「社会科学高等研究院の教授陣には、導きの光が多数存在していた」──。
著書『21世紀の資本』がベストセラーとなったフランス人経済学者、トマ・ピケティ教授は、同書のまえがきにそう書いていた。社会科学高等研究院草創期の責任者だったフランスの歴史学者フェルナン・ブローデル(1985年死去)は、そんな「導きの光」の主要な1人である。今年の「ピケティブーム」のような「フランス発格差論争」は実は今回が初めてではなく、40年前にもブローデルが仕掛け、米国発でブームになった。ピケティ教授の格差研究にブローデルが及ぼした影響について、ブローデルの著書を数多く翻訳してきた浜名優美・南山大学教授に聞いた。(本稿の完全版を4月14日発売「2015-2016年版 新しい経済の教科書」に掲載しています)
(聞き手は 広野 彩子)
ピケティ教授の著書が世界的なブームになった背景に、フランス人の歴史家フェルナン・ブローデルが米国と日本で大ブームになったときと似た状況があるそうですね。浜名教授は、ブローデルの著作を翻訳してこられました。ブローデルは、ピケティ教授が挙げる「尊敬する研究者」の一人です。
浜名優美(以下、浜名):ブローデルの『地中海』は、フランスの高等教育教授資格試験の課題図書になったこともあるぐらいで、フランスの学者の間でも繰り返し読まれている本です。
ブローデルが爆発的に注目されたのは1975年、欧米経済が栄光の30年を過ぎて大変悪い状況に入った石油危機のころです。米国で著書『地中海』の英訳書が出たことがきっかけで、世界中で一大ムーブメントになったのです。
例えば、『地中海』の第2部第5章には、こう書いてあります。
「一方には召使いがありあまるほどいる貴族の家、(中略)他方には(中略)極貧の世界がある。(中略)こうした社会のなかで、生きるというのは何という絶望か!」
また、米国の格差についても「すべての重要な決定を一手に握っている人間の驚くべき範囲の狭さ」などと著書で書き、批判的でした。
世界的な格差を問題視するブローデルの論考が、不況に苦しみ、格差に目が向けられ始めた、ちょうど40年前の米国でも大ブームになったわけですね。ピケティ教授も、2008年のリーマン・ショック以後、拡大し続ける格差の問題が注目を浴びるなかでの登場でした。
浜名:そうですね、書籍が大ヒットするための条件は、当時も今も変わっていないんでしょう。フランス語で出してもだめで、ブローデルもフランスでは当初さほど注目されなかったと思いますが、米国で英語版が出て、大ブレイクしたのです。
浜名教授は、ブローデルの伝記も翻訳しています。歴史研究においてブローデルは、どのような貢献を残した方だったのでしょうか。
浜名:ブローデルは、フランスでアナール派と呼ばれる、歴史学派の中心人物です。学術誌「アナール」(「Annales d'histoire économique et sociale」、フランス語で「社会経済史年報」の意味)」が1929年に創刊されたことから生まれた学派で、この雑誌にかかわった歴史家が主導したことからこう呼ばれています。リュシアン・フェーヴル、マルク・ブロックらが中心となって立ち上げました。学際的な歴史研究を目指す学派です。
47年に、フランス高等研究実習院の第6部門が誕生し、ここが「アナール」の発刊拠点となります。これが、のちの社会科学高等研究院になりました。
社会科学高等研究院はアナール派の本拠地
社会科学高等研究院は、ピケティ教授が「教えるのが夢だった」と『21世紀の資本』に書いている研究機関ですね。ブローデルは終戦後、「アナール」の編集長を務めました。
浜名:先に申し上げた通り、社会科学高等研究院はそもそも、アナール派の拠点だった研究機関です。最初は歴史家リュシアン・フェーヴルが活動し、やがてブローデルが来てその後を継ぎ責任者となり、社会科学高等研究院に変わったわけです。
ブローデルの働きかけで、『悲しき熱帯』で知られる社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースや記号学者のロラン・バルトといった、歴史と関係なさそうな人たちが、社会科学高等研究院に参画しています。
そこに憧れていたわけですから、ピケティ教授は、経済学者としては異色ですね。経済学といえば米国が主流で、ピケティ教授も過去に米マサチューセッツ工科大学(MIT)で助教授を務めています。
浜名:ブローデルは歴史研究の中でも、理論はあまり得意ではなくて、あくまでデータや事実を重視しました。物価の研究で統計などをふんだんに使い、「数量史」「時系列史」への道筋をつけたのが大きな貢献の一つです。
ピケティ教授も経済分析には歴史的な事実、データが大事だと言っていますが、これはまさに時系列史の発想です。例えばブローデルには、15世紀から18世紀の資本主義の動きを書いた『物質文明・経済・資本主義15~18世紀』(みすず書房)という著書があります。
統計をたくさん使って実際の経済の動きを見ながら、同時に社会が変化する様子を捉える手法を使っているのです。これはある意味、当時のアナール派らしい手法という言い方もできます。
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