日記の練習です。
フーコーが読んでるカント(『人間学』)、ちょくちょくティム・インゴルドが言ってるのと同じようなことを言っている。参照している先(源泉)が同じところに繋がっているのかもしれない。
ミシェル・フーコー『カントの人間学』 3章「批判期後とのかかわり」より
『人間学』が「実用的」(プラグマティック)なのは、それが人間を諸々の精神からなる道徳的な共同体(シテ)に属するものととらえる*1のでもなく、諸々の法的主体からなる市民社会に属するものととらえる*2のでもなく、むしろ「世界市民」として、つまり具体的普遍の領域に属するものとして考察するからなのだ。
ティム・インゴルド "Being Alive" (『生きていること』) 第3部 「大地と天空」序文より
実際、そういう地球環境は、あなたであれ私であれ誰であれ関係をもつことができるようなものではない。それはあまりに巨大すぎる。わが家の棚にいつも置いてある地球の模型であれば、私は関係をもつことができる。本や家族写真や鉢植えと並んで、この地球儀は私の環境にお馴染みの一品である。だが、私は環境としての地球と関係をもつことはできない。地球というのは計測され記録されるものだが、環境というのは経験されるものである。
ティム・インゴルドはハイデガーを参照していて、そこを通してカントを透かしみているように見える。
世間一般に言われているような、入門書とかに書かれているような、そういう主流本流に沿った読み方じゃなくて、誰かの眼を通して(透して)その人を読むというう読み方は、ある意味で「読まずに読む」読み方な気がする。ありかもしれない。
ティム・インゴルドを透してハイデガーの肩越しにカントを、そしてロールズを透かしてカントを、さらにフーコーの向こう側にカントを読む。カントの主著(三批判書)を介さないでなにかが読めるかもしれない。