真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対し
て、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人
の批評に対する反応である。 (ルース・ベネディクト『菊と刀』)
敗戦に打ちのめされて、「一億総ザンゲ」のさなかにあった日本人の胸に、とどめの一撃をぶち込んだのは、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史による『菊と刀』だった。
女史によれば、「日本人はつねに他人の目を意識し、他人がどう思うかを判断基準として行動する。つまり、一切の道徳を、罪悪感ではなく、恥の感情の基礎のうえに置こうとする。それは自己の良心の命ずるところに従って、自発的に行動を起こすキリスト教徒とは対蹠的である」そうだ。
多くのわが国の文化人がさまざまに反論したが、あまり成功していないようである。というのは、いまなお日本人の側からも、女史と同じ主張が繰りかえされているからだ。たとえば、輪廻説に関して次のように言われる。
行為とその結果の因果関係に確信を持つということは、責任意識を
はっきりと持つということである。因果関係への確信と責任意識とは、
切っても切れない関係にあるといえる。
(宮元啓一『倫理的要請としての輪廻』春秋社「春秋」2005/11所収)
つまり、人が倫理的に正しい生き方をするのは、「善いことをすれば好ましい結果が得られ、悪いことをすれば好ましくない結果がもたらされる」ということについての確信であるというわけだ。このような輪廻説にもとづく「因果応報」、「自業自得」こそ、「洋の東西を問わ」ず、「倫理の動機づけを成す普遍的な原則」なのだといわれる。なるほど、西洋のキリスト教でも、人はやがて「最後の審判」によって善人は天国へ、悪人は地獄へと送りこまれることになっている。それゆえに、女史によれば、アメリカ人は「一切の道徳を罪悪感の基礎の上に置こうと努力」しているそうである。
また、その原則は「時代の新古を問わず」貫徹するともいわれる。そのキリスト教をさかのぼる500年以上も前に、インドではバラモン教によって輪廻転生が説かれていた。
ここで、根本的な疑問がある。では、バラモン教やキリスト教が信仰されていた時代や国ぐにでは、人びとは「善悪を弁え、善く生きよう、倫理的に正しく生きようとして、倫理的な行為に立ち向か」っていただろうか? アメリカ人による原爆の投下やベトナムやイラクへの侵攻は、ベネデイクト女史がいう「内面的な自覚にもとづいた善行」だったのだろうか? (この項つづく)