どうすれば“出奔”できるんだろうか
出奔することになった。しゅっぽん。「逃げ出して行方をくらますこと」と辞書にある。武士が藩を抜けて失踪することも出奔と言うらしい。
私は武士ではなく、属している藩もないが、日常に縛られてはいる。のん気な毎日ではあるが、一応少しは役割があり、いつも座ったり寝たりする場所が決まっている。その縛りからふっと抜け出し、行方をくらますのだ。
「よし、やってみよう」と思ったが、行くあてがないのは不安である。人生で初めて利用するAirbnbで、宿泊する部屋を選んでみた。私は大阪市に住んでいるのだが、同じ大阪市の天下茶屋という駅の近くの部屋に決めた。住んでいる場所からさして遠いわけではない。地下鉄に乗ったら30分ほどで行けるような距離である。ちょっと近すぎる気もしたが、同じ大阪の、あまり知らない街だからこそ、かえってリアルな出奔感を得られるかもしれない。
部屋を予約した。Airbnbの予約は、旅行に行く時に宿泊情報サイトでホテルを取るのとは違って、部屋のオーナーとやり取りをする必要がある。私が予約した部屋は海外の方が多く泊まるからか、やり取りが英語で、パスポートの写真も送る必要があった。大阪市内から大阪市内へ行くのだが、パスポートがいる。ワクワクした。
どうやら無事に予約できたようで、そうなるとあとは決めた日に、そこに行けばいいわけだ。チェックインは16時からと指定されている。少しだけ早めに最寄り駅に着くように家を出る。
旅と出奔は似ているようで違う
天下茶屋駅へやって来た。
初めて降りる駅というわけではない。何度か取材に来た記憶がある。しかし、出奔中の人として眺める天下茶屋の街は、過去に見た同じ街とは違って感じられた。なんというか、「ここでしばらく暮らすのだ」という心の構えになる。いや、まあ、実際は一泊だけの予定なのだが、「ここにドラッグストアがあって、なるほど、こっちにスーパー。この辺が飲食店のあるエリアね」と、ここに引っ越してきた初日のような視線を向けているのに気づく。
あちこち眺めながら歩いていたらチェックインの時間になっていた。オーナーから送られてきていた案内メッセージに従って歩き、指定の方法で鍵を受け取った。
AirBnBとはこういうものなのか、誰とも会うことなく、鍵を受け取って、チェックアウト時にボックスに返して出ればいいらしい。気楽であるとともに、「本当にこの建物に自分が入っていいの?」と心細くもある。私が予約した部屋は、ずいぶん立派なビルの上階にあった。
と、ここまではほとんど“旅”みたいである。予約した宿に来て、そこに泊るのだから、旅と同じだ。しかし、上階に到着したエレベーターのドアが開いた時、やはりこれはただ旅ではないのだと感じた。
大阪の街並みが広く見渡せる廊下に、部屋がいくつも並んでいて、その中に自分の部屋がある。鍵をあけて入ってみる
予想以上にきれいな部屋で、ほぼホテルのようなのだが、キッチンがあり、洗濯機があり、どこかこう、部屋なのである。
「ここで暮らすのだ」と強く思ってみる。ダブルベッドが2つあって、「KYOTO」と書いたパネルが飾ってある。
全然自分が暮らす部屋っぽくはないが、ここで生きていく。窓を開けてみる。知らない景色だ。この景色を毎日見て生きていくのだ。
快適だけど誰かの部屋みたいな部屋
改めて部屋をくまなく見ていこう。この部屋は最大4人で利用することができて、1人で泊まっても4人で泊まっても値段は変わらないそうだった。なのでダブルベッドが2つある。洗面所にはタオルや歯ブラシが置かれていたが、それも4つずつあった。
冷蔵庫もあり、台所の戸棚には必要最小限の食器なども用意されていた。
そしてベッドの前にはテーブルとクッションとソファが置かれている。
清潔感があり、まったく不便は感じない。しかしこの、誰かの部屋に間違って入ってしまったっぽい感じはなんなんだろう。何度も言うが、ホテルに泊まる時だってもちろんほとんどの場合は知らない部屋で過ごすわけである。が、それとは明らかに違う感覚があるのだ。「出奔してきているのだ!」という気持ちゆえだろうか。
一度出かけてまた出奔先へ戻ってみる
不思議と落ち着かない気持ちを十分に味わった私は、外に出ることにした。その日、見たいバンドのライブがあった。そこに行ってまた戻ってくる。一度出かけてまた戻ってみたら、自分の居場所である感じは強まるだろうか、どうだろう。
外にでたついでに、さっき歩き切れなかった駅前の商店街も散策してみた。ここで暮らすならいつか必ず行くことになるであろう店がたくさん見つかった。
そろそろ駅に向かおうと思ったら、精肉店があった。いかにも街のお肉屋さんという感じである。
ふとひらめいた。ここでお肉を買い、今日の夕飯はキッチンでしゃぶしゃぶをして食べようではないか。本当にこの街で生きているような気持ちになれそうだ。
店を出て、知らない街を片手に肉を持って歩いている自分が面白く思えた。
「この肉を持ってライブ会場に行くのはちょっとな」と、一度、出奔先に戻り、冷蔵庫に肉をしまう。
そして私は地下鉄に乗り、ライブ会場へ向かうのだった。