小早川毅彦(こばやかわ たけひこ、1961年11月15日-)とは、広島県広島市出身の元プロ野球選手(一塁手)である。
OB | |
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小早川毅彦 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市 |
生年月日 | 1961年11月15日 |
身長 体重 |
183cm 93kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 一塁手 |
プロ入り | 1983年ドラフト2位 |
引退 | 1999年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
PL学園、子供のころに難病を発症し、親に運動を許可されていなかったが、野球始め、自分の身を鍛えている。法政大学を経て1983年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。背番号は『6』。
1984年のルーキーイヤーからクリーンナップで活躍するも、足の遅さから機動力打線の広島では併殺打をよく打つ方だった。
二十代の頃は野球選手としての活躍はもちろん、精悍な顔立ちもあり、フォトブックが出版されるなど注目選手であった。
1987年シーズンでは、江川卓を引退に追い込むホームランを放ったとして、このホームランが伝説として語り継がれている。
1988年のキャンプ前に高熱と下痢を発症。診察の結果、赤痢であることが判明し病院は閉鎖、自身も隔離病棟に収容されるなどの騒動になった(赤痢は当時の伝染病予防法で指定された法定伝染病だったため)。なおシーズンには大きな影響はなかったが、それに絡んだファンからの野次を浴びたという。
1990年代に入ると、前田智徳や野村謙二郎など、長距離で俊足のバッターが相次いで育ち、次第に出場機会が減り始め、1996年オフに自由契約、その後ヤクルトスワローズに移籍する。背番号は『7』。
1997年シーズンでは、1990年代の読売ジャイアンツエース、斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放つなど活躍し、野村克也監督(当時)の下で復活してチームの優勝・日本一に貢献する。
1999年シーズンを持って13年間の野球生活に引退を告げた。
生涯成績は出場試合1431、打率.273、出塁率.362、本塁打171、安打1093、打点624、四球502、盗塁34。
残念ながら打数が3打数足りない(3997打数)ので、生涯打率ランキングの規定打数『4000打数』に届かなかった。
2006年より、古巣・広島東洋カープの打撃コーチに就任。2008年にはジェフ・リブジー監督代行(レオ・マーティ・ブラウン監督は母親の葬儀にて一時帰国)が退場した際に『代理監督代行』として指揮を執った。長い球界の歴史の中でも珍しい出来事である。
2009年オフにコーチを辞任。その後はNHKで野球解説者をしている。
通算:16年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1431 | 4600 | 3997 | 490 | 1093 | 174 | 11 | 171 | 626 | 34 | 10 | 36 | 502 | 55 | 810 | 96 | .273 | .359 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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