宅和本司(たくわ もとじ)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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宅和本司 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県北九州市 |
生年月日 | 1935年7月18日 |
身長 体重 |
177cm 67kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1954年 |
引退 | 1961年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校は門司東高等学校に進学。エースとして活躍し、1951年には九州大会を制し翌年の春の甲子園大会出場権を獲得。しかし、学校側が甲子園に向けて練習に専念してもらおうと期末試験を免除したのだが、これが問題視され、出場権を返上。結局在学中に甲子園大会出場は叶わなかった。
甲子園大会出場は無く全国的には無名に近い存在だったが、1954年、南海ホークスに入団。同期入団には野村克也や皆川睦雄らがいた。
初年度のキャンプ、ブルペンで宅和の投球を見た柚木進が「二桁勝てる」と絶賛。鶴岡一人監督も「思わぬ拾い物やね」と語るなどブルペンでの投球ながらも圧巻の投球を見せ、開幕から先発ローテーション入りを果たす。
宅和は首脳陣からの期待に応え先発・リリーフ双方でフル回転。先発での31試合を含む60試合に登板し、329回1/3イニングを投げ26勝9敗、防御率1.58、275奪三振を記録。また5試合で完封勝利を記録するなど圧倒的な投球を披露。最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠となり、新人王にも選出。数多くの高卒新人記録を樹立した。
翌1955年もフル回転。前年同様に開幕からエースとして活躍し、夏場にはオールスターゲームにも出場。最終的にはパ・リーグ最多の58試合に登板し、24勝11敗、防御率2.42の成績を残し、リーグ制覇にも大きく貢献。2年連続で最多勝のタイトルを獲得した。
2シーズンで50勝を挙げるなど他の追随を許さない成績を残したが、1956年は腰を痛めて6勝に終わると、1957年以降からは1勝も挙げられず、1959年オフに自由契約となる。
1960年、近鉄バファローズに入団。しかし移籍先でもかつての輝きを取り戻せず、2シーズンで1勝も挙げられず1961年限りで現役を引退。
引退後は長らく解説者を務めた後、1990年にチャイニーズタイペイの代表コーチに就任。1994年には台湾プロ野球の三商タイガースコーチに就任。同年途中から監督に昇格し、1996年シーズン終了後に退団している。
当時としては大柄であった体格を活かした伸び上がるような剛速球と、抜群のコントロールを武器に打者を圧倒した右腕。変化球は大きく縦に割れるカーブのみだったが、効果的に使っていたようである。
高卒新人の投手記録を数多く保持しており、中でも高卒新人の最多勝獲得者は宅和以降、松坂大輔しか獲得者が現れていない。
一方で故障により本来の投球をすることができなくなり、所謂短命に終わった野球選手の代表格でもある。
朝帰りの状態で日本シリーズに登板したり、麻雀禁止令が出されるなど遊び好きな人物であったが、一方で同期の野村に「いつ野球ができなくなるかいつもビクビクしている」と語るなど、繊細な一面も持ち合わせていたという。
通算:8年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 168 | 29 | 9 | 56 | 26 | --- | --- | .683 | 709.1 | 234 | 548 | 215 | 181 | 2.29 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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