三か月のアメリカ生活が終わり、微妙な時差ぼけの中で原稿を書いている。もっと長く滞在したかったが、ずっと住むのは大変そうと感じたことの筆頭はやはり医療だ。
十月のある日、詰め物をしている歯の一部が突然欠けた。アメリカの高額医療費に関する恐ろしい話は散々聞いていたので、頭が真っ白になった。海外旅行保険には加入したが歯科は対象外。勤め先の大学で入った保険も歯科はオプションで有効期間は申し込みの一か月後でまだ先。出発前に歯科検診にも行ったのに、人生はいつも予想外だ。
おぼつかない英語で歯科なんて不安すぎたが、そこはロサンゼルス。大学のスタッフの方が日系歯科医さんを探してくれた。「保険がなくて」と告げると、たぶんそういう患者はよくいるのだろう、なるべく削らないで修復しますからと、金額も先に提示された。そしてかなりスムーズに修復してもらった。
周りの人に、五百四十ドルでした、と報告すると、まあ、それくらいなら、と口をそろえる。何十万もかかったらどうしようかと想像したので、高額にもかかわらずほっとしてしまった。アメリカの一般的な歯科なら差し歯になって二千ドルか三千ドルになるかも、とも言われた。
アメリカは医療保険に入るハードルが高い上に高額で大変だというのは知っていたが、実際生活して詳しい話を聞くようになると、保険は後から支払われるのでいったん高額な料金を払わないといけないとか、認められる症状や治療や医師に細かく制限があるとか、金額以上の困難さがわかってきた。その後は幸い病気も怪我(けが)もなく無事に帰ってきたが、制度によって生活がこんなにも影響を受けるのだと身にしみた。
もしまたロサンゼルスで歯になにかあったらあの歯医者さんに、と思っていたら、帰国直前ポストに手紙が届いた。開業以来三十年の思い出が綴(つづ)られ、引退と引き継ぎの挨拶(あいさつ)だった。お疲れさまでしたと、お伝えしたい。=朝日新聞2024年12月25日掲載