ、2度目の戦力外通告を受けた。
ダイエー退団後、ヤクルトスワローズの入団テストに合格し、同球団に入団。野村克也監督から「ダイエーはなんでこんないい投手を手放すんや」とお墨付きをもらっての入団であった。
1997年、セットアッパーとして起用され、59試合に登板して1勝3セーブ、防御率2.71と好成績を残し、セ・リーグ制覇と日本一に大きく貢献。
1998年、52試合に登板して4勝2敗7セーブ、防御率2.56を記録。高津臣吾に代わり、抑えを任される試合もあった。
1999年、登板数は37試合と減少したが、3勝3敗、防御率2.90という成績を残した。しかし、チームの若返り方針もあり、シーズンオフに3度目の戦力外通告を受けた。
ヤクルト退団後、入団テストを経て、近鉄バファローズに入団。近鉄では20試合に登板して、3勝を挙げたが、防御率5.75と精彩を欠き、シーズンオフに戦力外通告を受け、そのまま現役を引退した。
引退後はダイエー・ソフトバンクで打撃投手を務めた後、2020年までスコアラーを務めた。
2021年、大分B-リングスの監督に就任。1シーズン務めた後、2022年はGM兼投手コーチに役職変更し、シーズン終了まで務めた。
2023年9月から至誠館大学の女子硬式野球部のコーチに就任している。
140km/h台半ばの直球と、縦に割れるカーブやスライダー、右打者の内角に食い込むシュートを武器に活躍したリリーフ右腕。ピンチや強打者相手にもにも動じないメンタルの強さも持ち味であった。
野村克也監督の手で蘇った、いわゆる「野村再生工場」の代表格。1997年シーズン途中には「廣田と加藤博人がおらんかったらと思うとゾッとするよ。今の位置(断トツ首位)におるのもあいつらのお陰や」と野村監督から賛辞を送られている。
所属した4球団全てで戦力外通告を受けるという珍しい経歴を持つ。
通算:12年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 342 | 1 | 0 | 29 | 19 | 30 | --- | .604 | 468.2 | 175 | 289 | 181 | 156 | 3.00 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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