「俺たちはだまされている」
まさかと思われた英国の欧州連合(EU)離脱、どう見ても泡沫でしかなかったはずのドナルド・トランプ氏の米大統領選の共和党候補選出の裏には、怒りが満ちている。
富める者と貧しい者との間の所得格差が極限まで開き、移民の増大が既存住民の職を奪い、社会を不安定にする。政治エリートは、中低所得者層に配慮した政策を何も打ち出せていないと。
確かに格差は開いている。米国の労働総同盟・産業別労働組合会議(AFL-CIO)によると、主要企業500社(スタンダード&プアーズのS&P500採用企業)の労働者に対するCEO(最高経営責任者)の年収倍率は、1980年に42倍だったが、2014年には373倍に拡大。ウォルマートのCEOの収入を時給換算すると、同社の米従業員の最低賃金時給の約1036倍に達しているという。
「置いていかれた」側の膨張に目を付けたトランプ氏
想像もつかないほどの格差の広がりである。そして、その上に低賃金でも働く移民に職を脅かされると恐怖心を抱けば、トランプ氏のぶち上げる「米国とメキシコの国境に不法流入者を防ぐ強大な塀を築く」といった極端な主張にも中低所得者は、「YES」と叫ぶのだろう。Brexit(英国のEU離脱を示す造語)にも程度こそ違え、似た傾向を感じる。
だが、それだけだろうか。トランプ現象やBrexitのさらに奥にあるのは、世界経済の潮流となってきた新自由主義が曲がり角にきているという大きな変化ではないか。福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、規制緩和などを柱とした新自由主義は、1979年に英国でマーガレット・サッチャー政権が、81年に米国でロナルド・レーガン政権が誕生して以後、世界経済を本格的に動かし始めた。
前述のAFL-CIOの調査で見れば、CEOと労働者の年収差がまだしも小さかった1980年はその「出発点」であり、30年余りで格差自体が9倍に広がっている。この間、なにが起きたのか。新自由主義の根幹は、経済を政府の介入よりも市場に任せる市場原理主義である。この中で企業は当然、よりコストが低く、収益機会のある場所を求めて動くからグローバル化が進む。それは1990年代後半のIT(情報技術)・インターネットの拡大・普及でさらにドライブがかかった。
グローバル化が進めば、より多様で、より安価な財とサービスを各地で購入できるようになる。金融の自由化を初めとした規制緩和で世界規模のM&A(合併・買収)も活発になる。となれば、地域や産業によっては、今まで売れたものが売れなくなり、職場が突然なくなるといった激変が日常茶飯事になる。移民の流入は人の移動の自由化という点で同じ文脈だから、やはり地域や産業に大きな変化を起こす。
当然ながら、全ての人が等しく恩恵を受けることはないから、メリットを享受出来る人と、そうでない人の間に明らかに差が出来る。年収格差42倍から373倍への拡がりは、その結果を示している。
トランプ氏とBrexitの推進派はその「置いていかれた側」の膨張に目を付けたのだろう。大統領選の民主党予備選で有力候補、ヒラリー・クリントン氏を追いつめたバーニー・サンダース上院議員を押し上げたのも同じ層である。
トランプ氏が訴えるのは、自由貿易の制限であり、年金の維持を初めとした小さな政府志向の“改変”であり、規制の強化である。「これは共和党なのか?」と思わせる程に、置いていかれた側に的を絞って極端な政策を打ち出したことが成功している。そして、そこに見えるのは、従来の新自由主義が壁に突き当たっている姿でもある。
民主・共和両党の政策に違いがなくなる
この変化は政治と経済の新たな潮流になるかもしれない。例えば、予備選でクリントン候補は、夫のビル・クリントン元大統領時代に廃止したグラス・スティーガル法の復活を念頭に置いた金融規制強化を唱えている。同法は、銀行と証券に垣根を設けるものだ。金融規制の強化は、本来は民主党の伝統政策であり、ビル・クリントン大統領による廃止自体が“異例”でもあったが、トランプ氏も同様の規制強化を訴えている。
これは共和党の伝統から離れるものであり、別の角度から言えば、党派の境界自体が見えにくくなりつつある。
通商政策も同様。国内の雇用に影響を及ぼすとしてトランプ氏はTPP(環太平洋経済連携協定)に反対し、ヒラリー・クリントン氏も「米国の労働者(の権利)を損なわないことを確実なものにする」と訴える。大量の雇用を生むインフラ投資にも両者は積極的あるいは前向きな姿勢を示している。
中・低所得者層の不満と苛立ちは今、明らかに政治を変えつつある。「ヒラリー・クリントン氏が大統領選で勝てば、民主党政権はバラク・オバマ大統領以来、計16年に届く可能性が出てくる。大統領選で民主党の勝利となれば、共和党は新自由主義をベースにした今までの政策を本格的に見直さなければならなくなるかもしれない」と東京財団の渡部恒雄・政策研究ディレクター(外交・安全保障担当)兼上席研究員は指摘する。
これは政治に留まらず、経済の在り方をも変えかねない変化である。最新の世論調査では、トランプ氏がヒラリー・クリントン氏をわずかにリードしているという。ただ、民主党の全国大会で同氏が大統領候補に指名されれば、また逆転する可能性も十分ある。
この一連の動きを「ポピュリズムによる短期的なもの」と侮ることができるのだろうか。世界経済の潮流は着実に変化し始めている。
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。