OB | |
---|---|
大島公一 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都板橋区 |
生年月日 | 1967年6月17日 |
身長 体重 |
165cm 67kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投両打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト5位 |
引退 | 2005年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1967年6月17日生まれ。東京都板橋区出身。小学2年時より本格的に野球を始める。
法政大学第二高等学校へ進学。2年時には春の甲子園大会に出場しているが、2回戦で敗退してる。
卒業後、法政大学へ進学。同期には葛西稔がいた。入学当初は守備固めであったが、2年時に監督からの勧めでスイッチヒッターに転向。3年春のリーグ戦から3季連続でベストナインに選出され、リーグ4連覇に貢献。4年時には主将を任された。
大学卒業後、日本生命に就職。同期入社の内匠政博とともにチームの中心として活躍。1990年には社会人野球日本選手権大会優勝に貢献。1991年には日本代表に選出され、1992年にはバルセロナオリンピック日本代表にも選ばれ銅メダル獲得に貢献。同年の都市対抗野球大会では打撃賞を受賞している。
1992年ドラフト会議にて、ドラフト5位で近鉄バファローズから指名を受け入団。同期入団には小池秀郎や社会人時代の同僚である内匠がいた。
入団初年度の1993年、サードを中心に起用され、内野のユーティリティプレイヤーとして一軍定着。91試合に出場し、打率.280、1本塁打、11打点、10盗塁を記録。
1994年、大石大二郎との併用でセカンドを中心に起用。97試合に出場し、打率.285、5本塁打、29打点を記録。
しかし、1995年は105試合に出場したが、打率.192と打撃面で苦戦。同年シーズンオフ、トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。
1996年、開幕2番セカンドでスタメン出場すると、以降は主に2番打者としてイチローの前後でチャンスメイク役として躍動。125試合に出場して、初めて規定打席に到達。打率.254、4本塁打、37打点、29犠打を記録し、パ・リーグ制覇に貢献。日本シリーズでは優秀選手賞を受賞し、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。
1997年、打率.239と打撃は今ひとつの成績に終わったが、2年連続でゴールデングラブ賞に選ばれた。
以降もセカンドを中心にオリックスの内野のレギュラーを守り続け、2003年まで8年連続で規定打席に到達。
2000年には、打率.283に加えてパ・リーグ最多の35犠打を記録するなどつなぎ役として活躍し、ベストナインとゴールデングラブ賞に選ばれた。
2004年、体力面で衰えが見られ、67試合の出場にとどまり、球団からコーチ就任の要請を受けたが、現役続行を希望。その後、分配ドラフトを経て、新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍が決まった。
2005年、夏場に楽天球団初のサヨナラ打を記録し、3年ぶりの本塁打を放つなど存在感を示したが、同年限りで現役を引退している。
2016年からは解説者として活動。解説業と並行する形で、筑波大学大学院へ進み、コーチング技術などを学び直した。
ヘッドスライディングやダイビングキャッチなど闘志あふれるプレーや、バントや進塁打などつなぎの役割で活躍したスイッチヒッター。
内野ならどこでもユーティリティ性や、小柄な体格を活かして四球を奪うしたたかさも売りであった。
オリックス時代の背番号は、イチローに次ぐ2番打者として期待されたため、51番の次である52番が与えられた。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1375 | 5124 | 4170 | 588 | 1088 | 24 | 334 | 71 | 265 | 30 | 602 | 57 | 588 | 35 | .261 | .360 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。