アマチュア作家の面白い小説ブログ

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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(四十七)

――私はいつも思う。人間とは何と忘れやすく自分勝手な生物なのだろうと。そんなに昔を思い起こさなくてもいい。今からわずか八十年前に、この国がどんな状況であったか思い出してみろ。その頃日本の国土は焦土と化していた。食べるものもない、着るものもない、住むところもない、そんな極貧の生活の中で私たちの父や母、祖父や祖母たちは、それこそ血みどろになり、歯を食いしばってこの国を作り上げてきた。ところがお前たちはそんなことなど忘れ果て、日毎夜毎、美味いものを喰らい、綺麗な服を着て、立派な家に住んで、それでもまだ足りないと叫んでいる。今自分たちが享受している豊かさと権利は、人類生来のものだと声高にほざき、自分の分け前をもっとよこせと喚き散らしている。一歩外に目を向ければ、今この瞬間にもあの時の我々と同じように飢えや病に苦しんでいる人々が何億人もいるというのに、戦うことを忘れ遺産を食い散らかすしか能がなくなったお前たちがやっていることは、口先だけの憐れみを投げかけるか、臭いものには蓋とばかりに見て見ぬ振りをするだけではないか。かつて我々の祖先がもっていた欲しいものは自分の力で獲得するのだという強い意思、自分の力を超えるものに対しても臆せずに挑戦する勇気、己の命よりも尊いものがあると信じ、そのためには自分の命さえも投げ出そうという気概、我々の祖先たちの中に自然に備わっていたそうした民族の美徳は悉く消え失せてしまった。だから私はここに来たのだ。私はこの腐り切った社会に対して宣戦を布告する。この汚濁にまみれた社会を根底からぶち壊して、新たな戒律を刻む。民族の誇りを取り戻し、人間として生きるに相応しい社会を創りだすのだ。警視庁を代表するものよ、だから私に殺人事件の容疑者などというレッテルを貼るのは間違っている。私は殺人者ではない。革命者ツァラトゥストラなのだ――

 周辺の熱気が高まっているのを浩平は感じていた。ツァラトゥストラの書く一行一行がこの群衆の中に浸透していくのを感じた。なんとか、ここで押し止めないといけない。このままではやつのペースだ。浩平は腹をくくってキーボードを叩いた。

――ツァラトゥストラよ、お前がこの社会に対して不満を抱いているのは理解する。この社会はお前のいうとおり完璧ではない。それは認める。だが完璧でないからと言って、破壊することが正しいことなのか。お前は人類の未来の可能性を信じられないのか――

 今まで、浩平が投稿するとすぐに反応していたツァラトゥストラであったが、初めて反応が消えた。浩平はじりじりするような思いでツァラトゥストラからの回答を待った。

――君はこの社会の行きつく先は夢と希望に満ち溢れていると本当に思っているのか――

 しばらくすると新たな文字が掲示板に現れたが、その文章を見た途端、浩平の思考が停止した。それはまさに、以前浩平が桜に問うた言葉そのものだった。

――熟れ切った果実のように腐臭を発し始めたこの文明に香しい未来があると本当に思っているのか――

 浩平は何かを絞り出すように、少し震えている指を動かした。

――その答えは、まだ、分からない――

 浩平の動揺を知ってか知らずか、ツァラトゥストラからの反応が再び途絶えた。
 浩平は気持ちを強く持つことを意識した。未来を信じろ、可能性を信じろ。そう自分に言い聞かせた。不意に桜の顔が頭に浮かんだ。浩平は再び書き始めた。

――確かに、この社会の行く末には大きな困難があるだろう。だが俺は未来を信じる。人間は必ず困難を乗り越えると信じる。だからこそ、そこから逃げずに立ち向かっていくことが重要じゃないのか。全てを破壊するのは簡単だ。だが、一度破壊したものはもとには戻せない。俺たちはやり直すことはできないんだ。だからこそ、今この瞬間、精一杯考えていかなければならないんだ――

 ツァラトゥストラのコメントが再び現れた。

――今日、私は初めて君の思想に共感できるものを感じた。だが、君はそれを本当に信じているのか。私には、君の中にはまだ迷いがあるように感じられる――

――俺はお前のように完璧な人間じゃない。人間は誰だって思い悩む――

――私は完璧な人間などではない。私はただ自分の進むべき道を知り、その道を歩むことに命を捧げることを決意しただけの人間だ――

――ツァラトゥストラよ、お前と同じように人間は完璧じゃないんだ。だからこそ誤りも犯すし、人間が完璧じゃないからこそ人間がつくる社会も完璧じゃない。だが完璧ではないからこそ人間は少しづつ向上し、社会を向上させてきたのだ。その歩みはお前からみれば遅々として見えるかもしれないが、それでも常により良い方向を目指して進んでいるんだ。それこそがお前の求める道じゃないのか、超人に至ろうとする道じゃないのか――

 ツァラトゥストラが反応する時間が少しづつ長くなってきたように浩平には感じられた。ツァラトゥストラも思い悩んでいる。一時はツァラトゥストラに傾きかけた観客の反応も平静に戻りつつあった。ところどころから、浩平に対する声援も聞こえた。浩平はここが勝負だと感じた。今なら奴に勝てる。奴の思想に打ち勝つことができる。浩平は一気に勝負をつけるつもりでキーを叩いた。

――命は尊い、まさにお前が言ったとおりだ。人間は誰しもが生まれながらにして生きる権利をもっている。誰しもが幸せになる権利をもっているのだ。完璧とはいえないまでも、この社会の中でどれだけ多くの人が幸せに暮らしていると思う。俺たちは過去から学び、誤りを正しながらこの社会を作り上げてきた。確かにこの世の中には自分のことしか考えてないような奴もいる。しかし、その隣で必死になって生きている人間もたくさんいるんだ。明日に希望をもって、今を一生懸命生きている人間もたくさんいるんだ。一つや二つの悪があったからと言って、この世は間違っている。この社会は破壊されるべきだというのはお前の思い上がりだ。そうは思わないか――

 ツァラトゥストラからの反応はなかった。浩平は息を飲んで待った。浩平だけではなかった。会場全体が異様までの静けさに覆われていた。浩平は落ち着かないようにタブレットをみた。既に対象者は三人に絞られていた。上條和仁の顔はまだ依然としてそこに残っていた。既に三時三十分が過ぎようとしていた。

――一つや二つの悪だと――

 文字が突然画面に現れたと思ったら、次々に文章が浮かび上がった。

――この社会は、ほとんどが正しく、ほんのわずかな悪しかないと君は言うのか――

――君はこの社会の真実を理解しかけていると感じていたのに――

 思わず浩平は打ち込んだ。

――お前は、いったい、何を言ってるんだ――

 長い沈黙の後に文字が浮かんだ。

――君は必死になって生きている人間がたくさんいると言った。まさにそのとおりだ。この世には必死になって生きようとしている人間がたくさんいる。だが、なぜ必死になって生きなければならないか、その理由も分からないまま、血を吐くような思いをしながら生きている人間が大勢いる。君は人間は誰でも幸せになれる権利をもっているとも言った。だが、この世の中を裏返ししてしっかりと見てみろ。君たちが笑い興じているその裏で、日が当たることもなく、暗く冷え切ったところに押し込まれているものたちがどれだけいるかよく見てみろ。社会から虐げられたものたちが数えきれないほどうずくまっているのが見えないのか、身勝手な人間たちの犠牲になって、苦悩しながら生きている大勢の人間たちの姿が見えないのか。いじめに悩む生徒、暴力に怯える妻、親から虐待を受けて魂を押しつぶされて泣いている子供たちの姿が見えないというのか。それでも、この社会にはたった一つや二つの悪しかないと言うのか――

 その投稿を見た瞬間。浩平の脳裏に芽衣の姿が稲妻のように浮かんだ。何度も何度も叩かれて顔は真っ赤に腫れ、部屋の隅に怯えながらうずくまり、煙草を押し付けようと近づいてくる悪鬼のような母親に涙を流して許して許してと震えながら請い願んでいる芽衣の姿が浩平の目の前に現れた。芽衣の震える声が浩平の耳をつんざいた。芽衣の恐怖と絶望が浩平の全身を襲った。

 浩平は全身が凍りついたように身動き一つできずにいた。会場は異様な空気に覆われていた。不吉な兆しが漂い始めた。

 ツァラトゥストラの言葉が次々と掲示板にあがった。

――そうした虐げられた人々がこの社会の中で何の希望を持ち得るというのだ。愛情とか正義とか公正とか、そんな愚にもつかない言葉をどうして信じることができるのだ――

――この社会の中で虐げられたものたちが社会に否と叫ぶことがそれほどの悪だというのか、この社会をおかしいと感じるものたちが、傲慢なお前たちが作り上げたこの腐りきった社会に反旗を翻すことがそれほどの罪だというのか――

 そうじゃない! そうじゃないんだ。お前の言うことは間違っている。浩平は頭の中で叫んだが指は凍り付いたように固まったままで、何一つ打ち出すことができなかった。

 ツァラトゥストラは浩平の言葉を待っているようだったが、浩平が返事を返せないことを悟ると、再び打ち込み始めた。もはや浩平は放心したように画面をみつめることしかできなかった。

――会場にいるものたちよ、テレビでこの瞬間を目撃している人々よ。君たちはこの社会が本当に正しいと思っているのか。いわれなき犠牲の上になりたっているこんな社会を認めることができるというのか。何かがおかしい、何かが狂っていると思わないのか――

――この映像を見ている全てのものたちよ、君たちは正しいもののために行動したいと思ったことはないか、自分の人生に価値を見出したいと思ったことがないか。君たちにもあったはずだ。感動し涙し歓喜したことがあったはずだ。それはどんな時か。どんな時に深く感動し心を揺さぶられただろうか。自分は何の行動もしないくせに物知り顔で批判しかできないようなものたち、自分の意思を持たず常に他人の顔色を伺っているようなものたち、自分のことしか考えず人に贈り与えることができないようなものたち、いったい誰が、そんな連中に感動を覚えるだろうか。この世界を自分の足で歩き、血と汗と涙を流しながら新たな地平を切り拓くもの。我々はそういうものにこそ心を震わせるような感動と限りない憧れを感じるのではないのか。新たな道を切り拓くもの、それは常識を打ち破り、他人が不可能とみなすことに挑戦するものたちだ、己の生命より崇高なものがあると信じ、そのためには命を懸けることも厭わないものたちだ。我々の祖先たちは常に新たな道をつくってきた。この社会をより良きものとするために、数知れない者たちがその命を捧げてきた。誰もがそれを当然と感じ、栄誉と感じていた。それが私たちの当たり前の姿だった。それがどうだ。この爛熟した社会、自分の力で歩くことをやめ、ひたすら膿のように毒々しくふくれあがる社会。一体その先に何があるというのだ。こんな社会の中で人間の魂がどうやって磨かれていくというのだ。こんな社会に残るのは目的も意思も持たず、豚のように食い漁る、おしまいになったものばかりではないか。人は何のために生きるのか。人は必ずこの問いにぶつかり、そして思い悩む。人生は全てこの問いとともにあると言っても過言ではない。今日、私が君たちにその答えを教えよう。全て生あるものは、命を磨き、命をつなぐために生きているのだ。そのためには戦わなくてはならないのだ。だから、まず人間は獅子にならなければならない。生きるということは与えられるものではなく、勝ち取るものだということを知らなければならない。この社会は腐りきっているが、全てが腐りきっているわけではない、子供たちよ、若者たちよ、いまだ魂が毒されていない少数のものたちよ、君たちはまだ夢と希望を持ち、己の可能性を信じている。君たちであれば獅子となり、超人に至る橋を渡ることができる。私は君たちを導くためにここに来たのだ――

 ツァラトゥストラの書き綴る言葉がスクリーンに映し出されると、凄まじい歓声が会場に巻き起こった。ツァラトゥストラを連呼する声が地鳴りのように鳴り響いた。

――警視庁の代表よ、どうやら君と僕との戦いの決着はついたようだ。所詮、君は組織という安全な枠の中で一匹狼を気取って吠えているだけの偽善者に過ぎなかった。もう君の役目は終わった。おとなしく自分の机に戻るがいい。警視庁よ、お前たちが選び出した男はこの程度の男だった。お前たちの行く末は見えた。お前たちは、真っ先にこの旧世界の遺物として滅びるだろう――

 そして、その言葉を最後にツァラトゥストラツァラは画面から消えた。
 会場は騒然としていた。ツァラトゥストラを連呼する声は一向に収まらず、まるでこの場に神が降臨したかのような興奮と熱狂に包まれていた。あちこちから怒声が放たれ、ステージには物が投げ込まれた。そこには、内から溢れてくるエネルギーを如何とも御しがたい人間たちの姿があった。中にはステージに駆け上がろうとする者さえいて、機動隊が必死に押し止めていた。リポーターたちは相競って、この群衆を背景にツァラトゥストラの完全勝利と連呼していた。浩平に対する罵声が方々から上がり、空き缶や石ころがステージに投げ込まれた。そんな中、浩平はたった一人ステージの上で椅子に座ったまま拳を震わせていた。

 会場の不穏な空気を察した芳賀たちは急いでステージの上にあがり、浩平を抱きかかえるように引きずりおろすと、そのまま待機していたパトカーに乗せて走り去っていった。誰もいなくなった机にはタブレットだけが残された。そこには一人の男の顔だけが残っていた。色白のその男はまるで浩平を憐れむように寂しく笑っていた。

 

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