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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(五十八)

 日比谷公園に設置されたステージは立ち入り禁止テープが張られただけで、まだ解体されずに残っていた。今の警視庁にはそんなことに割く時間と余裕さえないのだろうと思ったが、浩平にとっては好都合だった。浩平は前回と同様にステージの上で芳賀が設置したパソコンの前で一人座っていた。浩平は時計を見た。もう五時を回っていた。ニュースが流れてから四時間が経過していた。この間、浩平はひたすら椅子に座ったまま画面を見つめていた。不思議に空腹感も疲労感もまったく感じなかった。ただひたすら座って、時折、会場を眺めたりするだけだった。

 それにしても物を投げつけられ罵詈雑言を浴びせられた前回を思えば、会場に集った人々は信じられないくらい浩平に好意的であった。あちこちから頑張れよという声援が聞こえていた。メディアも我先にと場所を陣取って、ステージ上の自分に向けてカメラを回していた。よく見ると、いつの間にか機動隊が会場整理にあたっていた。ステージ周辺でも捜査員たちが走り回っており、明らかに人の数が増えているようだった。

 どうやら上層部も観念したらしい。そう思った浩平だったが苦虫を噛み潰したような近藤の顔を想像して苦笑した。たしかに、とんでもないことに警視庁を巻き込んでしまったと思った。自分の都合のために大変な迷惑をかけるかもしれない賭けに他人や組織を巻き込んでしまった。首になるだけじゃ、とても責任取りきれないかもなとも思った。ふと、芳賀に言われたことを思い出した。

「本気ですか」

「ああ、本気だ」

「もう、あとはないですよ」

「ああ、分かってる」

「じゃ、なんで、そこまでしてやるんですか」

 もしかしたら、少しだけ自分の気持ちを抑えれば、耐えられたことなのかもしれない。ツァラトゥストラのことだって、いつか世間は忘れてしまうだろう。そのあと、黙って定年まで働いて退職金もらう方が利口に決まってる。無駄な喧嘩して自分の将来を棒にふるなんて馬鹿らしい――おそらく、ほとんどの人はそう考えるだろう。俺だって、そうする方が利口だってことは良く分かってる。だけど、そうしたら、俺は残りの人生を消化不良で過ごさないといけない。何かとげが刺さったまま生き続けないといけない。俺は自分の考えがあいつより正しいのかなんて分からない。もしかすると、あいつの方が正しいのかもしれない。だが、このまま終わらせたら、俺はずっと後悔するだろう。俺にもこれまでの人生で腹の底にしっかりとたまった自分の信念ってやつがある。それをぶつけないかぎり、俺は今まで俺が歩んできた人生とこれから生きる人生に納得できない。ただ、それだけなんだ。前回、俺は完全にあいつに負けた。しかし、それは論理の敗北じゃなかった。ツァラトゥストラと俺とどちらが自分の信念に命を懸けているかどうかという戦いだった。俺はツァラトゥストラほど、自分の信念を信じることができなかった。その弱さが招いた敗北だった。自分の言ったことは、どこか組織を意識した発言だった。どこかで当たり障りのないことを言おうとした意識から出た発言だった。それは自分の声ではなかった。これまでの人生の中で大きく育った我が身からほとばしる叫びではなかった。浩平はもう一度自分の信念を確かめるためにここに来たのだった。自分の人生に納得するために。

 日が落ちかけていた。浩平はビルの合間に沈む夕日を眺めた。その光は岩手で見た焼石岳に沈む太陽と同じようにビルの合間から光り輝いていた。浩平は黄金色に染まるビルを放心したように眺めていた。

「――どうぞ」

 浩平ははっとしたように横を向いた。横には女性警官がサンドイッチとジュースをお盆に入れて立っていた。

「あっ、ありがとう」浩平は予想外の対応に驚きながらも素直に礼を言った。

「――芳賀さんから聞きました。私も応援してます。今度は絶対に勝ってくださいね」

 女性警官は少しはにかみながらそう言うとステージを降りって行った。浩平はその姿を目で追っていたが、ステージの下では芳賀が捜査員たちにいろいろと指示をしながら慌ただしく動き回っているのが見えた。浩平は周りを見た。そこには観客とステージの間に毅然と立ち続けている機動隊の一団、ステージが暗くならないように照明を準備している警察官。会場の誘導整理にあたっている婦警警官、他にもたくさんの人たちが集まり、自分の果たすべき仕事を一生懸命勤めていた。浩平が目を戻すと前回と同様に机に埋め込まれたタブレットが目に入った。その画面には上條だけが表示されており、現在のステータス欄にはアパート在宅と書いてあった。その下の担当捜査員欄には藤原桜と表記されていた。その文字を見ていたら、ステータス表記に新しい文字が加わった。

『絶対、勝ちましょうね! 桜』

 浩平は心の中がほんのりと暖かくなるのを感じた。浩平は一人ではなかった。たくさんの人が彼を支えていた。おそらくテレビの向こうでもたくさんの人が自分を応援してくれているだろうと思った。浩平は決意を新たにして、真っ暗な画面をみつめた。

 

サンドイッチとジュース

 

 どのくらい時間が経ったのだろうか、じっと画面を見つめ続ける浩平には既に時間の感覚がなかった。一切の音が消え去り、深遠の中をふわふわと浮かんでいるような感覚だった。ふと目の前に白い蝶がひらひらと飛んでいるような気がした。浩平の視線はその白い蝶を追いかけていた。その白い蝶は、いつの間にか一本の棒になり、二本の棒になった。浩平の意識が徐々にはっきりしていくにしたがって、何かが耳に聞こえてきた。それは会場から沸き上がる叫びだった。浩平ははっとし、何度か瞬きした。そして、全ての感覚が正常に戻った時、画面の中には白い文字が浮かんでいた。叫びと歓声ともつかぬ雄叫びが東京の夜空を焦がした。テレビリポーターがカメラを相手に機関銃のようにまくしたてていた。照明ライトがスクリーンを照らし、前回と同じく画面右上に現れた宮澤の死体写真と画面中央に書かれた文字を浮き上がらせた。浩平は一度深呼吸をして、そして画面に現れた文字を睨みつけた。そこには、こう書かれていた。

――宮城警部補よ、君は自分の人生を懸けて私との対話を臨んだ。その勇気と覚悟に対して、私も相応の敬意を払わなければならないだろう。君がこの数日にどんな言葉を見つけたのか私も非常に興味がある。ただ、このことを忘れてはならない。私が欲しているのは、君自身の声だ、君が君たるゆえんの声だ。だから、もし君の言葉に真実が無いと感じたならば、私はすぐに闇の中に消えるつもりだ。そして、もはや二度と君たちの呼びかけに応じるつもりはない――

 ツァラトゥストラからの投稿を確認すると、浩平はゆっくりとキーボードに指を動かし、一文字一文字確かめるようにキーを叩き始めた。こうして、ツァラトゥストラと浩平の二度目の戦いが始まった。

 

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