東京、一九の生活
本稿は一九九五年現在東京に生きている一九人の都市生活のレポートである。東京大学建築学科高橋研究室では、建築計画と環境行動研究の立場から、人間と建築、人間と都市の関係についての調査・研究を続けてきた。私たちは都市の価値はその街で日々営まれる生活の質そのものにあると考え、物理的な建築・都市空間だけでなく、そこに住まう様々な生活を通して東京の都市空間を語ることを計画した。東京は一見繁栄しているようだが、その物質的な豊かさは必ずしも生活の豊かさにつながっていない面が多々ある。世界有数の規模と人口を抱え、超近代と発展途上とが同居し、質や性能の異なる構築物が混在している街である。また近年は、社会の急激な変化、価値の多様化、電子ネットワークに代表される新しいメディアの普及などによる都市生活の変容に、住居、公共施設などの従来の建築のビルディング・タイプが対応しきれてないのではないかという議論も盛んになってきた。また単に今後必要とされるビルディング・タイプは何かというのではなく、個人が都市に生活を組み立てるための資源という点から、都市を構成する要素(場所・もの・人・ソフト)を点検する必要がある。
東京に住んでいても、他人がどんな生活をしているか見えにくくなっている。最近急増している外国人など、従来のカテゴリーでは説明できないライフスタイルもあるし、子ども、学生、主婦、サラリーマン、老人といった属性を持ちながら、私たちの想像を大きく超える生活を展開している人がいたりする。そして、そうした見えにくい状況の中でも人々は確実に生活の痕跡を町に刻み続けている。
このような問題意識をもとに、本稿では現代の東京で、どのような人が、どのようなもの(都市のハードやソフトあるいはメディアなど)を使ってどのように生活しているかを、なるべく視覚的に表わすよう試みた。これは現代の都市生活に相応しい環境を計画していくための基礎作業としても位置づけることができる。取り上げた一九人は、筆者らの知人や研究調査で出会った人々である。なるべく様々なタイプの東京の使い方が浮かび上がるように選んだつもりである。ランダム・サンプリングを用いたわけではないので、彼らが厳密な意味での東京に住む人の代表というわけではないが、すべて間違いなく今東京に生活している人々であり、現代の東京のある典型を表現していると考えられる。
生活と都市空間
拡張された生活と集約された生活
東京は「都市西進」の法則を裏切ることなく拡張し続けている都市である。
「case07」、「case08」はそんなフロントラインに住む夫婦で、その東京の使い方はきわめて広範囲にわたる。夫の職場は出版社で、情報収集のためには都心に職場があることが不可欠である。彼は毎日渋谷まで電車で通うこととなるが、その通勤路はまさに東京を横断する旅である。生活のかなりの時間を通勤に費やすことを強いられる。一方、専業主婦である妻は、特に外出する用事がなければ新しく作られた町の中で一日を過ごす。地方都市に匹敵する規模を持つこのニュータウンは、大手のデパートも進出し、たいていのものが手に入り、学校をはじめ生活に必要なほぼすべての施設が揃っているが、オフィスだけは都心に集中している。サテライトオフィス、自宅勤務など一極集中を解消しようとする動きはあるが、face to faceの情報のやりとりを基本としたビジネスのスタイルが主流な現状では、郊外にいくら充実した住環境が生まれようとも、「都心詣で」はさけられない。東京は拡張を続ける都市であるが、その中で都市機能は分極化が進み、社会活動の系は拡大する一方である。これが一通りの都市機能が一定地域内に揃っている地方都市と、大きく異なる点となっている。新しい町の中で組み立てられる妻の生活と、都市部までもが組み込まれた夫の生活。起点を同じにしていながら展開している環境は大きく異なる。
こうした職住が極度に分離したモデルに対して、「case12」は対照的に職住が近接している例である。彼は父親と二人で自宅の隣りにある工場を経営をしている。職住近接というより職住隣接である。またこれは親との二世帯同居が実現した環境だともいえる。また周辺地域は似たような小さな工場が集まっている地域で、お互いの製品を利用しあうなど、製品が完成するまでの流通の系も小さく、全体でひとつの工場のようである。職住近接、二世帯同居、産業地帯とすべてがまとまった集約的な環境である。
「秩序」と「混沌」のはざまで
東京は計画と非計画が混在している街である。そして、そこに生活する人々が都市空間で組み立てる環境の中には、この二つの姿が見え隠れする。
「case13」の女性は新宿副都心にある都庁に勤めている。都庁の完成で東京の顔となった感のある新宿副都心だが、そこで働く彼女の一日は決してハイパー・ビルディング街の中で完結しているのではなく、昼食やアフターファイブは周辺の町に繰り出すこととなる。副都心の計画的な整然とした街並みとその脇に横たわる非計画的な雑然とした町、彼女の日々体験している都市空間の中にはこの二極が同居している。
この二極のいずれかだけを用いて作られた環境もある。「case01」と「case02」はそれぞれ、下町と団地の子どもの放課後の遊び場を追ったものである。子どもの場合は行動領域が住居の周辺に限られることから、子どもの遊び場環境はその周辺環境を顕著に反映すると考えられる。ここで取り上げたのは昔ながらの環境が多く残された下町と大規模に開発された集合住宅である。スケールもテクスチャーも大きく異なる環境であるが、それぞれ子どもなりに自分たちにあったスケールの空間を見つけ、遊び欲求を充足している。異なる都市空間の中で、同じ原理で構築される世界である。
移動手段で変わる東京の地図
「case07」の夫の、郊外から都心までの広域な生活の広がりを可能にしているのはひとえに通勤電車という大量交通機関である。移動手段はその人と都市の関わりを決定する重要な要因である。利用している移動手段によっても東京の使い方は変わり、その人にとっての東京の地図は変容する。
「case05」は八王子で一人暮らしをする大学生である。オートバイを愛用する彼がよく利用するのはロードサイドショップである。ロードサイドショップは深夜まで営業しているものも多く、生活が不規則な彼にとって使いやすいものとなっている。彼の日常の生活の中から浮かび上がってくる都市空間は、駅中心の都市構造とは相容れない。
「case16」の日本橋に住む女性は五○歳を超えて自転車に初めて乗った人であるが、自転車という交通手段を手に入れることによって、彼女の都市の使い方は急変した。自転車は地形を強く感じることができる乗り物である。彼女にとって東京の地形は生活を展開する範囲を決定する重要な要因となっている。
「case15」のOLの出かける場所は野球場やサッカー場、飲食店と、いずれも電車ですぐ行ける所である。彼女の行動の下敷きになっているのは、デフォルメされた東京の路線図であろう。
東京の都市空間をインフラの側から見つめている人もいる。「case15」のタクシードライバーの主な就業時間は深夜であり、移動する範囲も鉄道と鉄道の谷間を縫うような形になる。都心からいかに遠くまで客を運ぶかで一日の収入が決まってくるため、夜の人の動きをよく把握しており、盛り場や夜遅くまで明かりが煌々と灯る官庁街を中心に回っている。彼の巡る都市は鉄道など大量交通から見る都市の裏側である。
都市をつくる人の生活
「case11」のトビ職は都市のインフラを作ってきた人で、彼の足跡はそのまま都市のインフラの歴史でもある。現在携わっているのも都心の超一等地の大プロジェクトである。
全国の現場を転々とする彼は仲間と共に宿舎に寝泊まりし、毎日そこから現場に通っている。そのライフスタイルは、現場が都心であっても、山中であっても変化することはない。現在の現場も銀座まで歩いていける位置にあるが、現場と宿舎を往復するコンパクトな生活の中には何の変化もない。ある意味で彼の生活は都市から乖離したものであるが、都市を支える人の現実の生活に違いない。
都市空間と人のつながり
人のつながりと都市の広がり
「case03」は都心に近い住宅地である成城に住む中学生である。学校では陸上部に属しており、塾と絵画教室に通っている。また友だちの影響で最近はパソコンネットを始めた。彼の交流関係は学校、クラブ、塾などその先々ごとで少しずつ重なりながら展開している。そしてパソコンネットの中には、まだ会ったことのない友だちがいたりする。
パソコンネットもひとつの場であると考えたとき、彼をとりまく環境は、初めに場所ありきで、その中で人のつながりが生まれてくる形である。
人のつながりがその人に新しい都市空間の広がりを与えることもある。
「case14」のOLが出かける際には、場所に応じて一緒に行く仲間がたいてい決まっている。仲間に誘われ出かけていくという受け身的な動機も多い。誘われると気楽につきあうため、新しい趣味の仲間が見つかる度に、行動範囲はどんどん広がっていく。人に引っ張られる形で広がっていく都市空間である。
きわめて閉鎖された系の中で完結する人のつながりもある。「case06」は留学生の妻であるが、その交流関係は自宅近郊に多く住む韓国人が中心であり、手がかりとなっているのは留学先の大学と日曜日に通っている韓国人教会(韓国は熱心なクリスチャンも多い)の仲間である。昼間に留学生の妻どうしで、誰かの家に集まって食事をしたり、韓国のビデオや雑誌を貸し借りしたりして、お互いの家を頻繁に訪問しあっている。世界各地の中華街など、異国で単一の民族がミクロコスモスのようなコミュニティを作る例は知られているが、そこまで顕在化しない形でも東京の中には異文化のネットワークが確実に形作られている。ここで拠点となっているのは韓国人教会やお互いの住居といった日本人社会と直接関係ないものである。
人をつなげる都市の拠点
「case10」は中央線沿線に住む四四歳の画家である。彼はモデルを個人で雇うのは大変なため、画家仲間の裸婦デッサン会に参加している。デッサン会は中央線沿線のある公民館で週一回行なわれ、月三○○○円の会費を払いさえすれば参加は自由である。このデッサン会は公民館から場所を借りて運営を任される自主サークルで、本格的に絵画に取り組んでいる人たちの集まりである。他にも公民館が運営しているカルチャースクール的なものがあり、参加の動機も余暇の利用やメンバーとの懇親を目的とするなど様々なスタンスがあるが、いずれにしても公共施設がネットワークの拠点となっている。
近年の公共施設がサークル活動のために提供する空間は会議室のようなプレーンな空間だけでなく、音楽室、アスレチック施設、工作室、コンピュータなど、特殊な利用に限定された空間も含まれるようになっている。一方社会人に余暇が増えたとは言え、まだまだ勤務時間の後に利用したりするためには利用時間の制限が伴う場合も多い。こういった施設を有効に運営していくには利用者に合わせたプログラムの再編も求められている。
何らかの枠組みの力を借りることなく、一般に開放された空間を拠点に自由な人のつながりが生まれる場合もある。「case09」の少年は週末になるとスケートボードをもって「秋葉原駅前広場」に出かける。電気の街の秋葉原のど真ん中にぽっかりと出現したボイドは、まわりの電気街とは全くの異空間で、一○代の若者が「3 on 3」やスケートボード、ローラーブレードを楽しんでいる。学校も年齢も違うが、ここにはスケートボードを通して知り合った仲間がいる。自然発生的に出現した「サークル」である。
都市の中である程度アクセスしやすい環境にあり、自由にこうしたスポーツができる場所は限られている。スケートボードなどはある程度の広さが必要なこともあり、都市の中で遊ぶことが可能な場所にはこうした仲間の拠点となっているところがいくつかあるようである。池袋のビルの足元の公開空地にも自然発生的に集まったグループが誕生している。
「東京1995」の読み方フィールドワークをもとに作成され各ヴィジュアルは、以下の要素によって組み立てられています。
属性に左右される都市のアクセシビリティ──単数と複数
都市の中には二人以上なら気楽に行くことができるが、一人だと浮いてしまい居づらい場所が多々ある。そこにいる人物に、あるタイプ化されたキャラクターや居方以外を許容しない雰囲気がその場所にある場合も多い。
「case14」のOLが仕事の後に出かける際には、場所に応じて一緒に行く仲間がたいてい決まっている。この女性がよく利用している場所のなかにも、おしゃれなレストランなど、彼女が一人ではなく複数の仲間と行くことによってアクセスしやすくなっている場所がある。その人の持つ属性によっても都市空間は変容していく。
「case05」の八王子の大学生がよく利用するのは深夜まで営業しているロードサイドショップである。生活が不規則で、移動手段としてオートバイを利用する彼にとって、ふらっと一人で入りやすいのはこうした店である。ロードサイドにある店の多くはチェーン店であり、同じ系列ならどこに行っても同じ作りで、同じサービスを提供しているのが特徴である。看板を見ただけで大体の勝手が分かるという安心感も、一人で何気なく入りやすい状況を作っている。
子ども連れ
「case06」は夫の留学について来日して三年になる韓国人の女性である。彼女の交流関係は留学生や韓国人教会の
同胞を中心としたものであったが、子どもの誕生が彼女をとりまく環境を一変させた。子どもが幼稚園や小学校に通うようになると、日本人社会との接点が生まれ、子どもを媒介として日本人の知り合いが増えていく。この女性の場合も子どもの成長とともに公園が生活の中でよく使う都市空間として浮かび上がってきた。
子どもの誕生によって都市の中で展開されていた生活が大きく変わることは外国人に限ったことではない。
「case12」の夫婦はマリンスポーツを趣味とし、かつては休みごとに海に繰り出していたが、子どもが誕生してからは海から遠ざかり、休日に出かけるのは公園や遊園地など子ども主体の場所である。また住居にも子どものためのぬいぐるみなどが増え、以前よりファンシーな雰囲気になっている。
育児において「公園デビュー」という言葉がある。これは子どもを初めて公園に連れてきて遊ばせることを指す言葉である。公園に一人でいてもなかなか知り合うきっかけがないが、連れている子どもがきっかけとなって知り合いになる例もある。子どもの存在が環境の中でのアクセシビリティを高めていると言える。しかし育児雑誌の中ではさらに「公園デビュー」させるにあたっての服装や、一緒に遊んでいる子どもにプレゼントするお菓子、子どもの名刺、他の母親への挨拶など、実に細かくその手順が紹介されている。ここにも都市空間の中での居方が自由ではなく、ひとつの居方以外を容認しないという貧困な現状が垣間見える。
電子ネットの中での属性の呪縛
最近急速に広まったパソコン通信は距離や組織を超えたネットワークを生み出した。都市空間と異なり、電子空間の中で出会う人は顔も詳しい属性も、場合によっては性別さえも分からない。そういった属性にとらわれず自由にアクセスし、交流を広げることができるのがパソコンネットの魅力であろう。ただ属性にとらわれないでコミュニケーションが図られるというのはつきあいの初期であって、いろいろやり取りするうちに相手の属性が次第に浮かび上がってくるものだという。
「case04」の少年はパソコン通信を通して、多くの人とつながりをもっている。彼はやりとりが進むうちに自分が子ども扱いされるのが不満で、ついに自分の力で子どもを中心としたパソコンネットをつくるに至っている。
環境の持つ可能性
三人の老人に見る環境との関わり方
居住者が自分の周りの環境に働きかけていくスタンスはその人の属性や周辺の環境により違いがある。
「case17」の女性は東京の下町に住み続けて五六年になる高齢者である。夫と死別した後も一人暮らしを続けている。この女性の一日をたどっていくと、朝から晩まで、地域の様々な施設を利用し、その先々に話し相手や仲間がいるという、充実した地域社会が浮かび上がってくる。しかも地域のしがらみに拘束されているわけではなく、参加しているクラブ、サークルなど定期的活動は自分で選択したものである。図には記されてはいないが、隣町まで足を延ばすなど、活動も地元だけに完結するものではない。
このように自分の周辺の地域の中に様々なアクセスポイントをもち、その先々で交流の場を広げる周辺環境との関わり方を高橋鷹志は「のらネコ型」と呼んでいる。これは近所のあちらこちらの家庭でかわいがられるのらネコになぞらえたものである。
周辺環境に対して「のらネコ型」の関係を構築するためには地域の中に様々な仕掛けが必要である。長年にわたって住み続けられた下町の中には、自分の生活スタイルに合わせて自由にアクセスできる場所や、自分でつきあい方の幅を選択できる仕掛けなど、現代の建築計画に対する多くの示唆を含んでいる。
行動領域に関して「のらネコ型」の対極にあると思われるのが「case18」である。この店の主は一日のほとんどを店の奥の定位置で過ごす。そこは店内と前の通りを歩く人がよく見える位置であり、店先を通り過ぎる人は皆主人に挨拶をする。この主人は二代にわたってここで履き物店を営んでおり、商店会の会長も務めるなど商店街でも広く顔を知られた人物である。商店街のキーパーソンであり、自分から出向かなくても商店街の情報は自然と伝わってくる。
このように居ながらにして周辺の地域の側からの働きかけで人のつながりが保たれる例を、高橋鷹志は「出前型」と呼んでいる。この例はやや特殊な例であるが、今後、一人暮らしの高齢者が増加していくことを考えたとき、周辺地域ネットワークからの働きかけで構築される環境というものも考えていく必要があるであろう。
高齢者はある限られた地域の中で活動している人ばかりではない。「case16」の女性は六○歳を超えているが、その活動の範囲は山の手線の内側全般に及ぶ。そしてその移動の手段となっているのは自転車である。五○歳をすぎてから自転車に乗り始めた彼女は、地図を頼りにしない気楽なサイクリングで、行動範囲を広げてきた。新聞の片隅に載っていた小さなコンサートや、大使館主催の小さなイベント、サイクリングの途中でちょっと立ち寄ったギャラリーの個展など、ちょくちょく顔を出しているうちに次回以降の案内状が送られてくるようになり、そのつながりから大使館のインフォーマルなイベントなどにも参加するようになっている。先に挙げた「のらネコ型」の生活環境に比べると、開拓するのにエネルギーを要する環境であるが、バイタリティによっては都市の中にはまだまだ多くの可能性が埋もれていることを窺わせる例である。
生活を展開させるきっかけ
今回のプロジェクトを通して、公共からも民間からも、計画や供給の対象と考えられていないもので、実は都市の中に個人が生活を展開させるための重要なきっかけとなっている「もの」がたくさんありそうなことが分かった。たとえば人自体もネットワークの手がかりとなるものである。「case14」のOLの何となく現われる同好の士、「case18」の商店の主、「case06」の連れている子ども、これらは計画やデザインの対象ではないと言われそうだが、こういった人たちへのアクセスは構築環境の計画によって左右される部分があると思われる。また本来の機能とは違った意味で関係を発生させている空間のあり方も見逃せない。「case09」のスケボー少年の集う秋葉原駅前広場(暫定的な広場)がこれにあたる。
環境の質をどう表現するか
従来、人の住む都市空間を客観的に評価していくためには人口密度や、地域内施設の数、建物の平均床面積といったものが用いられてきた。当然こうした尺度を用いて評価できる地域の価値もあるが、それ以外にも、地域を評価するためには、その都市空間の中でどのような生活環境を組み立てていくことができるのかといった観点も含まれるべきであると考えられる。こうした評価軸を獲得するためには、環境の質をいかに一般性をもって表現していくかが今後の課題である。今回のレポートでは東京に住む一九人を対象に、それぞれが都市空間の中で構築している環境を視覚的に表現することを試みた。こうした作業は生活者にとっての環境の質を表現していく方法を探る作業であると捉え直すことができる。
ステレオタイプなき都市の生活
今回のプロジェクトを進めるにあたって、我々はひとつのいかにもありそうなライフスタイルを表現してみることにした。一九人のうち、実は最後の一人は偽物で、それが「case19」のはるか遠方から都心に通うサラリーマンである。「企業戦士と呼ばれ、趣味もなくモーレツに働き、日本の高度成長を支え、ついに待望のマイホームを手に入れたものの、はるか郊外であり、住宅ローン返済のために今日もラッシュに揉まれながら都心をめざすサラリーマン」がモデルである。このモデルに近い人物を求めて我々はかなりの数の知人をあたった。しかし、残念なことにこのモデルに合致するような人物を見つけることはできなかった。いざ個々人の生活にあたってみると、我々が思っている以上に、それぞれにとっての都市空間が広がっており、それぞれが特殊事例のように思われてくる。
昨年度、東京大学建築学科では計画演習の授業の一環として、自分の身の周りの人を一人取り上げ、その人の生活と生活の中で使っている都市空間を表現するという課題を与えた。ここでレポートされた人々の生活を詳しく見ていくと、簡単にはカテゴライズできない個々人の多様な生活と、それぞれに構築されている環境を見ることができた。東京には我々の発掘していない環境はまだまだある。我々の東京を記述する試みはまだ始まったばかりである。
本フィールドワークは文部省科学研究(一般A)「地域空間の環境行動的研究」の一環として実施され、台湾建築雑誌『建築師』一九九五年一二月号に掲載したものを日本向けに編集し直したものである。フィールドワークは東京大学高橋研究室の以下のメンバーによる。
監修/高橋鷹志・鈴木毅
『建築師』版監修//李威儀
調査/李乙圭・市岡綾子・岩佐明彦・大月敏雄・川鍋麻希子・小林健一・篠崎正彦・高瀬裕行・橘弘志・津野恵美子・西田徹・安武敦子
最後になりましたが調査にご協力下さった方々に厚く御礼申し上げます。
参考文献
鈴木毅「場所としての電子ネットワーク──その公共空間としての可能性」(『アーキフォーラム in OSAKA』No.2 一九九四年)
橘弘志・鈴木毅・篠崎正彦「生活の場と都市コミュニティ──多様な関係を支える都市の仕掛け」(『すまいろん』一九六六年冬号)
鈴木毅「人の「居方」からみる環境」(『現代思想』一九九四年一一月号 青土社)