岡林洋一(おかばやし よういち)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
---|---|
岡林洋一 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | パラグアイ アルトパラナ県 |
生年月日 | 1968年4月11日 |
身長 体重 |
186cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト1位 |
引退 | 2000年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1968年4月11日生まれ。パラグアイアルトパラナ県イグアス居住区出身。父親の事業の関係でパラグアイで生を受け、中学途中に帰国し両親の故郷である高知県香美郡に移り住む。
高知商業高等学校に進学。1年先輩には中山裕章がいた。在学3年間で2度の甲子園大会に出場。3年夏の甲子園大会にはエース兼主将として出場し、ベスト8まで勝ち進んでいる。
卒業後、専修大学に進学。同期には杉山賢人が、1年後輩には町田公二郎がいた。3年春のリーグ戦ではエースとして6勝1敗と活躍し、優勝に貢献。最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選出された。同大学では通算で28勝18敗、防御率1.85、248奪三振の成績をマークしプロから注目を集めた。
1990年ドラフト会議にて、ヤクルトスワローズからドラフト1位指名を受け入団。
初年度の1991年、開幕一軍入りを果たし、当初は中継ぎ投手を任されていたが、5月頃から抑え投手に。45試合に登板し、12勝6敗12セーブ、防御率3.97と好成績を残したが、新人王は中日ドラゴンズの森田幸一に譲った。
1992年、先発に転向し開幕から先発ローテーションの中心として活躍、オールスターゲームにも初出場を果たした。終盤戦では再び抑えを任され、15勝10敗、防御率2.97の成績をマークしリーグ制覇に大きく貢献。日本シリーズでヤクルトは敗退したものの、岡林は延長戦2試合を含む3試合で完投し、25イニングを投げ1勝2敗、防御率1.50と獅子奮迅の活躍を見せ、日本シリーズ敢闘賞に選出された。シーズン後の表彰では古田敦也とともに最優秀バッテリー賞を受賞した。
1993年はキャンプから故障で出遅れ、夏場に故障し2ヶ月間離脱したことも響き5勝8敗に終わる。
1994年も故障で出遅れこそしたものの規定投球回に到達し、チーム最多の11勝(5敗)を挙げ、防御率も2.99と復活を印象づける活躍を見せた。
1995年、自身初の開幕投手を任されたが、右肩と右膝を故障し離脱。7勝に終わった。
1996年は故障の影響もあり登板無しに終わり、以降は成績低迷。
引退後はヤクルトに残り投手コーチを務めた後、スカウトに転身。
細身の体型ではあったが、ワインドアップから豪快に投げ下ろすような投球フォームで活躍した右腕。制球力の高さやキレのあるストレートやフォークボール、スライダーで凡打の山を築いた。
一方で故障や酷使の影響で短命に終わった選手の代表格でもあり、同時期に活躍した伊藤智仁とともに『太く短い現役生活の選手』として語られることも多い。
中学時代までパラグアイで育ったことからスペイン語が非常に堪能である。
通算:8年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 175 | 31 | 8 | 53 | 39 | 12 | --- | .576 | 766.0 | 166 | 472 | 320 | 299 | 3.51 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。