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クーリエ・ジャポン

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Text by Toru Yoshida

歴史認識は争いと分断の原因にもなるが、そもそも歴史とは何だろうか。政治学者の吉田徹によれば、それは事実の集積というより、特定の共同体で集合的に作られていく「フェイク」だ。

※本記事は『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』(吉田徹)の抜粋です。

文化的観念は「本来的なもの」ではない


歴史は当初、国家に固有のものとして、国民の共同的な記憶や教育のために構築されてきた。歴史を記録する公文書館がフランス革命以降の国民国家形成を目的に作られ、『母を訪ねて三千里』といったイタリアの児童向けの国民的物語も、建国期のナショナリズム意識を高めるために創作されたものだった。

日本という共同体の記憶で現在、最も重要なものは「終戦記念日」だろう。ただ、戦争の終わりを記念するならば、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾した1945年の8月14日でもよいし、連合国との平和条約が結ばれた1951年の9月7日でもよかったはずだ。

実際、日本と戦った国々が祝う「対日戦勝記念日」は9月であるのが通例だ。多くの国の終戦記念日や休戦記念日は、講和条約の結ばれた日だ。そもそも今のように8月15日に全国戦没者追悼式がおこなわれるようになったのは1982年の閣議決定を経てからのことに過ぎない。

8月15日が日本の終戦記念日とされたのは、いうまでもなく1945年のこの日に、昭和天皇による玉音放送(の録音)が放送されたからだ。メディア論が専門の佐藤卓己は、この日を終戦記念日としたのは、天皇制維持を求める保守派と、敗戦を日本の民主化のきっかけとしたかった革新双方の合意が得やすかったからだと説明している。

経緯や実際はともかく、それでも、日本国民にとって終戦記念日は8月15日であり、この日に全国各地で追悼の式典がおこなわれ、マスメディアが太平洋戦争にまつわる記憶や証言を報道し、高校球児が正午のサイレンとともに黙禱するのは、終戦記念日が人為的に歴史を創り上げ、集合的な記憶を再生産していく手段でもあるからだ。

もっとも、日本の敗戦の日は、アメリカやロシアにとっては戦勝の日であり、中国や韓国にとっては解放の日であり、日本国内だけでみても、沖縄にとっての終戦記念日の意味は本土のそれとは異なる。

つまり、歴史とは「事実」の集積というより、特定の共同体で集合的に「作られていく」ものなのだ。これは演歌や地方の方言にしても同じだ。

前者は、歌謡曲やフォークソングなど欧米経由の音楽が都市で流行していくなかで、日本の前近代的な価値観や男女観を歌い上げるために商業化され、方言はNHKの大河ドラマなどで歴史的人物(例えば西郷隆盛や大久保利通など)のイメージに添って使われて認知されるようになった。歴史的な文化は、時代の要請に従って再編される。

「伝統」が経済的・文化的要請から捏造されるものであることは、歴史家エリック・ホブズボームの『創られた伝統』(原題は『伝統の発明』)の解題以来、有名なテーゼとなっている。

この本では、例えばスコットランドの伝統的な作品とされる「キルトのタータンチェック」も、当時の繊維産業やマーケティングの産物だったことが論証されている。タータンチェックはスコットランドの氏族ごとに異なる柄模様があるとされたが、これは生地を市場に売りこむために作られたフィクションだったという。

16世紀のイングランド王ヘンリー8世がタータンチェックを禁止したためにスコットランド人というエスニシティがこれと結びつき、それまでアイルランド民族の一部とされてきたスコットランド民族が独自のアイデンティティとして我がものとした。

歴史とは作り上げられるもの、誤解を恐れずにいえば「フェイク」であるからこそ、それは称賛や恣意的な操作の対象となる。歴史が、捏造されるような記憶を伴わず、事実だけに基づくのであれば、それは多くの人びとに想像されたり、教訓を与えたりするようなものとはなり得ない。

そもそも、歴史が言語やイメージを介するものであるかぎり、歴史的事実もまた、こうした言語やイメージと無縁なものではあり得ない(これは歴史学で「言語論的転回」と呼ばれる)。

最近では、歩道で人とすれ違う際、傘を傾ける「傘かしげ」が、いわゆる「江戸しぐさ」の例として道徳の教科書に記載されたものの、それが史料からは確認できない「フェイク」だとして、問題視されたことがあった。

教科書に記載するかどうかはともかく、相手を気遣うことは道徳的に善いことであるという価値観があるかぎり、怪しげな歴史的な事例を持ってきて、これを正当化しようとする誘因はなくならないだろう。

社会科学には「構築主義」と呼ばれる立場がある。これは一般的には「女性らしさ」や「○○人らしさ」といった文化的観念は社会的な役割のなかで構築されるものに過ぎず、本来的なものではないとする立場のことだ。

しかしこの考え方は裏を返せば、どのようなアイデンティティ、あるいは「らしさ」であっても、人為的に作ることができるということをも意味する。もし歴史に本物がないのであれば、好きなものを作ろうというわけだ。

こうして、歴史認識問題という新たな争点は、人びとの想像力を際限なく拡張していくようになる。(続く)

『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』

この記事はクーリエ・ジャポンの「今月の本棚」コーナー、11月の推薦人の岩崎稔がオススメした『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』からの抜粋です。Web公開にあたり、見出しを追加しています。


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第3回では、歴史認識問題という争点の根深さについて考える。中国では日本軍のコスプレイヤーが、日本ではナチスの軍服によるコスプレが問題視されることがあるが、若年層にとって過去の歴史は単なる「ネタ」でしかなくなっているという。

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