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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(四十九)

 あの後、浩平は芳賀にパトカーに押し込まれ、そのまま警視庁に連れ戻された。警視庁に戻ると近藤管理官が玄関で待機しており、そのまま宿直室で待機するように命じられたが、結局その日はなんの音沙汰もなかった。浩平はごろんと横になりずっと天井をずっと見上げていたが、悔しいという気持ちはなかった。ただ、ぽっかりと大きな穴があいたような気分で何のやる気も湧いてこなかった。終わったなという思いだけが浩平の心を支配していた。

 翌日もずっと軟禁状態が続いていたが、昼過ぎに浩平が気だるげにお茶を飲んでいると、ようやく近藤が宿直室に入ってきた。近藤はついて来いとだけ言うと、浩平を伴って歩き出した。二人はエレベーターに乗り、浩平が来たこともないような階で降りると、しんと静まり返った廊下を進んだ。そしてどこかの部屋の前に立つと、近藤は緊張した様子でノックしドアを開けた。立派な調度品が飾られたその室内の中央には写真でしか見たことがない副総監がいて、入ってきた二人をみつめていた。近藤と浩平は副総監の前に進むと一言も言わず直立した。副総監はそんな二人を険しい表情で見つめていたが、徐に立ち上がり、机の上にあった厚紙の紙を手に取って近藤と浩平それぞれにそこに書かれた文書を読み上げた。型通りの儀式が終わると、副総監はもう話すことは何も無いと言うように二人に向かって手を払った。二人は手渡された懲戒通知書を手に一礼してその部屋を退出した。

 再び宿直室に戻ると、近藤は浩平に今後の過ごし方や注意点などをこまごまと伝え、そして最後に、警察手帳を置いて帰宅するよう命じた。浩平は近藤の前に警察手帳を置くと、何も言わず一礼して部屋から出て行った。


 新幹線に乗った浩平はぼんやりと夕暮れののどかな田園風景を眺めていた。田んぼはだいたい稲刈りが終わったようだが、ところどころまだ刈入れが済んでないところもあり、そこだけ稲穂が風に揺れていた。東北で育った浩平には見慣れた風景であったが、何度見ても何か懐かしさがこみあげてくるものがあった。一年間の停職処分を受けたことについては、驚くほど気にならず、何の感傷も湧いてこなかった。窓の外を見ながら、このまま地元に帰って家業を継ぐのも悪くないかなとも思ったりした。ただ今日新幹線に乗ったのは地元に帰るためではなかった。上條の生まれ故郷に行ってみたいとふと思い立ったからであった。そう思った浩平は警視庁を出るとその足で東京駅に行き、新幹線に乗り込んだのだった。上條の故郷は岩手にあった。

 仙台を過ぎると急に乗客が減った。今まで満席だった車内がほとんど空になり、隣に座っていたサラリーマンもいなくなった。浩平はようやく体を大きく伸ばした。東京を出てから二時間、気づけばもう七時を過ぎており、急に空腹を覚えた浩平は、やってきたワゴン販売を呼び止めるとおにぎりとお茶を買った。

 目の前のテーブルを倒して、おにぎりとペットボトルを置いた浩平は、ふと昨日は二千円はする弁当を食べていたことを思い出して自嘲気味に笑った。あっという間におにぎりを平らげペットボトルを飲み終えるころ、新幹線は目的地に到着した。

 改札を抜けて駅を出ると外はすっかり暗くなっていたが駅前にはホテルどころか店一件もなく、浩平は頭を掻きながら数台ほどが止まっているタクシー乗り場の方に歩み寄り、先頭のタクシーにその身を押し込めた。中に入ると運転手が気さくに、お客さんどちらまでと尋ねてきた。浩平は手帳に書き留めた住所を見せて、「この住所から一番近いホテルまで」と答えた。運転手は「だいぶ町外れだな」と独り言のように言うと「とりあえず町に一軒ホテルがあるから今日はそこに泊って、明日はそこからタクシー拾って行った方がいいよ」と親切そうに言った。浩平は全て任せたように「お願いします」と言ってシートに身を埋めた。

 ホテルに着いて部屋に入った浩平はとりあえずカーテンを開けて外を眺めたが本当に田舎町らしく、まだ九時前だというのに、ところどころ家の灯りがポツンポツンと光っているのみで周りは本当に真っ暗で、昨日の喧騒が嘘のようにしんとして物音一つしなかった。荷物を何も持たずに来たので、背広だけ脱ぐとそのままベッドに横になって天井を見つめたが、ここに至っても自分が負けたことに関する悔しさは全く感じなかった。しかし、なぜ負けたのかということだけは納得したいと感じていた。浩平の脳裏にはツァラトゥストラの書いた一行一行がくっきりと刻まれていた。浩平はもう一度あの日比谷公園での戦いを思い返し始めた。

 朝方まで寝付けなかった浩平だったが、遅めの朝食を食べるとすぐにチェックアウトし、呼んでもらったタクシーに乗り込んだ。空は雲一つない秋晴れで気持ちのいい風が吹いていた。浩平が乗ったタクシーは、田んぼが一面に広がる田園地帯の中を走り続けた。浩平は車窓から景色を眺めていたが、西の方に美しい山々が連なっているのが見えた。

「あれはなんていう山ですか?」浩平が聞くともなしに聞いた。

「ありゃ、焼石岳だよ」タクシーの運転手が教えてくれた。

「ここらに住んでるもんは、みんなあの山見て大きくなったもんだよ」

 浩平は焼石岳を見つめながら、ふと上條もあの山を見て育ったのかなと想像した。

 

焼石岳

 

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