久し振りに再開した “地理人”、日本中の街を歩き倒してきた今和泉隆行さんの連載。廻った街の数と深さは決してNHKのあの番組に負けません(というか数は間違いなく圧勝です)。前回は「街の変化は都市計画以上に、地理的要因に影響される」ことを実例を持って見ていきました。今回はいよいよ、今和泉さんの大きなテーマ、「街の中心の移動」に踏み込みます。都市の動態観察術をご一緒に学びましょう。
(前回から読む)
この地図は北海道函館市(都市人口27万人、都市圏人口34万人)のものですが、「動く街」を観察するのにとても分かりやすい例です。
都市圏の規模は、前回触れた佐世保や佐賀と近いですが、どちらとも似ないパターンが特徴です。佐世保が1点にかたまる街、佐賀が全方向に拡散し各施設が点在するパターンだとすると、函館は、時代を追うごとに新たな点ができ、新旧4つの点がそれぞれ性質の異なる街なのです。
それぞれの街の中心の移動から、時代の移り変わりを観察できる。そういうことでもあります。実線の赤い矢印が、これまで住宅地の拡がってきた方向ですが、ちょうど山裾まで来たところです。函館都市圏の人口のピークは過ぎましたが、近年まで人口が増加し、現在も僅かに拡大が見られるのは、平地がある北西方向(北斗市、七飯町)です。新幹線の新函館北斗駅ができ、郊外型の商業施設が多いのもこのエリアです。
函館市は明治以降対外貿易港として、そして漁業の拠点として繁栄しました。その舞台となった函館港は、周囲を海に囲まれた函館山の麓にあり、そこから北東方向に陸地が広がっています。開港間もない頃は、函館港周辺に人が住み、街が生まれ、明治期の市街地の北東端に函館駅ができます。
函館の中心は内陸へ動く
人口が増えると当然の結果として住宅地が拡がりますが、函館の陸地は、函館山の麓の十字街より北東方向にしか広がっていないので、市街化するのは必然的に北東方向です。こうして、函館市街地は北東方向に少しずつ拡がり、それぞれの中心機能も時代によって内陸方向に動いています。それでは函館港付近から北東方向にかけての、4カ所の拠点を、写真で見てみましょう。
十字街電停付近の市街地は、現在はレトロな街として、夜景で有名な函館山の麓の観光地として人を集めています。函館市は一帯のエリアを「西部地区」と名付け、観光拠点と位置付けました。もともと函館の二大百貨店「丸井今井」と「棒二森屋」の前身はこのエリアにあったのです。棒二森屋は1930年代に、丸井今井は1970年前後に移転しましたが、その後建物は公共施設や観光施設として利用されます。
函館は「坂の街」としても知られていますが、坂がある「街」はこの十字街を含む西部地区のみです。以前は市街地、中心地で、その役目を終え、観光拠点となったわけです。それを象徴するのが、「函館市地域交流まちづくりセンター」。ここは観光客の入場もできる歴史的建造物ですが、それ以前は市役所の分庁舎、もともとは百貨店の丸井今井だった建物です。ひとつの建物が、商業→行政→観光、と、それぞれの拠点として移り変わっていく様子を象徴しています。
続いて、函館駅付近です。
現在も「中心市街地」と位置づけられているエリアの南端ですが、十字街付近よりも建物は高く、オフィスビルもあります。十字街付近よりは新しい装いの建物が並び、アーケードも掛けられており、最盛期は歩く人でごった返していたようです。
函館市役所や日本銀行はこのエリアにあり、観光客が訪れる「朝市」もこのあたりです。1930年から棒二森屋があるのはこの函館駅前。交通、商業、観光、ビジネスの拠点として多くの人が集まりそうですが、商店街を歩く人はほとんど見かけません。観光は西部地区が中心で、それ以外は内陸部に今も少しずつシフトしているためです。棒二森屋が閉店を検討しているのも記憶に新しいニュースでした。
この空洞化を補うように、2016年に複合施設「キラリス函館」ができました。高層部はマンション、低層部はショッピング・公共施設フロアとなっています。棒二森屋の再開発はマンションとホテルの入った複合施設の新築を検討しています。こうした、商業と観光から、宿泊と住宅にシフトする動きが中心性をつなぎとめる鍵になるかが注目です。
現在の街の中心として位置づけられているのが、市街地北端にある五稜郭のエリアです。史跡「五稜郭」のある五稜郭公園付近、市電の「五稜郭公園」電停付近の市街地です(JR五稜郭駅からは遠い)。函館の中心的な百貨店、丸井今井函館店は五稜郭公園前の電停前にあり、1970年前後に十字街付近から移転してきました。函館市内で最も商業施設の集積が高く、いつも街を歩く人々の姿が見られます。
「無印」の移転が象徴的
他の地域に比べて、高校や大学等の学校が多いことも特徴で、2005年には市立図書館が、函館駅周辺(函館公園内)から五稜郭公園付近に新築移転しています。また、2017年にはダイエー跡地に複合施設が建ち、高層階はマンション、低層階が「シエスタハコダテ」(商業施設)となりました。函館駅前の棒二森屋に入居していた無印良品がここに移転してきたのが、街の中心の移動を示す、最近の象徴的な出来事です。
五稜郭付近の市街地が栄える一方で、高度成長以降は市街地の拡大とモータリゼーションの進展で、より北東の内陸部に重心が移り始めます。地図で見ると広い商業施設が目立ちますが、ほとんど平屋で、広い駐車場を備えており、その様相はまさに都市郊外です。
1980年の長崎屋(現在のMEGAドン・キホーテ)、イトーヨーカドーの開店で弾みがつき、現在はヤマダ電機、ニトリも出店していますが、多くの店舗が無料駐車場を備えています。このあたりが函館市に編入される以前の亀田市の中心地でもあり、現在も函館市役所の亀田支所があります。MEGAドン・キホーテとイトーヨーカドーの間にコムサストアとアニメイトといった若年層を集める施設もあります。また、北海道庁の支庁にあたる渡島地域振興局は近年、五稜郭付近からこちらに移転しています。
さきほどの3つの市街地は路面電車で行けますが、こちらは路面電車の通らないエリアです(バス便は豊富)。幹線道路(産業道路)沿いでもあり、車での来訪を多く見かけます。
公立はこだて未来大学や蔦屋書店、ホームセンター等はさらに外側にあり、複数の施設が集中することなく分散しています。ここで見えてくるのは、戦前に繁栄した市街地(函館では十字街付近)は、歴史的建造物があれば観光地になり、モータリゼーションが発達する高度成長以前に最も人を集めた市街地(函館では五稜郭付近)が中心市街地になるものの、高度成長以降、モータリゼーション発達後は郊外型の施設が外側に点在しつつ、なかでも交通利便性の高いところ(函館では美原)にいくつかの施設が集中し、中心市街地の集積度を凌駕していく、ということです。概念としては知っていても、実際にこうした傾向を全国各地で確認するのは、たいへん興味深いものです。
横浜と神戸、二大港町の「動態」を比較する
函館のような都市を見ると、現在の街の様子を見ただけでも、街の動いた軌跡が読み取れます。そう、街は動くのです。
前回、地形の制約で山に囲まれていると街は動きにくく、平野に囲まれていると動いたり、拡散したりしやすい、という傾向を佐世保と佐賀の比較で見ました。しかし、山に囲まれていても動く街があります。時代に翻弄され、周囲の都市に翻弄された都市として、日本を代表する港町である、横浜と神戸の地図を見てみましょう。
横浜も神戸も、市街地は1カ所ではなく、複数に点在しているのがわかります。
それぞれの都市で市街地(桃色の背景の部分)を見てみると、横浜駅周辺、三ノ宮(神戸三宮)駅周辺に大型商業施設が密集し、遠方からも人を集める多くの人が集まる街となっています。
こうした中心地から3km離れたところに、横浜では伊勢佐木町、神戸では新開地という市街地がありますが、こちらは大型商業施設はあまりありません。横浜・伊勢佐木町付近にある、ちぇるる野毛やカトレヤプラザ伊勢佐木は、食品スーパーと日用雑貨店が入る小規模な商業施設で、神戸・新開地付近にあるダイエーやライフは、全国チェーンのスーパーです。
共通しているのは、遠方からではなく近隣の人を集める商業施設、ということです。この点からは、とても中心的には見えない市街地ですが、伊勢佐木町の近くには官庁やオフィス街があり、新開地の近くには官庁やオフィス街はないものの、「神戸駅」という、神戸を代表するような駅名の駅があります。これにはどんな背景があるのでしょうか。時代に翻弄されながら街が動いていった経緯を読み解いていきましょう。
横浜駅は最初から現在の場所にあったわけではありません。
横浜駅は1872年に現在の桜木町駅の場所で開業し、次いで現在の高島町駅付近に移転、1928年に現在の場所に移ります。神戸駅は1874年に開業しますが、現在神戸駅は神戸市の中心駅ではなく、大阪と山陰を結ぶ特急列車も通過するほどです。そのかわりほぼ全ての列車が停車するのが三ノ宮駅で、兵庫県内で最も利用者が多く、事実上の中心駅となっています。
その三ノ宮駅も、当初は現在の元町駅の場所にありましたが、1931年に現在の場所に移転し、阪急線、阪神線が乗り入れ、市役所が移転してきたことで中心性が増し、現在に至ります。駅だけでもこれだけ大きな動きがありますが、街の中心も、これと呼応するように動いてきました。
いま最も賑わう横浜駅周辺は、もともと石油タンク群だった?!
横浜は、開港以前の街といえば東海道の神奈川宿のみでしたが、開港して「関内」といわれるエリアが整備されます。東半分は外国人居留地、西半分は日本人町で、いわば貿易関係のビジネス街でした。神奈川県庁や横浜市役所は日本人町側に、中華街は外国人居留地側にできます。ここは現在でもビジネス街で、歴史的建造物や異国情緒は観光資源にもなり、観光客を集める街でもあります。
伊勢佐木町はこの関内に隣接する市街地で、関内がビジネス街であるのに対して、こちらは商業施設や歓楽街を含めた市街地でした。それが大きな転機を迎えるのは戦後の米軍による接収です。範囲はおおむね旧外国人居留地のみならず、横浜市役所や伊勢佐木町を含んでいます。
横浜市役所は接収の間、周辺の代替地を転々とし、その後同じ場所に戻ってきました。しかし、この間に本社機能を東京に移して戻って来ない企業もありました。地図の赤点線で囲んだ部分が、おおむね米軍の接収地域(建物の多くは接収されているが、神奈川県庁等接収されていない建物もある)です。中心市街地の伊勢佐木町のほとんどが接収されていたことがわかります。接収から約10年を境に徐々に接収解除されて復興を遂げていきますが、このころには横浜駅周辺が市街化されはじめ、街の中心はこちらに移っていきます。
現在の横浜駅がある場所は古くは海で、埋め立てられて油槽所(石油タンク)が作られ、横浜駅が開業してからは油槽所の跡地に現在の主要な商業施設が建てられ、周辺の市街地ができあがってきます。高度経済成長とともに、首都圏の都市化の拡がりが横浜を、それだけでなく神奈川県全体を巻き込んだことで、横浜駅は神奈川県の主要交通結節点として多くの人を集めることになります。
伊勢佐木町も横浜駅周辺も、時期は違えどもともと海だった所が埋め立てられ、新たに市街地になる流れは共通しています。その流れはここで終わりません。三菱重工業の造船所跡地とその沖合が埋め立てられ、1989年に「横浜博覧会」が開催されますが、その跡地がみなとみらい21地区として整備され、こちらも新たな市街地になっています。
横浜の中心シフトを写真で見る
以上を頭に置いて、実際の街の風景をご覧ください。
関内、といってもJR関内駅より海側のエリアですが、官庁やオフィスビルが多い一方で、歴史的建造物もあります。みなとみらい線の開通でより便利になり、観光客も多いことから景観も整えられています。
伊勢佐木町は歓楽街の印象が強い街ですが、首都圏でチェーン展開する書店の有隣堂本店がある等、文化の中心地だった名残もあります。小規模な個人店も、古くからの個人店とチェーン店が混在し、隣接する野毛は近年「はしご酒スポット」として再び注目を集めています。
横浜市民のみならず、沿線の神奈川県民を集め、最も多くの人で賑わうのが横浜駅周辺の市街地です。老若男女を集める大型商業施設や専門店が密集し、付随して小規模な飲食店、個人店もあります。
みなとみらい21地区は、ランドマークタワーやクイーンズスクエア、パシフィコ横浜等、大規模な複合ビルが多く、観光やイベント、非日常的な買い物先として定着しています。新しい街ゆえ、小規模な個人店はなく、伊勢佐木町や横浜駅と棲み分けがなされています。
さて、西の港町、神戸はどうだったでしょうか。
神戸も横浜と同じく、開港で繁栄した県庁所在地で、やがて京阪神大都市圏に取り込まれ、中心都市の面とベッドタウンの面の両方を持つ都市、という性格も共通しています。また、街が動く現象もよく似ています。
もともとこのあたりには兵庫津(ひょうごのつ)という港町(地図左下)がありますが、そこから少し離れた、現在の三ノ宮駅の南側に外国人居留地が作られます。兵庫津と外国人居留地の間に神戸駅が作られ、その付近の街「新開地」が賑わうこととなります。
しかしこの新開地も、伊勢佐木町同様に戦後その一部が米軍に接収されます。戦前の間、神戸駅と新開地付近(湊川)の間で転々としていた神戸市役所も、1957年に三宮に移転し、今に至ります。そして新たな新市街地としてハーバーランドが生まれたのも、どこか横浜のみなとみらいと重なる部分があります。
以前は神戸の中心地でしたが、今やその名残はあまり感じられず、歩く人を見かけません。住宅が密集し、地域住民を集める小規模な商業施設があります。
大型商業施設から個人店まで、多くの人を集める商業施設が密集する他、オフィスや官庁も付近に多く、神戸の中心地となっています。
再開発された区画に、新たな商業施設が作られ、現在はイオンモール運営の「Umie」が核テナントとなっています(写真は1992年から2012年まで入居していた神戸阪急)。
時代のうねりと街の動きを見る
こうした、時代の変化や街の動きを今に残してくれるのが、過去の写真や地図です。横浜の「横浜都市発展記念館」では、都市の変化や発展をテーマに展示、企画が行われ、多くの資料を見ることができます。
時代の変化の前後を知る人であれば、地図や写真、その他の記録を見ることで過去の記憶を思い出すこともあるでしょう。また、過去を知らずとも、馴染みのある場所、知っている場所が、過去の姿を写真や地図で見比べて、過去から今までの大きな変化を知ることもあります。私は都市郊外で育ちましたが、住んでいた場所が農村地帯だった頃の写真や地図を見て、随分と異なる姿に興味を持ちました。そして、こうした変化を見ることで、社会や時代の大きなうねりを感じることができます。
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