シリコンバレーで近年、ハードウエアを開発するスタートアップが増えている。ハードと言ってもIT機器やデジタルガジェットではない。調理家電のような生活を便利にするハードを開発するスタートアップが注目を集めている。

 シリコンバレーはその名が半導体の材料であるシリコンに由来するように、元々は半導体やコンピュータを開発する会社が集まる場所だった。それが1990年代以降はソフトウエアを開発する会社が勢いを増すようになり、シリコンバレーでエンジニアと言えばソフトウエア開発者を指すようになった。

 そんなシリコンバレーで、ハードを開発するスタートアップが再び注目を集めている。その中でも勢いがあるのは調理家電だ。例えば2018年1月には、米Amazon.comのベンチャーキャピタル(VC)部門である「Alexa Fund」が、サンフランシスコを拠点とするスタートアップで画像認識AI搭載オーブン「June Intelligent Oven」(写真1)を販売する米June Lifeに出資したことが話題になった。

写真1●画像認識AI搭載オーブン「June Intelligent Oven」
写真1●画像認識AI搭載オーブン「June Intelligent Oven」
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 June Intelligent Ovenは、庫内に取り付けたHD(高精細)カメラが食材を撮影し、ディープラーニング(深層学習)ベースの画像認識AIが食材の種類や状態を識別し、最適な温度で調理してくれる製品だ。共同創業者でCTO(最高技術責任者)を務めるNikhil Bhogal氏は米Appleで「iPhone」のカメラ開発を担当していたエンジニアで、同社の従業員の半数がApple出身者だという。

プロの技を家庭で実現するスタートアップ

 「Sous Vide Cooking」。日本語では「真空調理」や「低温調理」と呼ばれる調理法を実現する家電のスタートアップも元気だ。Sous Videは、ステーキ肉などの食材を真空パックした上で60度ほどの低温のお湯で湯せんすることで、食材中心部の温度(芯温)を正確にコントロールする調理法だ(写真2)。例えば湯せんによって肉の内部を「レア」や「ミディアム」の状態に仕上げてから外側をフライパンなどで焼くと、外側は香ばしく内部にも適切に火が通ったちょうど良い状態のステーキを失敗することなく調理できる。

写真2●米NomikuのSous Vide調理家電
写真2●米NomikuのSous Vide調理家電
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 元々はレストランなどプロの世界で普及していた調理法だが、2010年代になってSous Vide専用の安価な消費者向け製品が登場し、米国で人気を集めている。消費者向けの製品はスクリュー付きの電熱棒で、鍋に差し込んで使用する。Bluetoothなどを使ってスマートフォンと接続し、スマホの専用アプリでダウンロードしたレシピの情報に基づいて温度調節をするのが一般的だ。

 サンフランシスコに拠点を置くSous Vide調理家電スタートアップの米Anova Culinaryは、2017年2月に欧州の大手家電メーカーであるスウェーデンElectroluxに2億5000万ドルで買収された。Electroluxが発表したプレスリリースによれば、2013年に創業したAnovaの売上高は、2016年の時点で4000万ドルにまで達していたという。

 Anovaよりも1年早い2012年にサンフランシスコで創業したSous Vide調理家電スタートアップの米Nomikuは、2017年に韓国サムスン電子からの出資を受けている。同社は2017年から真空調理用の食材宅配サービスも開始している。下ごしらえ済みの食材が真空パックされて届くというもの。真空パックにはRFIDが埋め込まれていて、調理器のセンサーにRFIDを読み込ませるだけで、適切な温度と調理時間がセットされる。

 調理家電スタートアップの強みは、レシピやソフトウエアだ。画像認識AIオーブンやSous Vide調理家電は、食材を調理する温度や加熱時間を極めて厳密に管理できる。飲食業界では温度と加熱時間を厳密に管理した調理法を「TT調理」と呼ぶ。調理家電スタートアップはTT調理に基づくレシピを自ら開発し、スマホの専用アプリにそうしたレシピを配信。スマホから調理家電を適切にコントロールする仕組みを作った。

 従来からある「人間向け」に書かれたレシピは、「中火」「強火」といったアバウトな表現で火加減が記述されており、レシピを忠実に再現するのは難しかった。従来よりもレシピに忠実で、美味しい料理を簡単に作れることが、スタートアップが提供する新しい調理家電の最大のメリットなのだ。

シリコンバレーには起業家を支える環境がある

 なぜ今、シリコンバレーでハードウエアの起業が増えているのだろうか。近年、中国や台湾のODM(相手先ブランドによる設計・生産)事業者が台頭し、ハードウエアを開発し、量産する敷居が大きく下がったことは間違いない。それに加えて、ハードウエア起業を目指す人々を支援する「エコシステム」がシリコンバレーに存在するからこそ、この地でのハードウエア起業が増えているのだ。

 起業家を支援するエコシステムとは、ハードウエアスタートアップに出資するVCや、スタートアップを指導する「アクセラレーター」などのことだ。例えばサンフランシスコにある「HAX Accelerator」は、シリコンバレーのベンチャーキャピタルである米SOSVが運営するハードウエアスタートアップのアクセラレーターで、前述のNomikuや商品陳列棚をチェックするロボットの米Simbe Robotics、商品配達ロボットの米Dispatch Roboticsなどを輩出する(写真3)。

写真3●サンフランシスコにある「HAX Accelerator」
写真3●サンフランシスコにある「HAX Accelerator」
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 HAXの源流は、SOSVが2012年に中国上海で開始した「中国加速」というアクセラレーターだ。中国加速はソフトウエアやサービスを対象とするアクセラレーターだったが、そのハードウエア版としてHAXを中国深センに設立。2015年からサンフランシスコにも拠点を設けている。

 SOSVでHAXのプログラムマネジャーを務めるEthan Haigh氏は「深センはシードステージのスタートアップ対してプロトタイプ開発を支援する拠点で、サンフランシスコはプロトタイプの開発は完了したアーリーステージのスタートアップに対して、資金調達戦略やマーケティング戦略の立案を支援する拠点だ」と説明する(写真4)。

写真4●SOSVでHAXのプログラムマネジャーを務めるEthan Haigh氏
写真4●SOSVでHAXのプログラムマネジャーを務めるEthan Haigh氏
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 HAXではプロトタイプがまだ無いスタートアップは、まずは深セン拠点に入居し、ここでプロトタイプ開発を目指す。深セン拠点を「卒業」したスタートアップはサンフランシスコ拠点に移り、ここでいわゆる「Go To Market戦略」を考える。

 「VCから資金を調達するためのプレゼンテーションのやり方や、『KickStarter』を使った製品アピール、大手小売りチェーンとの交渉などを支援している」。米国の大手小売りチェーンである米Targetから転じたHaigh氏はそう語る。

世界中から起業家が集まる

 既にプロトタイプの開発が完了しているスタートアップは、深セン拠点をスキップして、サンフランシスコ拠点で支援を受ける。HAXのサンフランシスコ拠点には、母国でのプロトタイプ開発を済ませ、世界市場に進出するための教えをHAXに請いに来たスタートアップも多い。彼らの母国は、台湾、香港、インド、クロアチア、ウクライナ、ロシア、アルゼンチンなど世界中に及ぶ。次のNomikuやAnovaを目指すハードウエア起業家が世界中からシリコンバレーに集まっている。

 ハードウエアアクセラレーターと聞くと、ハードウエア開発だけを支援していると思いがちだが、むしろスタートアップは資金調達戦略やマーケティング戦略の支援を求めてアクセラレーターの門をくぐっている。ビジネス戦略も含めてスタートアップを支援する環境が整っているからこそ、シリコンバレーはハードウエア起業家を引きつけているのだ。

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