回答(2件)
出ません。 これだけじゃ何だからおまけ。暇だったら読んで下さい。 天平9年737年の記録上、天然痘の最初の犠牲者は新羅への使者たちで あった。 一般的には使者たちが日本に天然痘を持ち込んだと言われているが、実は そうではないと考えられる。 万葉集に、大宰府から新羅へ向かう使者が壱岐で鬼病で死んだという 記載がある。その人を看取った後、一行は対馬へ行ったがそこでばったり 和歌の集録が終わる。つまりこの使者たちは帰って来る時ではなく 新羅へ向かう道中で病死者を出していた。 天平9年737年はおそらく第2波。735年の第1波のウイルスが大宰府に 残っていてそこで感染したと思われる。 新羅側の記録は残っていない。使者たちは新羅へ着く前に日本に 引き返したか、あるいは追い返されたと推測される。 次に、感染者の記載があるのは続日本紀・・・使者の一部が都に戻って きたという記事が天平9年737年の正月に出てくる。 本来、諸外国に派遣された使者はすぐに都に戻り復命をしなければ ならないが、この時に戻ってきたのは使者の三等官(ナンバー3)であった。 一等官は帰りに対馬で死んだ。二等官は病が重く都まで帰れないと記載。 それでも正月が過ぎた後はしばらく疫病に関する記事は出てこない。 ところが4月に大宰府(九州)管内で沢山、人が死んでいるという報告が 朝廷に入ってきた。当時の政府(朝廷)は役人が病で倒れたため 政務不能状態に陥った。4月(旧暦では夏)には都中で疫病が蔓延した。 当時、平城京大極殿の前で政務を行っていたが、これができなくなった。 死者数は秋になっても減少せず、流行は冬になりようやく一段落した (集団免疫ができた)。
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