人間はいつの時代も、“理想”という幻を追いかけてきました。 それは遠い星のように輝いていて、手を伸ばしても届かない。 でも、届かないからこそ、人はそこに希望を見いだすのかもしれません。 ただし、理想という言葉には、どこか奇妙な甘さと危うさが混じっています。 それを語るとき、人はしばしば現実から目をそらし、 人間の弱さや愚かさを「ないもの」として扱おうとする。 つまり、“人間であること”を忘れてしまうんです。 綺麗ごとを並べるほど、現実はますます濁って見える。 「正しさ」を声高に叫ぶほど、誰かがその正しさの外側へ追いやられる。 それでも、私たちは懲りずに理想を掲げ続ける。 それは多分、人間の性(さが)であり、同時に逃避でもあるのでしょう。 けれど――、理想を語るたびに思うんです。 それは本当に“未来への道しるべ”なのか? それとも、“現実を直視したくない心の飾り”なのか? まるで、痛みを覆う絆創膏のように、 理想という言葉が、現実の傷口をきれいに隠してしまう時がある。 そんなことを考えていると、ふと笑ってしまうんです。 人間はどんなに立派な理想を掲げても、結局は泥の上に立っている。 だからこそ、理想が輝く――泥があるから、光が映える。 それを忘れて“泥を否定する理想”を語り出した瞬間、 その理想は、もう現実から切り離された紙芝居になってしまう。 それで、理想像? お花畑が描く理想像なんて、絵に描いた餅ですよ(笑) 保育園の紙芝居! どうです、例えば『ジュラシック・パーク』をこれでやったら? とんでもなく退屈なものになりそうですよ(笑) そういうものが良いと言ってる人たちが信じられないんです。 みんな、人間である以上、いろいろあったんですよ。 逆に、そこをわかってあげないと「天才」も可哀想ですよ。 人間とは全く違うナメクジやアンコウがもし小説を書けたら、 最初は、これは違う!と思えるかもしれませんが、 共感できる部分は少ないかもしれません。 それに、アンコウは悪さをしませんが、ナメクジはします! そんな場合も、お花畑理想主義の人は、たぶん、 「コイツは倫理的にダメだ」と言うんですよ(笑) ナメクジを批判してるというより、自分をナメクジのレベルに 引き下げてるみたいなもんですよ。 そこで質問ですが――、 私たちは本当に「理想」という名の紙芝居を、まだ信じていられるのでしょうか? 誰もがきれいごとに飽き、現実の泥にまみれながらも、それでも「善くありたい」と思う。 その矛盾こそが人間らしさだとすれば、 理想とは“清らかな世界”ではなく、“汚れを引き受ける覚悟”のことなのかもしれません。 では、あなたにとっての「理想」とは、どんな顔をしていますか? ๑๐/๑๒