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どうして東映のヤクザ映画(任侠映画とも)は1960年代から続く看板作品となったのですか?

日本映画66閲覧

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回答(2件)

質問者さん、だいぶお詳しいので、釈迦に説法ですが、社風として、どこまでも真面目な「東宝」、喜劇が持ち味の「松竹」に対して、「東映」は痛快活劇を得意としていた訳です。 それは映画村のように、観客にワンシーンだけ切り取って見せるなら、チャン、チャン、バラバラを見せてこそだろうという姿勢からも窺えるし、同じ特撮でもあくまでも反戦というテーマを求める「ゴジラ」を作る東宝と、子供が心から楽しめる「ライダー」や「戦隊シリーズ」を作り続ける東映とを比べたり、同じ原作を使っても、片や純文学作品の香り漂う東宝とあくまで任侠に拘る東映の「青春の門」を見ても明らかです。 時代劇のチャンバラを、現代劇の子供用特撮アクションに置き換え、ではそれを大人用現代劇に置き換えるとすれば? と言えば、法律という理屈が必要な刑事物は社風にあわず、もっと自由に暴れ回れる無法地帯、つまり、任侠物に落ち着くと、そうした理由だと思います。

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東映のヤクザ映画(任侠映画)が1960年代から看板作品となった理由は以下のようなことが考えられます。 ・岡田茂が東映東京撮影所の所長時代から、架空の暴力団組織を題材にしたヤクザ映画の製作を開始し、大量生産によりヒットさせた。 ・岡田が東映の社長になると、京都撮影所でも江戸時代の侠客を題材にした侠客映画を製作するようになり、現代ヤクザ映画と合わせて二本立ての上映が一般化した。 ・1970年代以降は実在の暴力団を題材にした実録モノのヤクザ映画に路線を変更した。 ・1990年代からはVシネマ(オリジナルビデオ)を中心に展開するようになり、ヤクザ映画の主力がVシネマ向けとなった。 このように、東映はヤクザ映画の製作を長年継続し、時代に合わせて媒体や内容を変化させながら看板作品として育ててきました。岡田茂の長年のライフワークであったことが伺えます。

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