東京のスリバチとは
東京の都心部は武蔵野台地(洪積台地)が東京湾に迫り出した東の端に位置しており、その台地は西から東へ流れる川の浸食作用によって刻まれ、七つの丘が連なる特徴的な地形を形成している。武蔵野台地は透水性の悪い泥岩からなるため、浸食地形は段丘状の谷が密に刻まれるのが特徴である。高低差一〇─二〇メートルの谷は、鹿の角のように枝分かれし、台地の奥へとフラクタル状に入り込んでいる。
東京は坂の町と言われているが、多くの坂は対になっており、台地から眺めた場合、反対側の台地を望む、窪地状の坂が多く確認できる。東京の坂の多くは窪地へと続く坂である。台地に食い込む谷頭は三方向を台地(丘)に囲まれるため、「スリバチ状の谷戸」を形成しており、無数の丘と無数のスリバチが織りなす微地形を下敷きに、都市化の歴史を歩んできたのが東京の特徴と言える。
東京でのまち歩きを楽しんでいる方なら、高台から坂道へと下りる時、視界が一気に開ける開放感にたびたび出会っていることだろう。そして多くの場合、彼岸の丘の足元には情緒溢れる「下町」が静かに佇んでいることにもお気づきのことと思う。
山の手と対比して下町と呼ぶ場合は、主に海抜ゼロ─数メートルの沖積低地のエリアを指すが、台地に刻まれた
東京スリバチ学会のフィールドワーク
ぶらぶら歩きの楽しめるヒューマンスケールの下町が
まず第一に、山の手と呼ばれる台地と、スリバチと呼んでいる下町では、町の様相が激変する。台地には区画が大きく広い敷地を生かした、大学・病院・官舎、そして高級住宅地が立地し、台地の
余談ではあるが、社寺のなかにはミサキとは対称的に、丘の森を背景に
第二に、まるで地形を増幅するように建物が大地から立ち上がり、東京のユニークな地形を強調するような都市景観が生まれつつある。高台に建つ高層建築とは対照的に、スリバチの底には地面に貼り付くような低層高密度な街並みが広がっている。台地から下町へと下りる坂道や階段に立った時、広い空の足元には、「甍の波」のように、スリバチに群生するかのような下町の光景が広がっていることがある。一方、都心部の超高層ビルはほとんどといってよいほど、台地や丘に立地している。この「スリバチの法則」からすると、東京ではスカイラインを見れば足元の地形が概ね想像できるのである。「スリバチの法則」が顕著な港区あたりでは、スリバチを囲む丘に高層ビルが連なり、文字通り「劇場のような都市」の景観が創られつつある。
再び余談であるが、東京都心の超高層ビルからの眺めはよい。ニューヨーク・マンハッタンのように眺望を遮るお隣さんが少ないからだ。実はスリバチが丘を隔てているため、丘の上に建つ超高層ビル群に適度な距離を与えているのである。多くの超高層ビルは「スリバチ・ヴュー」である。
第三に、東京の
またまた余談であるが、風を頼りに旅をする動物は多い。スリバチ探索には大地の奥底から聞こえてくる「水の歌」に耳を澄ませることにしている。都心を徘徊中、水琴窟のような音を足元に聞いた場合、近くにはスリバチが潜んでいるはずである。
1──東京都心のスリバチ分布図 筆者作成
スリバチの類型
台地を刻んだ東京の
1 公園系スリバチ
清水の湧き出るスリバチ状の谷戸は、江戸時代は自然を凝縮した風光明媚な庭園として、広大な武家屋敷の一部に活用された。屋敷自体は尾根道からアプローチする台地に構え、南向き斜面に刻まれた渓谷、渓流のスリバチが格好の大名庭園として好まれたようである。江戸の幕藩体制が解体し明治新政府に変わっても、武家屋敷の大きな区画はそのままに政府系施設や皇族・華族の屋敷、大使館などの受け皿として用途変更がなされてきた。民間に払い下げられた区画も大規模な造成が行なわれることなく、自然景観そのままに大企業の迎賓施設やホテルの庭園へと変わっていった。なかには公園として開放されたものもあり、スリバチのオリジナルに近い地形を現代の東京でも観察できる。
[都内でスリバチ元地形を観察できる例]
●新宿御苑(旧大和藩内藤家中屋敷、渋谷川の源流地)
●有栖川宮記念公園(旧盛岡藩南部家下屋敷)
●清水谷公園(旧紀伊藩上屋敷)
●国立自然教育園(旧高松藩松平家下屋敷)
そのほかに、椿山荘、高輪プリンスホテルの庭園では湧水のあるスリバチ地形を散策可能である。
[そのほか、公開はされていないがスリバチ地形が敷地内に残されている(と思われる)例]
●赤坂迎賓館(旧和歌山藩徳川家上屋敷)
●フランス大使館ほか、多くの大使館の庭園
●泉岳寺や東禅寺など、坂の下の境内
2 下町系スリバチ
江戸時代、山の手の洪積台地が主に武家地や社寺地に土地利用されたのとは対照的に、沖積低地の下町は町人地としてゾーニングされていた。ただし台地に切り込んだスリバチ状の谷戸の一部は、水はけが悪いためか都心部にありながらも宅地化が遅れ、明治以降の急速な都市化のなかで後発的に宅地開発が進められてきた。台地の大きな区画が時代のニーズに即応するため、その地割を変えることなく必要とされた都市機能にコンバージョンされたのと同じように、スリバチ状の谷戸に立地した下町も、地割の変更をともなうことなく新陳代謝を繰り返した。今日見られる下町としての街路型骨格は、谷戸に町が最初に生まれた頃の都市構造を今に伝えているものである。下町と呼ばれるこれらのエリアがまち歩きに人気なのは、小さな木造家屋や路地から漂うノスタルジーからくるものだけではなく、高台の完結された開発地とは異なる、まちに溢れる生活感、「まちに住む」空気が漂っているからであろう。スリバチ地形を継承しながら都心で異彩を放つ下町系スリバチを以下に紹介する。
●新宿区荒木町:かつて松平摂津守の屋敷だった谷戸は、明治以降花街として栄え、今も隠れ里として魅力を放つ。スリバチの中心には
●本郷菊坂周辺:下級武士の屋敷や長屋のあったこのエリアは、今でも木造三階建ての建物や石畳が残る。樋口一葉が使ったといわれる井戸があることで有名。
●港区蝦蟇池近辺:かつてはボート遊びもできた蝦蟇池は、現在はマンションの敷地内にひっそり残っている。谷戸に自生するかのような木造住宅地の一角は麻布でも異次元の佇まい。
●港区聚楽園近辺:古川の支流が作った薬園坂の下に佇む静かな住宅地。ヘラブナの釣堀に利用されているスリバチ池の真っ黒な水が印象的。
●港区我善坊谷:超高層ビルの足元に広がる台地が陥没したようなスリバチで、葉脈状の路地に昭和的なまちが潜んでいる。近年、再開発がウワサされている。
2──荒木町の劇場型都市景観
筆者撮影
3──蝦蟇池の下町系スリバチの都市景観
筆者撮影
スリバチのこれから
東京都心の再開発は、丘の上の比較的大きな区画が供給されてきたため、基本的な都市構造を大きく変えることなく進行できたが、都心部の土地の有効利用を謳った再開発の波は、開発の速度が緩やかだった下町系スリバチにも及んできている。アークヒルズ、泉ガーデン、そして六本木ヒルズなどの大規模再開発は、スリバチ状の住宅地が開発された事例で、地形のアイデンティティである窪みはサンクンガーデンに姿を変え、かつて存在した湧水のある天然池やスリバチへと下りる坂道は、都心のオシャレな名所として生まれ変わったりしている。再開発事業ではしばしば、段丘状だった谷戸地形をなだらかな斜面に埋める造成が行なわれるため、かつてのスリバチの底へ至る階段が、ポンペイの遺跡のように埋もれているスリバチ新名所も発見できる。
江戸から現代の東京に至る都市開発という新陳代謝を司るDNAが、個性的な東京の原地形とも言える。一見無秩序のように見える東京であるが、その景観は特有の地形と、歴史的・文化的文脈が構造化されてきたものである。「地形の頂点に塔状の建物を築く」というのは普遍性のある集落の原理であるが、これだけ高密度に地形が建築群によって可視化されている都市はめずらしく、しかも現在進行形で絶えず観察と発見の機会を与えてくれる都市はほかにない。無数に存在するスリバチ地形と景観形成のダイナミズムは東京固有のかけがえのない財産と呼べそうで、世界遺産にも値するのではと本気で思ったりもしている。
表層では歴史的断絶があるようでも、ダイナミズムの構造は「いにしえ」から変わっていない。山あり谷ありの東京を歩く度に、デジャ・ヴュのように何処かで見た都市景観に襲われ、東京の足元に潜むスリバチが、無限に存在しているかのようにも思える。多くの坂道をもち、運河も発達した東京は、サンフランシスコとヴェネツィアの魅力を併せ持った町だと思っていたら、町のあちらこちらにはモン・サン=ミッシェルまで存在していた、といった感じである。
4──建築による新しい地形(六本木)
筆者撮影
5──東京の坂道の多くは、スリバチへ至る坂道でもある
筆者撮影
6──地形図を使って東京を水没させると、7つの丘と樹枝状に発達した谷戸(スリバチ)が浮かび上がる。東京都心が位置する淀橋台(千代田区西部・港区・新宿区・渋谷区の一部)は、東京のなかでも特に坂やスリバチが多い。
作成=東京スリバチ学会