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第9回


第9回_a0085819_1401010.jpg【あらすじ】

 いまだに東京に行ったことがないというぶっさんを、元気なうちになんとか連れ出そうとするキャッツの面々は、罠を仕掛けてぶっさんを東京に強制連行する。はじめての東京に大はしゃぎするぶっさんと、そんな彼をほほえましく見守るキャッツの面々は、そこで中学時代の旧友・山田に遭遇する。中学時代はパシリだった山田は、今や注目の若手プロ野球選手。すっかり羽振りが良くなり、態度も大きくなった山田をみつめるぶっさんの心境は複雑だ。そんな中、ぶっさんたちが怪盗活動をしていることを知った山田は、自分のスキャンダル写真を取り返して欲しいと依頼する。身勝手な依頼に腹を立てながらも、異様なテンションで次々とミッションをこなすキャッツたち。最後のミッションを終えて木更津に帰還した彼らは、そこでいつもの草野球試合に挑もうとするが、そのときついにぶっさんが倒れる。
 救急病院に運ばれたぶっさんは、キャッツの面々、父・公助、美礼先生など、親しい人々に見守られて静かに息を引き取った……かに見えたが、結局しぶとく生き延びていつものグラウンドに顔を出す。その後、うっちーのナレーションでぶっさんはその後1年半しぶとく生きのびて、22歳で死んだことが語られ、物語は終りを告げる。



【解説】

 誰もが「ぶっさんは結局死なないんじゃないか」と期待していた最終回。その期待は半分は応えられ、そしてもう半分は見事に裏切られる。結局、ぶっさんが死ぬシーンがこのTVシリーズで描かれることはなかったが、ナレーションという作品を一段上からメタ視する外部からの声で、さらりと、でもしっかりとぶっさんがその後1年半で結局若死にしてしまったことが語られる。このTVシリーズでは直接的に描かれることはなかったが、やはりこの物語は「ぶっさんが死ぬ」物語であり、そこからまったくブレることなく完結したのだ。
第9回_a0085819_1404075.jpg ところが皮肉なことにこの絶妙な距離感は、ファンたちにはあまり理解されなかったような所がなきにしもあらずだ。続編の映画版『日本シリーズ』の内容とその受け取られ方を考えると、やはり多くの木更津ファンたちが、この物語を「永遠に終わりのない楽園」として消費したがっていたと考えざるを得ない。
 だからこそ、スタッフは続編映画版第2弾として『ワールドシリーズ』を、ぶっさんの死を再確認するという内容に設定しなければならなかったのだし、そして、私たちもまた、ここでこのドラマ版最終回の意味を再確認しておきたいと思う。
 そう、これは紛れもなくぶっさんの「死」の物語なのだ。そして「終わりなき(ゆえの味気ない)日常」なんてものは存在しない。あるのは確実に「終わりのある(ゆえに豊かさに満ちた)日常」なのだ。ぶっさんは死んだ。だが、それは決して不幸なことではないはずだ。(市民)



【今週のチェックポイント】


■時間軸の変化
 八回のラスト、遺影が映りぶっさんの三回忌という状況から始まる9回。『木更津キャッツアイ』の面白さは時間軸の自在さだが、9回になると、リアルタイムで進行していた物語はあの頃を回想する過去となる。そのため、この九回は他の回と較べると若干違った印象を与え、本放送で見ている時はドラマの最終回らしからぬ構成で本放送で見ている時は「ちゃんと終わるの?」と思ってしまった。 (成馬)



第9回_a0085819_140566.jpg■三回忌
 冒頭、いきなりぶっさんの三回忌のシーンから始まる第9回。なかなかショッキングな構成であると同時に、少しドラマを見慣れた人間なら誰もが「とかなんとかいって、結局ぶっさんは生き延びるんでしょ」とか鷹をくくってしまいそうなある意味「ベタ」な演出だ。しかし、実際にぶっさんは死んでしまう。この二重三重のひねくれ方(の末に実はストレートに回帰している)演出は、この作品全体のスタンスを良く表している
(市民)



第9回_a0085819_1411664.jpg■リトル山田
 本放送当時は気づかなかったが妻夫木聡演じるリトル山田の役割はある種、もう一人のぶっさんだったのではないか? と思った。甲子園に行きプロになった山田と木更津で燻ってる無職で癌のぶっさん。山田は今までのゲストキャラと違いキャッツに救われる弱い人ではないが、最後はぶっさんに来いと言われキャッツの一員として野球をする。
 そうやってあらゆる人間が木更津キャッツアイという世界に許容されていくのだ。 (成馬)



■セックスピストルズ
 美礼先生とのキャッチボールをしながら「俺は木更津のピストルズだぁ」というぶっさん。 セックスピストルズとは75~78年にロンドンで活躍したパンクバンドでぶっさんが説明するようにたった一枚だけアルバムを出してとっとと解散した。(もっとも、その後96年に再結成したりしているが) ラスト一回で、死んで、結局生き返って二年近く生きて死ぬぶっさんの生き様は『セックスピストルズ』に較べると見苦しくて潔いとは言えないが、宮藤官九郎はそういうカッコいい死よりもダラダラとした生を描きたかったのだろう。
(成馬)



■「男はみんな元童貞」
 前回、見事に童貞を喪失したバンビによる名言。考えてみれば当たり前のことだが、「どんなにスレたキャラを気取っている人間でも、童貞の頃はウブで臆病な生き物だったはず」という言外のメッセージを加味してみると非常に味わい深い台詞だ。そう、男はみんな元童貞! 無駄に虚勢を張るのをやめて、素直になりましょう(笑)。(市民)



第9回_a0085819_1413193.jpg■東京
 結局、ぶっさんにとって「東京」は何だったのだろうか。
 この物語における「東京」とは、要するに競争に勝ち抜いて社会的自己実現する生き方の象徴だ。だからぶっさんがはじめて行った東京で出会うのは、「勝ち組」である山田なのだろう。しかしぶっさんはここで山田を僻んだりはしないし、その生き方を否定しもしない。山田の成功を認め、祝福した上で、自分には別のいき方があるのだと納得している。それがぶっさんのスタンスで、たまらなくカッコイイ!
 必要以上に「勝ち組」を誇りたがる卑しい連中と、格差社会批判あたりを都合よく援用して自分よりがんばっている人たちを僻み、自分の怠惰と無能を正当化し続ける「負け組」ばかりが目立つこの世の中で、ぶっさんのこのスタンスはそんな不毛な二項対立には回収されない豊かさにたどり着いていると言っていい。
 そしてぶっさんは、東京でそれなりにはしゃぎ、そしてそれなりに覚めて木更津に帰ってゆく。「シラケつつノリ、ノリつつシラケ」というかつて、この高度消費社会に生きる者の理想とされたスタンスは、意外なところで結実しているのだ。(市民)




■野球しようぜ
 ぶっさんが死に、キャッツの面々が落ち込む中、バンビが口にするのがこの言葉。
 野球をすることで状況は改善されないし、その行為はいわば死のショックを和らげるための発散行為にすぎない。人が生きていれば対処不能の自体にぶつかることは多々ある。この『木更津キャッツアイ』にしてもキャッツの面々が様々な苦難を突破していく物語の爽快感があるのだが、それでも、どうしようものない限界としての「死」を配置する。その限界に対峙した時、彼等は無力で、何ら対処法はない。そういう時どう人はやりすごすのか? その答えがバンビの「野球やろうぜ」だ。 八回の「失恋レストラン」を歌うくだりでもそうだが、クドカンはドラマや映画の最後にライブや試合を配置することが多い。しかもそれは勝敗がすべてを決するというものではなく、やりきれない思いを散らし、やりすごすためのケリをつけるための行為の手段として描かれるのだ。完結編ワールドシリーズでは、それを更に拡大させ、作品そのものが、ぶっさん=木更津キャッツアイの死を看取るためのイヨマンテとしての野球というところまで展開された。 (成馬)



第9回_a0085819_141547.jpg■ぶっさんの死と復活
 やはりこの最終回最大の見所は、終盤のぶっさんの死と復活だろう。物語の終盤、木更津に戻ってきたぶっさんはグラウンドで倒れて病院に担ぎ込まれ、一度は心停止する。しかし、こういった「お話」の「お約束」通りに奇跡的に復活し、再びグラウンドに現れる。
 これは「もしかしたらぶっさんはこんな調子でズルズル生き残っていくのかもしれない」と視聴者に期待させてしまう演出だ。だが、この『木更津キャッツアイ』というドラマは、そうはならなかった。その直後、うっちーのナレーションという「外部」からの声でぶっさんの死が宣告されることは「解説」で述べたとおりだが、これはもうすこし掘り下げて考えてみてもいいかもしれない。
 それは「<日常>は、一見終わらないように見えるが、終わる」ということである。例えばゼロ年代初頭の東浩紀の活動は、一部のオタクたちに「我々は虚構の中で生きていくしかないのだ、なぜならば近代的な社会像がリアリティをもたなくなった今、虚構と現実の間は曖昧なのだ」……と恣意的に解釈され、彼等の自己正当化ツールとして消費されていった。しかし、東が一連の活動で指摘していたのは、そしてクドカンがほぼ同時期にこのドラマで描いていたのは、むしろ「一見、終りのないように見える虚構こそが、いつか終わってしまう(現実は像を結びにくいが、虚構の中には生きられない)」という現象、近代的なリアリティが失効しているにも関わらず、私たちが身も蓋もない現実に投げ出されているという現実なのだ(「終りなき日常」は存在せず、あるのは「終りのある日常」)。
 そしてこの現実を、たとえば転向後の宮台真司ならば「人は過剰流動性に耐えられないのだ」と嘆いてみせるだろう。しかし、クドカンはこの、「一見終りのないように見える日常が、実は終わる」ことをポジティブに描いてみせる。ぶっさんの最期の3ヶ月をこうして見てきて、果たして誰がこの日常世界の豊かさを疑うことができるだろうか? (市民)
 
by wakuseicats | 2007-02-01 01:42 | 第9回
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