今回は「生きる」、とりわけどうすれば「楽しく生きる」ことができるのかを考えてみましょう。何不自由ない生活ができているはずなのに、なんだか毎日物足りない。何か面白いことはないかと刺激を探してしまう。生きる喜びを感じない。近ごろ増えているという「何をしても満足できない」人に対して、YouTubeチャンネル「一問一答」でおなじみの、福厳寺住職大愚和尚の回答とは?

毎日が楽しくない それは生活が豊かになったから

 欲しいものを欲しいときに買えて、食べたいものを食べたいときに食べることができ、雨風をしのぐ住まいもあり、夜は暖かい布団で眠りにつける。何不自由ない生活をしているはずなのに、「なんか毎日がつまらないんだよな」「何か面白いことはないかな」と刺激を求める――。近ごろは、そんな「何をしても満足できない」人が増えたのではないでしょうか。

 春が来る前の今の季節は、気持ちが少し鬱々とする時期です。そのせいで「何をしても毎日が楽しくない」といった気持ちを抱いている人も、いるかもしれません。

 なぜ楽しく生きられないのか。結論から言うと、それは「私たちの生活が豊かになったから」です。私たちの生活が豊かになればなるほど、皮肉なことに「生きる喜びの本質」は感じられなくなっていくのです。

非日常の特別感がなくなった

 今は何でも手に入る時代になりましたが、かつての日本は「ごちそう」も「新しい服」も、お正月など特別な日のものでした。今は、儀礼やお祭りなど「非日常」のハレ(晴れ)と、普段の生活である「日常」のケ(褻)の境が曖昧になり、特別さがなくなってしまったと感じます。

 たとえば、近所に大型ショッピングセンターが新しくできたとしましょう。次の休日に出かけていき、一通り歩いてみたけれどあまり新鮮味を感じなかった、なんて経験はありませんか。これまで行ったことのある大型モールと似ていた、駅前のショッピングビルと同じような店舗が入っていた、目新しい商品がなかった……、さまざまな理由はあると思いますが、「面白みがない」と感じるのは、自分がどんどん新しい刺激に慣れてしまっているからです。仮に大型ショッピングセンターに一度も行ったことのない人が訪れたらどうでしょう。その光景に、きっと目を輝かせるはずです。

 お寺の子どもとして生まれた私は、生活規律の厳しい毎日を送りました。早朝に起きてお寺の掃除をしたり、週末は必ず法事の手伝いがあったり。毎日が型通りの生活です。欲しいものをすぐ買ってもらったり、食べたいものを食べたいときに食べたりするなんて、できません。しかしその体験があるから、今が一番幸せだと感じています。

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快楽を求めすぎると、幸せは遠のく?

 私たちが求めてきた幸せとは、一体なんでしょう。それは、自分の感覚器官である五感に快楽を与えることです。五感を喜ばせるのを幸せだと信じ、追求してきました。仏教では、人間に備わっている感覚器官を「六根」とし、五感に「意識」をプラスして「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」といいます。

 もっとおいしいものを食べたい。もっと美しいものを見たい。もっと美しい音楽を聴きたい。もっとよい香りを嗅ぎたい……。それらはすべて「文化」と呼ばれるものとして発展しました。そして、もっと幸せになると信じて、私たちの生活の中にあふれさせてきたのです。

 しかし、私たちの感覚器官が享受する快楽的な幸せというのは、長続きしません。手に入れるまでは気分が高まっているけれど、手に入れた瞬間、喜びは消えてしまいます。たとえば、おなかがすいているときは「○○が食べたい」と渇望する。けれどもいざ目の前に食事が出されると、空腹なあまり味わう間もなくがっついて、おなかが満たされると、そこで喜びは終わってしまう。このようなことが、ものすごいスピードで繰り返されるようになったのです。

 つまり、私たちが感じる喜びは、短期で消費され終わります。それを繰り返していると、あらゆるものに価値を感じられなくなってしまいます。そして、刺激が強ければ強いほど、実は私たちの五感の感覚は鈍くなっていくのです。毎日が楽しくないと感じるのは、メリハリのなさが要因の一つだと考えます。

豊かさ捨て、苦行に入ったお釈迦さまが得たものは

 豊かさと、幸せを感じることへの矛盾。今から約2600年前に、これをすでに指摘した人がいます。それがブッダです。

 お釈迦さま(ブッダ)は、インドの城で生まれ育ちました。現代のような豊かさではありませんが、王子ですから高い生活水準で暮らしており、食欲、物欲、性欲、承認欲……すべてがかなう暮らしをしていました。しかし、そんな満ち足りた生活に飽きてしまいます。これでは幸せを感じられないと、お釈迦さまは出家をし、苦行に入るのです。

 苦行とは、家も衣服も食料も財産も持たず、家族とも離れ、徹底的に肉体を痛めつける行に入ること。これまでとは正反対の暮らしです。しかし対極にあるような生活を送っても、結果として幸せを感じず、心の安心(あんじん)には至らなかったのです。

 そこでお釈迦さまは「中道(ちゅうどう)」と説かれました。中道とは、両極端の真ん中という意味でも、ほどほどといった意味でもありません。

 中道というのは、快楽や豊かさを追い求め続けたり、苦行のように徹底的に肉体を痛めつけたりと肉体に依存する生き方ではなく、固定概念にとらわれずに、自分が何をすれば満たされるのかを観察し、気づきながら生きることなのです。

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