平敦盛(1169?~1184)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
史実の平敦盛は1174年に若狭守に任じられた従五位下の官職にあり、1184年に一ノ谷の戦いで戦死。他の平家一門の首とともにいったん源義経の家に集められた後、八条河原で検非違使の手に渡され、長槍刀につけられたあと獄門に向かい、樗の木に欠けられたと『吾妻鏡』に記されている。
その彼が数多くの平家の人々の中で極めて有名になったのが『平家物語』での熊谷直実とのエピソードである。直実は沖の船を目指す敦盛を呼び止めて組み敷くが、自分の子・熊谷直家と同年代と知って助命を考えるも、泣く泣くその首をとるまでのやり取りが描かれるのである。
しかしこの話は、『平家物語』諸本によって敦盛の装束や名乗りの有無、所持していた楽器、とりわけ彼が討ち取られたのが大手の生田か、搦手の一ノ谷かもまちまちである。まさに『平家物語』が語り継がれていくうちに、伝承がつくられていったことを示す一例であるのだ。
さらにこの平敦盛は能「敦盛」・幸若舞曲「敦盛」・お伽草子「小敦盛」などに取り上げられ、絵画などでも馬上で振り返る姿が典型的な構図とされた。こうした敦盛伝承をさらに有名にしたのが織田信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか。」という一節である。
平敦盛は神戸市の須磨寺に首塚、須磨浦公園に胴塚があり、また京都市の金戒光明寺にも熊谷直実と並んで供養塔が立っている。
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最終更新:2025/01/09(木) 22:00
最終更新:2025/01/09(木) 21:00
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