Category Sponsor

SMBC
奥田浩美(おくだ・ひろみ) 株式会社ウィズグループ代表取締役。2013年には過疎地に株式会社たからのやまを創業し、地域の社会課題に対しITで何ができるかを検証中。著書に『ワクワクすることだけ、やればいい!』(PHP出版)など。

奥田浩美(おくだ・ひろみ) 株式会社ウィズグループ代表取締役。2013年には過疎地に株式会社たからのやまを創業し、地域の社会課題に対しITで何ができるかを検証中。著書に『ワクワクすることだけ、やればいい!』(PHP出版)など。

画像ギャラリー
クーリエ・ジャポン

クーリエ・ジャポン

Text by COURRiER Japon

「壁は壊すより、登るほうが良い」、「一枚一枚壁を集めてくっつけたら、ステージになるでしょ」

株式会社ウィズグループ代表取締役の奥田浩美は、あっけらかんとそう言って笑う。ITを利用したコミュニティ作りをおこなうウィズグループ社長業のかたわら、各地(僻地)で「破壊の学校」を主催し、公官庁や地方自治体ではさまざまな委員を務め、「未来からやって来た」と自己紹介する。この人に、本当に壁なんかあったのだろうか。

だが、「何が壁なんだか」もわからず、泣いたこともあったという。原点となったインドでの経験から、独自の育児理念まで聞いた。

──早速ですが、奥田さんのキャリアにおける「最大の壁」を教えてください。

「最大の壁」というとどうしてもインドでの経験になってしまうので、それは後でお話しするとして……。私が社会に出てからぶつかった一番の壁は、「会社が潰れるかもしれない」という経験をしたことです。

最初は「リーマンショック」のとき。私が独立したのは1991年、社会に出て1年半のときでした。イベントマーケティングを請け負う会社を作ったのですが、当時の顧客のほとんどがグーグルやマイクロソフトといった外資企業。ところが2008年の9月、一気に予算が凍結され、億規模の事業が全部なくなってしまった。

それをどう乗り切ったかというと、「自分以外にもっとダメージを受けている人がいるんじゃないか」と考え、他の人から学びました。

リーマンショックでは世界中の人が影響を受け、私の会社以上にもっと打撃を受けている人がいた。だから、会社を縮小するとか、長い間資金をもたせるとか、「やれることをたくさん人から学んだ」ということです。そして「何か壁があったときに、その壁を感じているのは自分一人じゃない」と気付けたことも大きな学びでした。

その後も、同じ種類の壁は何度もやって来ます。東日本大震災、新型コロナウイルス……。自分一人じゃ乗り切りない、けれども、世の中に自分と同じ問題に直面している人がいっぱいいるとしたら、そこで何か協力して、とりあえずいまを乗り切ろうという視点になりますよね。

先日のトークイベントでもお話したように、壁というのは「壊す」のではなくて「上に登る」ほうが良いと考えています。壁の上に登って、この壁を壁と感じている人がどれくらいいるのかを眺める。自分はそのなかの一人であって、この壁の上から見える景色を皆に伝え、その解決策を皆で一緒に考えていこう、そういう考えです。

たとえば、一人の女性が会社でのポジションに悩みを持っているのも一つの壁。その壁は、本人からすると自分一人だけが直面している壁に見えます。ですが、誰かがそこをよじ登って、「いやいや、これは私たちの問題じゃないんだ」と。「日本の問題じゃないか、いや世界の問題じゃないか」というふうに教える女性がいるとすれば、私はその「一番最初に壁に登る人間」であろうと決めています。

パルクール

クーリエ・ジャポンが立ち上げた、働く女性を応援するコミュニティ「PARCOURS」トークイベントに登壇した奥田浩美さん(左から2番目)。奥田さんのほか、株式会社ポーラ代表取締役社長の及川美紀さん(中央)、株式会社ユーブロームの代表取締役で、学生起業家の柴田未央さん(右)、弊誌編集長の南浩昭が登壇した


──経営者でもない一般の視点から言うと、奥田さんが直面された壁はすごく大きな壁という感じがします。

大きな壁じゃなくても、「これまで破った壁は何ですか」と問われたら、会社で「お茶汲みを止めた」とか、そういうことです。「ずっと続いてきたけれど、私はやりたくない」という壁を破りました。

やりたくないのに「やらなきゃいけない」という壁があったら、最初にそれを変えてしまえば良い。大きな壁の手前に、目の前には小さな「今日夕飯作りたくないのに作る壁」みたいなものがいっぱいあると思うので(笑)。まずはそれを、「いいじゃん、作らなくて」とスイスイって乗り越える。そういうことの積み重ねをしてきたと思います。

もし、お茶汲みを止めたことで誰かに反感を抱かせたとしても、私はいつも「未来の人がどう評価してくれるか」だけを考えていました。いま、講演のときに必ず「未来から来ました」と自己紹介するのも、閉鎖的な環境で私の理想を掲げても、その場の多くの人には届かないから。目の前の9割の人を説得するより「私はそれを変えようと思う」と話して、そのうちの1割の、ついて来てくれる人と一緒に壁に登ろうと考えています。


「一回すべてを手放した経験」が人生を変えた


──それでは人生最大の壁、インドでのお話を伺いたいのですが、そもそもなぜインドに行かれたのでしょうか。

まず、私の父親が日本人学校の校長としてインドに赴任をしていたからというのが一つ。大学4年の夏休みに、1ヵ月ぐらい遊びにいこうか、と。でも、一番の理由は、そこで見た「すべての風景が、まったく理解できなかった」からです。あちこちにいる物乞いの子供や、足がない、手がないという人が道端にあまりに多いこと……いっぽうで、親が住んでいるマンションにはベンツが6台並んでいる。1986年頃の風景です。

自分のそれまでの経験からすると到底理解できない世界があって、単純に「この世界を知りたい」、「私はここに住みたい」と突如、何かに殴られたように思い立ちました。

ですが、父親は翌年日本に帰国することが決まっていて、私もすでに教員採用試験に合格し、日本で学校の先生になることになっていた。そんななかで、なんとかインドに行く理由を作りはじめたわけです。当時大学で障がい児教育を学んでいたことを理由に、(当時の)「国立ボンベイ大学で社会福祉の修士を目指します」と親を納得させるためにとっさに言った。

当然親が許してくれるわけもなく、そこから3ヵ月くらい親子喧嘩の日々が続きました。まだ交換手がいて繋ぐ時代に、父親と国際電話で戦って。それまでの私は、親に従う「良い子」でした。それが大学4年生、22歳になって初めて、自分の希望を親にぶつけた。結局、亡くなった叔母の援護射撃もあって父親が根負けしました。

でも、試験は6月。3月に大学を卒業してインドに渡るときには、何の保証もありません。このとき「一回すべてを手放した経験」というのが、私の人生を変えた気がします。それまでの予測可能な人生を捨てて、22歳で何も手にしていない状態になった。あるのは「自分の思いだけ」でした。

この経験から言えるのは、「何も持っていなくても、人は願って良いんです」ということ(笑)。

──その後、無事試験に通り、9月から大学院に入られたということですね。

はい。大学院に入ったは良いのですが、そこから2年間がもうまったくもって思い通りにならなくて! たとえばその時代はまだ、インドでは夫が亡くなると、妻がお葬式の火に飛び込むという慣習が残っていて……

──えっ?

「えっ」ですよね。そういう反応だったんです、私も。寡婦になると、彼女にはそこから先の生活の糧を与えてくれる人がいなくなる。だからその女性は、自分の貞操を守るためにも、社会のためにも、お葬式の火の中に飛び込んで、一緒に自死するという慣習があって、それがまた何年かぶりにおこなわれたわけです。それはさすがにインドでも社会問題になりました。

大学院でも「そういう慣習を止めさせるにはどうしたら良いか」とか、女性たちのエンパワーメントをクラスで議論する。いまみたいなレベルではなく、女性たちにも人権があるんだ、女性は男性の従属物じゃないんだ、という話です。そんななかで「ヒロミは先進国から来ているから、一番説得力があるに違いない」と言われ、一番前に出されて「思っていることを言いなさい」という場面になったときに、私はまだ「えっ? どういうことですか?」という状態。理解が追いつかず、何も言えない。

思考が停止してしまうようなことの連続で、私はインドに対して「何かしたい」みたいな気持ちを持つに至るまでもなく、まったく理解もできないまま、何の役にも立たない「ただただ無力で非力な自分」として、2年間で学位だけ取って、泣きながら飛行機に乗って帰ってきました。

「人間、何もやれないものなんだな」と。学んだとしても、学んだことが行動に移せるような生やさしい社会じゃなかった。要するに「何が壁なんだかわからなかった」。


──そのときの経験がいまの生き方や働き方に影響を与えている部分はありますか?

これはいくつもあるんですけど、絞って言うならば、「文化が違う場所に行くと、自分の常識や価値観みたいなものは、想像を絶するほど意味がない」と身をもって理解したこと(笑)。自分の価値観がまったくもって意味がない世界があるんだなと感じたのが一つです。

でも、私はそういう世界に自分で好奇心から飛び込んだ。そしてそこで、解くのに何年もかかる壮大な問いをもらいました。

「いろんな価値観がある社会で、あなたは何を正義として生きていくんですか?」、「あなたは何を解決できる人間なんですか?」……こうした問いを2年間でもらって、私はそれを30年間悩んで、やっと答えが見つかった。

──その解答がいまのお仕事ということですか?

そうですね。2024年2月9日、3年がかりで準備してきたNPO「Hiromi Vidha Foundation(ヒロミ・ヴィディア・ファンデーション)」がインドで立ち上がりました。

子供たち、特に女子教育を支援するNPOです。インド留学時の「権力もお金も、語る力も何もない」みたいな状態から30年経って──2月9日は私の娘の誕生日なのですが、娘も24歳になり、自分の子育てはひと段落したと思えたときにできました──結局、できることは限られているけれども、目の前で助けられる人を1人、2人と援助していくことしかないな、と。

私にとってインドの子供たちは、30数年前に問いを与えられた、最初の、身近で何の解決もできなかった人たち。人生の指針みたいなものです。

経営も育児も「選択と集中」


──奥田さんご自身の子育ての経験から、「育児の理想」と「キャリアの理想」を両立させるために悩み、迷っている女性たちにアドバイスをお願いします。

実は迷え迷えと思っていて(笑)。迷った分は必ず自分の糧になるというのが、これまで話した私の前置きの30年みたいなものですから。ただ、私が思うのは「その“理想”は“あなたの理想”ですか?」ということ。「誰かが作った他人軸の理想ではないですか?」と考えてほしいなと思います。

たとえば、手作りのものを食べさせて、手作りの洋服を着せて……みたいな理想があるとしたら──いまの時代、さすがに手作りの洋服はもう考えもしないかもしれませんが──手作りのご飯を食べさせるって、これはあなたの理想なのか、あなたのお母さんの理想なのか、社会の理想なのか? そう考えたら、誰かから受け継いだ理想だと思うんです。その誰かから受け継いだ理想は、理想というより「ねばならない」というようなことではないかと思います。

本当の「理想」というのは、「理想が実現したら、自分が心地よくなる」状態のはず。たとえば自分がものすごく「美しい人」になるとしたら、それは自分が心地よいことですよね。なので、自分の心地よさを先にイメージしてみてください。それで、毎日綺麗な家を保って、おいしいご飯を作り続けて、旦那さんにも尽くしまくって「それ心地よいですか?」と自分に問いかけてみる。すると、全然、心地よくないかもしれない。それは自分ではなく旦那さんや子供が心地よい、社会が考えた理想だからではないかと思うわけです。

育児の最中、私が具体的に心に決めていたのは、「記録か記憶に残ることしかしない」ということ。時間は限られています。娘が大きくなったときに、何かの記録、たとえば旅行をするとか、おいしいお弁当の写真をいっぱい撮っておくとか、そういう記録できることか、もしくは娘の記憶に残ることだけやろうと。

読み聞かせが上手なお母さんだったら「うちのお母さんは読み聞かせをずっとしてくれた」みたいな記憶に残るはず。私の場合、掃除とか家事は得意でも好きでもないので、掃除機をかけている姿なんて絶対記録にも記憶にも残らないと思って、もう「やらない」と決めていました(笑)。

自分が心地よくできて、できれば「うちのママはこれが大好きで、これがすごい得意だった」とか、「いつもこれやってくれた」とか、子供の思い出として残ることに「選択と集中」をしていました。経営と一緒で。

あとは、男性と同じように働きたいと思ったときに、働けないのは自分が悪いんじゃないんだ、社会がいろんな問題を抱えているんだというふうに、「社会と自分を必ず切り分けて考える」こと。

たとえば昭和の男性たちが24時間戦えたのは、「8時間×3」働けるだけのリソースを手に入れていたから。つまり、家に帰ると、おばあちゃんが子供の面倒を見てくれて、お母さん(妻)が自分のご飯を用意してくれて、何なら背広まで着せてくれて。3人分、自分以外プラス2の労力があったから。

そんななか、自分が男性と同じように働くためには、まず、誰が男性と同じようにサポートしてくれるの? という発想で考える。結局、外のサポート要因がほとんどなので、自分を責めずに、変えられる社会を認識するということを、私は意識してきました。3倍働くために、どれだけサポートされる人間になろうかと、自分の頭を向けてきたと思います。もはや3倍働きたくはないですが。


──最後に、日本の女性はどうすればもっと輝けると思いますか?

もう日本の女性はものすごく輝いています。国連とか海外の組織のなかで、日本の女性ってものすごく評価されているんです。

では、現実問題、会社で働いている女性たちが、どうすればもっと輝けるかというと、単純に背景を変えることです。背景というのは、男性中心の社会であったり、会社の考え方のこと。これは女性のためだけの話ではなく、背景が変わらないと、もう半分駄目になっている日本では、男性と女性が同じように働いていける環境を作らない限り、生産性なんて上がるわけがない。

単純に女性が自分のせいにしても駄目。もっと簡単に言うと、女性が、自分が輝けると思うところにどんどん移動したほうがいい。見捨てることも大事。

そろそろ大企業でも、「もうこの会社は駄目ですね」と女性が言う時代が来たんじゃないかなと思っています。この2年ぐらいで、それに怯えるリーダー層が出はじめました。女性を本気で引き止めないと、自分の会社はまずいということを、トップのなかのトップたちは気付いていて、ただ、中間層がまだ気付いていない。なので、女性が自分の意志で選んでいけば、社会は変わると思っています。

会社も社会も背景だと思ってほしい。日本の一番の問題は、優秀な女性たちがどんどん海外流出していること。世界に飛び出している女性がいかに優秀で、かつその人たちが日本に残らない理由を、もっと日本の社会で考えてみようじゃないかと。地方から女性が流出していて、やっと危機感を覚える自治体が出はじめたというのも同じことです。

私が、女性が心地よく一番輝ける場所に身を置くための活動を広げたいと思っているのも、どんどん海外進出や投資の部分でも後押ししようとしているのも、それは日本を見捨てることではなくて、「日本にこうあってほしいあり方」みたいなのを、社会に気付かせる一つの手段だと思っています。



無料登録で「特典」を利用しよう

無料会員に登録すると、毎月2本まで
プレミアム会員限定記事が読めます。

プレミアム会員について詳しく見る

オススメのプレミアム記事

読者のコメント 0
コメントを投稿するには会員登録が必要です。
クーリエのプレミアム会員になろう クーリエのプレミアム会員になろう
クーリエ・ジャポン

クーリエ・ジャポン

おすすめの記事

loading

表示するデータはありません。

注目の特集はこちら

loading
    • {{ item.type }}
    • UPDATE

    {{ item.title }}

    {{ item.update_date }}更新 [{{ item.count }}記事]

表示するデータはありません。