宮里太(みやざと ふとし)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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宮里太 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 沖縄県中頭郡 |
生年月日 | 1965年3月7日 |
身長 体重 |
174cm 64kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手、内野手、捕手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト2位 |
引退 | 1997年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1965年3月7日生まれ。沖縄県中頭郡出身。野球を始めた頃は右打ちであったようだが、小学6年生時に「これからは左打ちの時代が来る」と聞き、左打ちに転向している。
都城高等学校に進学。捕手としてプレーし、3年夏の甲子園大会に出場。3回戦まで勝ち進んだが、畠山準・水野雄仁ら擁する池田高校相手に敗退している。
卒業後、専修大学に進学。捕手としてだけでなく、外野手としてもプレーし、チームの一部リーグ復帰に貢献。4年時には秋のリーグ戦で捕手としてベストナインに選ばれた他、大学日本代表メンバーにも選ばれている。
大学卒業後、熊谷組に入社。同僚として伊藤敦規やパンチ佐藤らがいる充実期であり、宮里も中心選手として活躍。都市対抗野球大会に2年連続で出場し、アジア野球選手権大会日本代表にも選ばれた。
1988年ドラフト会議にて、横浜大洋ホエールズから2位指名を受け、入団。同期入団には谷繁元信・井上純らや、ドラフト外で入団した石井忠徳(石井琢朗)らがいた。
1989年、捕手登録であったが、同期のドラフト1位に谷繁がいたことや、持ち味である足の速さを活かすために、外野手に転向。同年捕手として8試合に出場したが、それ以外は全て外野手として起用され、46試合に出場して、打率.294、11打点と新人としては十分な成績を残した。
1990年、足の故障で出遅れたが、復帰後は外野のレギュラーとして活躍。108試合に出場して、打率.309、30打点、13盗塁を記録するなどブレイクを果たした。ただ、プロ初本塁打を放った試合では、その直後に原辰徳に満塁本塁打を打たれヒーローを逃し、更に翌日の試合でも宮里のタイムリーヒットの後に満塁本塁打を打たれ、2日連続でヒーローを逃すという、不憫なシーンも見られた。
1991年、外野のレギュラーとして起用され、初めて規定打席に到達。打率.295、7本塁打、36打点、18盗塁、15犠打を記録するなど好成績を残した。
1992年以降は、波留敏夫や佐伯貴弘らの台頭もあり、左の代打の切り札として活躍。代打以外にも代走や守備固めなどでも起用され、毎年80~90試合前後に出場。
1996年には春のキャンプで大矢明彦監督から、伸び悩んでいた谷繁に刺激を与えるために捕手再転向を打診されている。これに発奮した谷繁は同年127試合に出場し、打率.300、盗塁阻止率.416を記録するなど大きく成長を遂げている。
引退後、球団職員としてチームに残り、2008年までスコアラーなどを務めた。
その後は故郷の沖縄県に戻り、サラリーマンとして勤務する傍ら、野球指導者としても活動。
勝負強い打撃と俊足を武器に活躍した外野手。追い込まれてもなかなか三振しないしぶとさが持ち味であった。
1993年の阪神タイガース戦では、控えの捕手がいない中で捕手の秋元宏作の代打として起用され、その裏に捕手としてプレー。その後、佐々木主浩とバッテリーを組み、2イニングを無失点に抑え、サヨナラ勝ちを演出している。
通算:9年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 761 | 1523 | 1379 | 181 | 369 | 9 | 127 | 62 | 36 | 14 | 122 | 2 | 140 | 19 | .268 | .325 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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