
一部に、日本は中国との経済関係において全面的に依存する関係にあるから、日本は中国との間で戦争を起こすことはないという意見がある。歴史を振り返れば、こうした見方が安直で楽観的に過ぎることがよく分かる。歴史を鑑にしなければならないと言われる所以である。1941年12月、日本は世界最大の経済大国に宣戦布告して戦争を始めた。その国は日本の最大の貿易相手国であり、しかも自給不能なエネルギー資源である石油の輸入を100%依存している国でもあった。常識では開戦など絶対にあり得ない選択だが、陸軍も海軍も天皇も政府も開戦を選択して、機動部隊で奇襲攻撃をかけた。中国が日本の最大の貿易相手国であるという経済的事情は、日本が中国に侵略戦争を仕掛けないという論理的根拠にはならない。第二次大戦における独と英仏の関係を見ても同じだろう。経済関係は友好関係の第一歩だが、経済関係を深めるだけでは友好関係を深めることにはならない。

それ以上に重要なのは心の問題である。日本の国民が中国とどう向き合うかが大事なのであり、態度こそが信頼関係を築く鍵となる。それは日常の人間関係と同じであり、不信ではなく信頼を持ち合えるかどうかが友好関係を深める前提となる。両国の国民が相互に信頼を維持するためには、両国の国民と政府が両国間の基本法である72年の
日中共同声明の精神を守る必要がある。原点の誓いを忘れずに守る必要がある。いつだったか、70年代後半だったと思うが、民間と厚生省による中国残留孤児の調査と帰還の運動が始まって、第一次と第二次の残留孤児の帰還があったころ、NHKの「ニュースセンター9時」に身元不明の残留孤児たちが出演して、中国語で「お父さん、お母さん、どうして私を助けてくれないんですか」と泣きじゃくりながら訴えたことがあった。何人も何人も、男も女も。そのとき、生放送のスタジオで、NHKの女のアナウンサ-が堪えきれずに涙を流して泣いた。覚えているだろうか。

日中友好とか、日中関係とか、その原点とか、そういう言葉に触れるときに私の頭の中に浮かび上がるのは、田中角栄と周恩来の調印式や握手の映像ではなく、そうではなく、人民服を着て日本に来た皺だらけの顔の中年の残留孤児たちの悲痛な叫びであり、そして涙を流して泣いたNHKのアナウンサーの姿である。あのとき感涙で声を詰まらせたのは誰だっただろう。宮崎緑だっただろうか、メインのキャスターは磯村尚徳だったと思うが、今は正確に思い出せない。そういう瞬間があった。戦後生まれのわれわれが、侵略戦争の残痕の悲劇に生々しく立ち会い、戦争が何を残したのかを肌身で知らされた瞬間があった。「ニュースセンター9時」の中国残留孤児帰還事業の報道。あれこそNHKであり、国民のNHKの姿である。NHKの関係者はどうかそのことを忘れないで欲しい。思い出して欲しい。日中友好の最前列で奮闘尽力して立派な貢献と功績を残してきた先輩たちのことを忘れないで欲しい。日中関係はただの二国間関係ではない。

胡錦涛主席が早稲田大学で言ったように、国交回復から35年、そこには日中友好のために汗を流した人たちがいる。汗を流す前には、あの「ニュースセンター9時」の残留孤児帰還事業報道のように、われわれは涙を流した。涙を流し、汗を流したが、その前には、それに百倍千倍する中国人の血が流されているのである。すなわち日中友好には、無数の人々の血と涙と汗が染み込んでいる。だから、日中関係はただの二国間関係ではなく、経済関係に一元的に還元解消される単純なものではなく、重い重い歴史があり、歴史を抜きにしては語ることのできない関係なのである。その重さを一人一人が感じ、重い歴史の石を心の中で持ち上げなくてはいけない。それは日韓関係においても基本的に同じで、日本側の謝罪と反省の姿勢を欠いた未来志向関係などあり得ない。国と国との関係も人と人との関係と同じで、要するに国民と国民の関係なのであり、現業の実務の立場や利害以上に生い立ちと感情を持った生身の人間が国家を動かしているのである。

胡錦涛主席の早稲田大学での
講演は意義深いもので、一言一句が重要で、精読して意味を確認する必要のある両国民へのメッセージだが、中国では全土にテレビで生中継されたが、日本の夜のニュース番組で中身を詳しく取り上げた局は一局もなかった。福原愛との卓球の映像ばかりがクローズアップされて報道された。翌日の新聞に全文は無理でも要旨は載るだろうと思っていたが、朝日新聞は要旨すら掲載しておらず、日本側の報道では毎日新聞の
記事をネットで読むしか確認することができない。5年前、ブッシュ政権がイラク戦争を始めたときは、開戦前から、開戦後も、何度も何度もブッシュ大統領の戦争演説の生中継が入り、ニュース番組では長い演説映像が流され、ワシントン支局長の手嶋龍一が出ずっぱりでカメラの前に立ち、大統領の神聖演説を英語の分からない日本の臣民に解説して聞かせていた。十年に一度の中国国家主席の訪日とそこでの演説は、歴史的にも重要なものと思われるが、その言葉を日本人と日本のマスコミはどうして簡単に無視するのだろう。

早稲田大学での演説の中にもあったが、胡錦涛主席は今回の訪日で日中の青少年の交流拡大に意欲を示している。これは有意義な政策で、特に中国が大々的に投資して戦略的に力を入れて取り組むべき課題だと思われる。最近、日本の若い世代に極端に右傾化が目立つ。これは日本の責任であり、また若い世代に責任のある問題でもなく、無理もないと言うか、本屋に行けば右翼漫画家の反中嫌韓マンガが山積みになり、テレビを点ければ青山繁晴の恫喝罵倒や金美齢のヒステリーばかりが聞こえ、田原総一朗や古館伊知郎の反中プロパガンダを「中立」だと思って鵜呑みにする日本の青少年に反中反共ロボットになるなと言う方が無理がある。日本側に日中友好を牽引する若い人間が少ない。スポーツの福原愛の他に誰がいるだろう。NHKの鎌倉千秋くらいか。中国語を話せる若い日本人が少なすぎる。日本の優秀な青少年を大量に中国に招いて勉強させることだ。中国政府にぜひお願いしたいことがある。日本ではこの十年の新自由主義政策の徹底によって格差(貧富の差)が極端に開いた。

そのため、低所得家庭や母子家庭の子供は勉学の意志と希望を持っていても大学に進学できない状況になっている。どれほど学力があっても、家庭に経済的余裕がないために大学進学を諦めている子供がたくさんいる。最近、岡山駅で殺人事件を起こした18歳の大阪の少年もそうした一人で、格差社会に対する絶望と怨念が犯行の動機の一つと考えられている。そういう子供たちに優先的に光を当てて欲しい。中国は社会主義国なのだから、貧困な家庭の子供たちに教育の機会を与える政策は、きっと原理的に採用してもらいやすいだろう。ぜひ、恵まれない日本の子供たちに機会を与えてあげて欲しい。経済大国の大型投資を、貧しい日本の子供たちに教育機会を与える中日友好事業に振り向けて欲しい。裕福な家庭の子供ではなく貧困な家庭の子供を中国に留学させていただきたい。機会を与えてもらった子供たちは、きっと日中友好に貢献する人材に成長するだろう。人材交流は重要だ。今は、あまりに日中関係を壊そうとする人間ばかりが多すぎる。日本の政治家やマスコミだけでなく、日本で犯罪を犯している中国人も含めて。
5/9の朝日新聞の一面にあった若宮啓文のコラムに批判を加えたかったが、紙幅もないので次の機会にする。昨日(5/9)読んだときは、その歴史認識の出鱈目さに怒りと憤りを覚えたが、一日経って読み直すと、力が抜けて気分が萎えるだけで、批評を試みようという積極的な気分になれない。気の抜けた産経新聞と言うか、産経新聞が軟体動物になってふにゃふにゃ漂っている感じがする。その代わり、日本在住の中国人(学生)と思われるブログ読者からのメールを紹介する。
【 名前 : foggy 性別: 女 】
今の状況からみると、日中平和の実現は不可能ではないですか?
実際、先月からインターネット上でアンケート調査をやっていますが、今のところでは約8割以上の留学生の回答者が「今回のことで日本という国を嫌うようになった」という項目を選びました。
留学生は本当なら将来日中友好の実現に力を捧げるはずでしたが、いまは全く逆方向に走っています。長く日本に居れば、居るほど日本のマスコミやそのマスコミに洗脳された日本人に対する絶望感が強くなってしまいます。
日本はこれからどういう対中政策を取るでしょう? 日本にいる中国人の心すら掴めない日本は、中国にいる中国人の心を掴みたいと思っている(と言える)でしょうか?
26日に長野で国旗を振った留学生のほとんどは雨の中で涙をこぼして泣きました。その涙は中国のためではなく、日本のためにこぼした涙でした。日本という国が大好きだったからこそ、泣き出すほど悲しみます。大好きだった日本からこれだけの侮辱を受け、毎日古館伊知郎の発言を聞いてる留学生の心境は日本人には分かりません。
日本のマスコミは日中平和の破壊の種をいま埋め込みましたが、将来その種から出てきた果実を味わうのは、結局「日本」という国自身です。
本当に申し訳ないと思う。申し訳ないとしか言えない。他に何も言えないのが苦しい。申し訳ない。
【世に倦む日日の百曲巡礼】
1987年の T-SQUARE の 『TRUTH』を。 映像は1992年5月25日のモナコGPのバトル。
このレースは夜のフジテレビで実際に見ていた。セナとマンセルの歴史に残る一騎打ち。
あの頃、翌朝月曜の職場へ行くと、男たちは朝から昼休みまでF1の話題ばかりだった。
F1-GPは90年から94年までが最高に盛り上がった時期で、その主役はセナだった。
新車のプレリュードを買って嬉しそうに乗っていた男がいたね。

月に一回、日曜日の深夜に夜更かししてテレビを見る習慣は、
1994年5月1日のサンマリノGPを最後に終わった。
関心が消えた。あれから一度もF1を見ていない。