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どうして東映のヤクザ映画(任侠映画とも)は1960年代から続く看板作品となったのですか?
どうして東映のヤクザ映画(任侠映画とも)は1960年代から続く看板作品となったのですか? この戦略は岡田茂が東映東京撮影所の所長時代から初め、最初は、出てくる暴力団組織やストーリーも架空のものであり、大量に作られる程ヒットしました。大川博が亡くなったのを機に岡田が東映の二代目社長になると、時代劇を主に手がけている太秦の東映京都撮影所にまでヤクザ映画の力が及び、江戸時代までのヤクザにあたる侠客を主題とした侠客映画を積極的に製作するようになり、現代劇ヤクザ映画の二本立てでの上映が一般的になりました。その頃からテレビ映画もNETテレビ独占供給から全民放テレビへの供給に変更された頃です。ヤクザ映画に親しみがある世代は、三社の結束(東京映画配給が太泉映画や東横映画を吸収合併した会社)を表した岩を移したものを荒波で表現した東映のビデオロゴ(現行のものはアメリカが製作したCGアニメ)が漢をイメージされるものとして親しまれています。 日本映画界が斜陽化した1970年代から1980年代は、ヤクザ映画も実在する暴力団を題材とし、実際の暴力団抗争を映画化した実録モノヤクザ映画に路線を変更され、京都製の侠客映画も製作されなくなりました。その頃から劇場用映画の配給からテレビ向け作品も含んだ映画作品の製作を本業にシフトした頃であり、ヤクザ映画の作風は特撮児童向けドラマや東映本体が制作主事のテレビアニメにまでおよび、悪役組織が活躍するシーンの露骨な映像化や、悪役キャラのきつめな発言、ヒーローと悪役との激しめの戦闘シーンがヤクザ映画の要素を採り入れています。『快傑ズバット』に至っては、ヒーローとヤクザとの戦闘を主題とした作品となっています。 1990年代からヤクザ映画も劇場用から東映Vシネマ(東映本体が製作したビデオ映画を東映ビデオが販売するオリジナルビデオのブランド。商標も東映本体と東映ビデオが共同で保有する。)に軸足を移し、この頃から東映の劇場用映画も誰でも楽しめる映画を主力とするようになり、東宝と同様の外部が制作した映画も増えました。すなわち、東映配給映画は、東映グループが製作した作品と、グループ外が製作した映画と半々なのが現状です。そのため、長い歴史を誇り、市民権を得た東映ヤクザ映画がオリジナルビデオを中心に展開されると、オリジナルビデオそのものが市民権を得るまでに成長し、商標の「Vシネマ」がオリジナルビデオの代名詞となるほど普通名称化したのは、東映ヤクザ映画の主力が東映Vシネマ向けを主体としたからこそなせる技だそうです。その事もあり、オリジナルビデオを手掛ける競合他社にまでヤクザ物に手を出すようになりました。 このように、東映ヤクザ映画も時代に合わせて媒体や内容が変わっていくことが解りました。東映ヤクザ映画も岡田茂のライフワークとなっている事が伺えました。
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