「棺を蓋いて事定まる」
ナベツネをあえて辛口評価する

それでもナベツネにあえて送る“辛口すぎる”追悼2014年、中曽根康弘元首相の96歳の誕生日を祝う会で乾杯の音頭を取る渡邊氏 Photo:JIJI

 死者に鞭打つような追悼記事は、大抵「炎上」します。書く人間も面倒なので、死んだらすべて「いい人になる」のがこの国の傾向です。しかし本来、死者を評価するのにふさわしい日本語がありました。「棺を蓋いて事定まる」。人間の価値は、その人の人生が終わってから確定するものだという意味ですが、そこまで踏み込む記事は減りました。

 今回は、昨年12月19日に亡くなった渡邉恒雄・読売新聞主筆(本当の肩書は、株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆ですが、何度かインタビューしたとき、事前に「絶対社長じゃなくて、主筆と言ってください」と念押しされたので、「主筆」の肩書を優先します)について、ジャーナリストとして、メディアのリーダーとして、そして野球界のリーダーとして、3つの側面から棺を蓋いて定まった評価を、自分の体験から書きたいと思います。

 私が渡邉氏と初めて会ったのは1990年ころでした。当時は、土井たか子社会党がマドンナ旋風と言われた女性議員の当選ラッシュで政権を奪う勢いでした。しかし、当時の社会党は北朝鮮と極めて近い関係の議員が多く、この政党の政治資金が北朝鮮とパチンコ業界から流入しているという実態は、大メディアは全く書きません。

 それを厳しく追及したのが『週刊文春』であり、私はそのチームの一員として初めて渡邉氏と会いました。就任したばかりの田中健五文春社長と一緒にです。

 渡邉氏は筆頭論説委員長で副社長でしたが、社内での権力は絶大で、「週刊文春を応援してやってくれ」と、読売新聞の政治部長ほか各部の部長を全員そろえて、昼食会を開いてくれたのです。この時代は、朝鮮総連の団結力が強く、批判的な記事に対しては厳しい糾弾行動を起こすため、各社は書くこと自体を躊躇していました。

 実際、週刊文春には記事掲載中、毎日300人前後の総連関係者が抗議に訪れ、編集部には「差別記事だ」という抗議電話が鳴り響いていました。考えてみると、渡邉氏はすでに60歳を超えた読売の大幹部。私はまだ30歳そこそこのペイペイの記者です。その上、相手は全員、新聞の部長クラス。会食は渡邉氏が一方的にしゃべり、「なにか支援の記事を書けよ」という氏の言葉で終わりました。