仏説つまりブッダの言説は弟子たちの記憶にとどめられ、彼らの口頭を介して伝承されてきた。このとき文字を使わなければ正確を欠くだろうとか、情報が残りにくいのではと考えてはならない。逆に、アレキサンドリア図書館の焼失や始皇帝の焚書によって、貴重な古代情報の大集積が失われた。
このとき、記憶を援けるために、またブッダが詩の形式で説くこともあって、韻文で記録されることが多かった。その後、多羅樹の葉(貝葉)に書写されるようになり、やがて媒体が紙に移って、次第に散文形式の記録が増えていく。だから、蓋然的には、散文より韻文のほうが、紙より貝葉のほうが記録として古いとはいえるだろう。
仏教文献学では、そんなことなどを手がかりに経典の新旧や真贋を判定していくのだが、問題があるとすれば、検証の手段が単純なうえに消去法一本槍にすぎることだ。文献に残されたブッダの記録を見ていると、現代人には奇異とか奇怪としか思えないような言行を演じて、ブッダに「合理主義者」を認めようとする人びとを失望させている。しかし、ブッダといえども古代人としての制約から免れることはできなかったし、当時支配的だったバラモン的価値観を完全に払拭することも不可能だった。むしろ、そんな制約や限界にもかかわらず、彼が何をなしえたかということこそ肝要なのである。
そのうえ、仏教学者も、またインド思想研究者も、歴史的実在としてのブッダを前提して仏教文献をムリに読み込もうとするから、やれ「増広の、加上の」とやたらナーバスになるか、いっそ「すべて仏説だ」とひらき直るかのいずれしかないという結果になる。にもかかわらず、多かれ少なかれ、いずれも「王宮・美女伝説」に発するゴータマ・ブッダ像を前提として共有している。
これまで、仏教文献は周辺諸学の研究資料として利用されてはきた。しかし、仏教文献の研究のために周辺諸学の研究手法や研究成果を援用するという努力はそれほど充分になされてきたとはいえない。せいぜい、仏教文献学という深い井戸を一途に掘りつづけたり、インド思想と現代論理学とのコラボレーションを実験的に試みたりしてきただけである。そんなことをしていて、もし水脈の存在しない地点を掘っていたとしたらどうする。相合傘の道行きで、インド思想研究の広漠たる砂漠を渡りきれるのか。
その点、歴史学や文化人類学、民俗学、宗教学、社会学はもとより、経済学、経営学など幅ひろい資料を渉猟し、それらの研究成果を援用しながら、組織的研究を進めている周辺諸学にくらべて、いかにも見劣りする。
だからいま必要なことは、ヨーロッパからアジアにかけての世界的スパンにおいて、原始から古代への歴史的流れのなかで、かつ社会と経済のダイナミックな動きを背景として、ブッダや「ブッダ」たちの全体像と彼らの思想を、多角的かつ体系的に研究し、明らかにしていくことなのである。