戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?

 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全4回の1回目/2回目に続く)

写真はイメージ ©アフロ

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継母と馬が合わなかった少年時代の喜之助

 明治31年1月28日、東京本所相生町に生まれた喜之助。父は砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の現場責任者を経て鋳物工場を営んでいた。遊び人でもあったようだが、幼少期は、中流以上の暮らしを送れていた。

 母は、士族の娘だったからか、酒と女が好きだった夫に付き従うのをよしとせず、喜之助2歳のときに家を捨てた。台湾へ渡ったらしい。父は別の女性を後妻として迎える。

 継母となった女性と喜之助、これがつくづく馬が合わない。幼いころから喜之助は利発で勉強ができ、14歳のころ、ナンバースクールである旧制府立第三中学校へ合格を果たしている。本人はのち、老境に至ってもこの入試で2番の成績であったことを誇った。

 ところが、通うことが許されない。資金的な問題はなかった。ただ、継母がいい顔をしなかった。彼女ともしうまくやれていたなら、戦後の新宿駅前の様子は全く違っていたはずだ。結局、入学を辞退させられたとき、少年は、人生最初の大きな癇癪玉(かんしゃくだま)を炸裂させた。棒切れで継母を叩くや、そのまま、家を捨てた。

浮浪児とほとんど似た暮らし

 本所の家を飛び出し、1か月ほどさまよい歩いていた喜之助。上野公園や浅草寺あたりで寝泊まりしながら、さびしさに耐えかねて泣いていた。のちの姿からは想像できないが、このころはただあどけない子どもでしかない。金もない。

 物乞いをして、糊口(ここう)をしのぐしかなかった。浅草は当時、帝都随一の遊興地であり有象無象も集まっている。弱い者を狙う無法者もうろついていた。