はてなブログでは未来日付の記事は「原則としては」書かないことにします、他(追記あり)

【最初に追記(2019年2/15記載)】
bogus-simotukareのブログということでココログにもブログを作ったので紹介しておきます。
ただ「今のところはてなの方が書きやすい(ココログだと脚注のつけ方がよく分からない、エンターキーで改行すればはてなだとそのまま改行になるが、ココログだとそうならない)」ということではてなの方で書くことが多いかと思います。
【追記終わり】
【2022年2月6日追記】
北朝鮮拉致問題で「大きな動きのあった年」に「何があったか」を振り返る - bogus-simotukareのブログとして未来日付の記事を書きましたが、「拉致が一定の解決を見た日(あるいは家族会が、蓮池透氏と和解し、救う会と絶縁し正常化した日)」には削除の予定です。
 https://bogus-simotukare.hatenadiary.jp/entry/2022/01/22/151801については「いったん書いた」ものの、「残しておくほどの記事でもないかな」と考えが変わったので削除することにします。
【追記終わり】
【2023年6月9日追記】
 「紙屋研究所」名義で俺に悪口雑言するコメントがつきましたが
1)「ブログでしか物が言えない内弁慶は黙れ」云々と「内容が無内容」
2)本物の紙屋がすこぶる怪しい(掲載してることが紙屋への風評被害になりかねない)
と思い削除しました。
【追記終わり】
 bogus-simotukareのブログでは未来日付の記事も書いていたのですが、はてなブログだと未来日付記事がたくさんあると、新規記事を書いてもそれが目立たず非常に見づらい気がするので、基本的には未来日付記事は書かないことにしたいと思っています。なお、この文章は2019å¹´1月28日に書いています(これは、目立つところに置いた方がいい「お断りの文章」なので未来日付の記事ですが。なお、俺が勘違いしてるのかもしれませんが「あまり遠くの未来日付」だといろいろと作業が厄介な様なので「2019å¹´1月28日の約1年後」にしています。しかし、当然ながら、冒頭にいつも表示される様に適宜、日付の設定は変更する予定です)。
 http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/25000101/1256334886:title(残念ながらはてなダイアリーが消滅したのでリンク切れ。sorarisu0088氏への謝罪文)ですが、id:Bill_McCrearyさんのご教示(2019年8/18)によれば結局はてなダイアリーは2019年7月末日でなくなったそうです(事前に連絡がなかったか、連絡があったが小生が見落としていたのでしょう。それにしても全削除の決定が随分早かったなと言う気はします。もちろん停止したサービスをそのようにすることは予想できたことではありますが)。
 id:Bill_McCrearyさんご教示ありがとうございます。
 以前、

1)はてな社の方針では当面、はてなダイアリー記事は「更新やコメントはできないが」記事自体は残る
(もちろん、最終的にははてな社が「やはり削除」という方針にする可能性もゼロではないでしょうが将来的な問題はひとまずおきます。その場合、さすがにはてな社は事前広報くらいするでしょう。その場合はこちらに謝罪文を移そうとは思います)
2)はてなブログにまで過去の恥をさらしたくない(まあ俺個人のくだらない感情論ですが)
つうことで、まあこの記事での「謝罪相手」である御仁が「どうしてもブログにまで謝罪文そのものを残せ」と言ってくるならまた話も別ですが、「ここにお断りの文章を載せること」で「謝罪文そのもの」はここにはひとまず載せないことにします。

としたので「弱ったな」というのが正直な感想です。本当に「過去のはてなダイアリー」がきれいすっかりなくなっている上に、小生はこの謝罪文を別に「ワード文書など他の文書」の形で保存していません。なので謝罪文を正確に復元しようがない。
 無理に思いつきででっちあげてもかえって問題でしょう。つうことでsorarisu0088氏から「こういう文面で乗せろ」つう要望がない限り、とりあえずこのままにしておこうかと思います(こちらから彼に問い合わせるのは挑発行為と認識される危険性がある気がするのでそれはしません。彼が小生に対して何のアプローチもしなければ、今の彼にとって小生が「どうでもいい存在である」ということなのでしょうから)。「sorarisu0088氏と小生が過去にトラブって、小生が非を認め謝罪文を掲載した」ということだけはここに指摘しておくので、それでご容赦、ご勘弁願いたいと言うのが正直な感想です。

【2019年1月29日追記】
 早速、移行後、コメント設定を修正。
 コメントは通常設定だと「はてなユーザー」という設定ではてなユーザーしかコメントできないようですね(コメントするときははてなのID、パスワードでログインする)。
 当然(?)ながら「俺にとってはてなユーザーにコメント者を限定する理由がない」、というか従来コメント頂いていた方々はおそらく「ほとんどがはてなユーザーじゃない」ので「ゲスト(誰でもコメント可能)」に変更します。しかし通常設定は「ゲスト」であるべきじゃないんですかね。
 俺みたいなうっかりは「はてなユーザー設定」に気づかず、「何で移行前にコメントしてくれた方たちがコメントしてくれないんだろうな」と悲しむという皮肉なことになりかねません。いや「はてなユーザーを増やしたい」という企業の立場からは、一理ある「通常設定」でしょうけどね。
 「はてなブログーユーザーの利便性をなんだと思ってるんだ!」つう反発は感じます。

北朝鮮拉致問題で「大きな動きのあった年」に「何があったか」を振り返る

 拉致限定であり、「金丸訪朝(1990年)」「南北朝鮮国連ダブル加盟(1991年)」「カーター訪朝による米朝合意(1994年)」「金大中・金正日首脳会談(2000年)」「トランプ・金正恩首脳会談(2018年)」など『拉致と直接関係ない』北朝鮮ニュースは取り上げません(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)。赤字が朝鮮半島関係です。

【1977年:横田めぐみ拉致など拉致事件の発生(福田赳夫内閣:外相は日中平和友好条約(1978年)を締結した園田直氏(大平、鈴木内閣でも外相)など)】
1977年 - Wikipedia、1977年の日本 - Wikipedia
◆1月20日
 カーター大統領就任。
◆1月27日
 ロッキード事件丸紅ルート初公判。31日全日空ルート初公判。
◆6月13日
 全米女子プロゴルフ選手権で樋口久子が優勝、日本人初の世界タイトルを獲得。
◆7月13日
 津地鎮祭訴訟の最高裁判所大法廷判決
◆7月17日
 キャンディーズが日比谷野外音楽堂で行われたコンサートで「普通の女の子に戻りたい」と解散することを宣言
◆8月12日
 文化大革命終結宣言
→なお、毛沢東の死去は1976年9月9日。四人組の逮捕は1976年10月6日。文革で失脚していた鄧小平の復活(党副主席、副首相、人民解放軍総参謀長への就任)は1977年7月。
◆9月3日
 巨人の王貞治選手が対ヤクルト戦でホームラン世界新記録の756号を達成
◆9月5日
 国民栄誉賞が創設される。王貞治が第1回目の受賞者
◆9月28日
 ダッカ日航機ハイジャック事件が発生。
◆10月1日
 経営難に陥っていた安宅産業を伊藤忠商事が吸収合併
◆10月15日
 長崎バスジャック事件で犯人1名を射殺、人質は全員無事
◆11月19日
 エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問(アラブ諸国の元首として初のイスラエル訪問)。
◆11月22日
 プロ野球ドラフト会議でクラウンライターライオンズが法政大学の江川卓を指名するも、江川本人が12月3日に拒否(江川事件の始まり)
◆12月3日
 横浜市の飛鳥田一雄市長が日本社会党委員長就任を受諾。
◆12月25日
 喜劇王、チャールズ・チャップリン死去(享年88歳)

【1988年:橋本敦質問及びそれに対する梶山国家公安委員長、宇野外相答弁(政府が初めて公式に北朝鮮拉致疑惑を認める)(竹下内閣:外相は宇野宗佑氏(後に首相))】
1988年 - Wikipedia、1988年の日本 - Wikipedia
◆2月6日
 衆議院予算委員会で浜田幸一予算委員長が日本共産党の宮本顕治議長について「殺人者」と不規則発言。委員長辞任(2月12日)に追い込まれる
◆2月25日
 韓国の盧泰愚大統領が就任

◆3月24日
 中国で起きた上海列車事故で、修学旅行中の高知学芸高校の生徒と教師計28名が死亡。
→橋本敦質問ではこの件についても「日本政府の適切な対応」を求める質問がされたと記憶しています。
◆3月26日
 参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦が拉致疑惑について質問。これに対し竹下内閣国家公安委員長の梶山静六は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚との見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明した。これは北朝鮮による日本人拉致疑惑を政府が認めた初めての公式答弁である
(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆4月14日
 ソ連がアフガニスタンからの撤退に関して合意(ジュネーヴ合意)。翌年2月15日迄に撤退を完了。
◆6月18日
 朝日新聞がリクルートによる川崎市助役への未公開株譲渡を報道し、リクルート事件発覚
◆7月3日
 イラン航空655便撃墜事件。イラン航空655便がアメリカ海軍のイージス艦「ヴィンセンス」に撃墜され、乗員乗客290名全員が死亡。
◆7月23日
 なだしお事件。遊漁船「第一富士丸」と海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が衝突、死者30名。8月25日には瓦力防衛庁長官(竹下内閣)が引責辞任
◆8月8日
 ビルマで、8888民主化運動が発生。
◆8月20日
 イラン・イラク戦争停戦が正式に成立。
◆9月17日
 ソウル五輪開幕(10月2日まで)

→前年(1987年)の「北朝鮮による大韓機爆破」はソウル五輪に対する妨害工作であったというのが通説的見解でしょう。
◆9月18日
 ビルマでソウ・マウン国軍総参謀長がクーデターにより全権掌握。国家法秩序回復評議会を設立。
◆11月8日
 米国大統領選挙でジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュが当選。
◆12月2日
 パキスタンでベナジル・ブットが首相に就任。イスラム国家では初の女性首相となる。
◆12月9日
 宮澤喜一蔵相(竹下内閣)がリクルート疑惑で辞任
◆12月21日
 リビアによるパンアメリカン航空103便爆破事件。

【1997年:安明進証言(横田めぐみ拉致)とそれを契機とした家族会結成(橋本内閣:外相は小渕恵三氏など(後に首相))】
1997年 - Wikipedia、1997年の日本 - Wikipedia
◆1月2日
 ナホトカ号重油流出事故
◆2月3日
 この日発売の産経新聞と週刊誌アエラ(朝日新聞社)が「安明進証言(横田めぐみ拉致)」を報道
◆2月8日
 この日放送のテレビ朝日「ザ・スクープ」が「安明進証言(横田めぐみ拉致)」を報道

(2月3日、8日の件についてはけっきょく「横田めぐみ拉致問題における安明進証言」などというものにのっかったのが、高世仁が会社をこかした淵源(の少なくとも1つ)ではないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)
◆3月25日
 「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」結成
(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 - Wikipedia参照)
◆4月1日
 消費税増税実施(3%から5%に)
◆4月2日
 最高裁が愛媛県靖国神社玉串料訴訟で違憲判決
◆4月22日
 ペルー日本大使館公邸に特殊部隊突入、人質全員解放(ペルー日本大使公邸占拠事件)。
◆5月1日
 イギリス総選挙で労働党が勝利。翌日、党首のトニー・ブレアが首相に就任、労働党は18年ぶりの政権奪還を果たした
◆7月1日
 香港返還
◆8月1日
 連続射殺事件の死刑囚で小説家として活動していた永山則夫の死刑が執行される。
◆9月11日
 第2次橋本改造内閣発足。ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行が総務庁長官で初入閣したが、世論の批判で9月22日に辞任。
◆9月18日
 ヤオハンが倒産、会社更生法を申請
◆10月8日
 金正日、朝鮮労働党総書記に就任。

◆11月16日
 サッカー日本代表が延長戦の末3-2でイランを下し、ワールドカップ(フランス大会)初出場を決める。(ジョホールバルの歓喜)
◆11月17日
 北海道拓殖銀行が経営破綻
◆11月22日
 山一證券が経営破綻
◆12月1日
 地球温暖化防止京都会議開幕。11日、京都議定書が採択される。
◆12月19日
 韓国大統領選挙で、金大中が当選

◆12月20日
 伊丹十三(俳優、映画監督)が自殺。

【2002年:小泉訪朝(第一次)&八尾恵『謝罪します』刊行(有本恵子拉致への関与を認める)(小泉内閣:外相は川口順子氏(小泉訪朝(第一次)当時))】
2002年 - Wikipedia、2002年の日本 - Wikipedia
◆1月23日
 雪印牛肉偽装事件発覚。8月6日には日本ハムも発覚。
◆1月29日
 ブッシュ大統領が、一般教書演説で北朝鮮、イラン、イラクを非難する「悪の枢軸」発言

◆2月8日〜24日
 ソルトレイクシティ五輪
◆3月18日
 自民党の鈴木宗男衆院議員が「ムネオハウス疑惑」などで離党
◆3月28日
 社民党の辻元清美衆院議員が、秘書給与流用問題で議員辞職
◆4月2日
 鈴木宗男事件への関与から、東郷和彦オランダ大使を罷免
◆4月9日
 加藤紘一元自民党幹事長が元事務所代表の脱税疑惑や自身の政治資金流用問題の責任を取り、議員辞職。
◆5月3日
 朝日新聞阪神支局襲撃事件(1987年)の時効成立(当時、殺人の時効は15年、現在は時効が撤廃された)
◆5月5日
 フランス大統領選挙決選投票で現職のジャック・シラクが再選
◆5月8日
 北朝鮮からの亡命者が中国瀋陽にある日本の総領事館へ駆け込む事件が発生

◆5月20日
 東ティモールが独立。21世紀初の独立国。9月27日には国連加盟
◆5月28日
 経済団体連合会(経団連)と日本経営者団体連盟(日経連)が統合、日本経済団体連合会(日本経団連)が発足
◆5月31日〜6月30日
 2002 FIFAワールドカップ(日本・韓国の共同開催)

◆6月19日
 鈴木宗男衆院議員を収賄容疑で逮捕
◆8月9日
 田中眞紀子前外相が公設秘書給与流出疑惑の責任を取り、議員辞職
◆8月26日
 南アフリカのヨハネスブルクで持続可能な開発に関する世界首脳会議(地球サミット2002)が開幕。
◆8月30日
 小泉首相が9月17日に、北朝鮮を訪問することを表明
◆9月2日
 日本海中部海域不審船事件。
◆9月17日
 小泉首相が訪朝。日朝首脳会談で金正日国防委員長(朝鮮労働党総書記)が日本人拉致問題を公式に認めた。

◆10月8日
 小柴昌俊東京大学名誉教授にノーベル物理学賞が決定。翌日には田中耕一島津製作所社員にノーベル化学賞の受賞が決定
◆10月12日
 インドネシアのバリ島で爆弾テロ事件が起こり、202人が死亡
◆10月15日
 北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。

◆10月23日
 モスクワで劇場が占拠される事件が起こり、特殊部隊の強行突入で一般人129人が死亡。
◆10月25日
 石井紘基・衆院議員刺殺事件
◆11月14日
 アルゼンチン政府が世界銀行向け債務の不履行(デフォルト)を発表した。
◆12月19日
 韓国大統領に盧武鉉が当選

【2004年:小泉訪朝(第二次)(小泉内閣:外相は川口順子氏(小泉訪朝(第二次)当時)など)】
2004年 - Wikipedia、2004年の日本 - Wikipedia
◆1月19日
 自衛隊イラク派兵(初めての陸上自衛隊の戦闘地域への派兵)
◆2月12日
 秘書給与の流用による詐欺罪に問われていた辻元清美前衆議院議員に対し、東京地裁が懲役2年、執行猶予5年の判決。検察、被告とも控訴せず、判決が確定
◆4月7日
 イラク日本人人質事件発生
◆5月7日
 年金未納問題で、福田康夫官房長官が辞任
◆5月22日
 小泉首相が北朝鮮を再訪問。日朝首脳会談が行われ、拉致被害者・蓮池夫妻、地村夫妻の家族5人が帰国。

◆5月27日
 イラクで取材中の日本人フリージャーナリスト2名が乗った車が銃撃され、殺害される。
◆7月1日
 中国の「高句麗前期の都城と古墳」、北朝鮮の「高句麗古墳群」、日本の「紀伊山地の霊場と参詣道」などがユネスコの世界遺産に登録
◆7月9日
 インドネシアのジャカルタで拉致被害者・曽我ひとみが夫であるジェンキンスら家族と再会。18日には家族が日本に帰国(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆7月21日
 小泉首相と韓国の盧武鉉大統領が済州島で会談。

◆7月30日
 扇千景が女性初の参議院議長に就任
◆8月13日
 アテネ五輪開幕(29日まで)。
◆8月13日
 沖縄国際大米軍ヘリ墜落事件。
◆9月14日
 2001年に発生した大阪教育大学附属池田小学校襲撃事件(8名殺害)で死刑が確定していた加害者の死刑が執行される
◆10月23日
 新潟県中越地震。死者68名
◆11月11日
 パレスチナ自治政府のアラファト大統領死去。
◆12月17日
 小泉首相、鹿児島県指宿市で盧武鉉韓国大統領と会談

【2014年:いわゆるストックホルム合意&横田夫妻と孫・ウンギョンさんの面会(第二次、第三次安倍内閣:外相は岸田文雄氏(現首相)、拉致担当相は古屋圭司、山谷えり子(国家公安委員長の兼務))】
2014年 - Wikipedia、2014年の日本 - Wikipedia
◆1月13日
 アントニオ猪木参議院議員、2013年11月以来となる北朝鮮訪問

◆1月19日
 沖縄県名護市長選挙で、名護市辺野古地区への普天間基地からの米軍移転反対派で現職の稲嶺進が再選
◆1月28日
 下村博文文部科学大臣、中学校と高校の学習指導要領解説書を改定、中学校の社会科、高校の地理歴史と公民に、尖閣諸島と竹島を「固有の領土」と明記したことを正式に発表。1月29日には韓国では慶尚北道が管轄する竹島に、金寛容・慶尚北道知事が上陸。前日に発表された学習指導要領解説書記載内容に抗議する声明を発表

 理化学研究所が「STAP細胞」の作成に成功したと発表(しかし、後に小保方研究員による捏造の疑いが発覚、発表が撤回される)
◆2月1日
 小学館の学年別学習雑誌に1978年から掲載されていた漫画『あさりちゃん』(室山まゆみ作)がこの日発売の小学二年生3月号を以って35年に及ぶ連載を終了
◆2月5日
 桐朋学園大学非常勤講師の新垣隆が、自らが作曲家・佐村河内守のゴーストライターを18年間務めていたことを発表したことを受け、予定されていた佐村河内の全国ツアーが中止となり、レコード会社の日本コロムビアがCDの出荷やインターネット配信を停止するなどの影響。
 ビッグコミックオリジナル(小学館)に1973年から掲載されてきた野球漫画『あぶさん』(水島新司作)が41年間に及ぶ連載を終了
◆2月7日~23日
 ソチ五輪
◆2月9日
 東京都知事選挙で、自民党、公明党の支持を受けた元厚生労働大臣の舛添要一が初当選
◆2月17日
 北朝鮮の人権状況を調査した国連調査委員会が日本人拉致や公開処刑など残虐な人権侵害行為を挙げ、北朝鮮が国家として組織的に「人道に対する罪を犯した」と非難する最終報告書を公表。国連安全保障理事会に対し、国際刑事裁判所に付託するよう勧告

◆2月22日
 デモ隊が大統領府を封鎖、ヤヌコーヴィチ・ウクライナ大統領がロシアへの亡命に追い込まれる。議会は亡命したヤヌコーヴィチを正式に大統領から解任し、5月25日の大統領選挙開催を決定。2月24日、多数の市民を殺害した容疑で、ヤヌコーヴィチと側近を指名手配(2014年ウクライナ騒乱)。
◆2月24日
 外務省が『日本海が19世紀初頭から国際的に確立された唯一の呼称であり、近年になって日本海の単独呼称に異議を唱え「東海(トンへ)」併記を求める韓国の主張は根拠がない』とする主張を同省ウェブサイトにて開始

◆3月1日
 中国雲南省昆明市の昆明駅前で無差別殺傷事件発生、少なくとも29人が死亡。中国公安部は新疆ウイグル自治区の独立を狙う組織による計画的なテロ事件と断定、現場で容疑者の男女4人を射殺、女1人を逮捕
◆3月2日
 沖縄県石垣市長選挙で、陸上自衛隊の石垣島配備に柔軟姿勢を取る現職の中山義隆が、配備反対派で元市長の大濵長照を破り再選
◆3月10~14日
 モンゴルのウランバートルで横田夫妻が孫であるウンギョンさん(拉致被害者・横田めぐみの娘)と面会
◆3月16日
 北朝鮮により日本海側に10発のロケット砲が発射

◆3月18日
 ロシアのプーチン大統領が、ウクライナからの独立を宣言したクリミア自治共和国のロシアへの編入を表明
 中国と台湾の間に結ばれたサービス貿易協定に反対する学生が台湾立法院(国会)を占拠。4月10日に退去(ひまわり学生運動)。
◆3月26日
 北朝鮮、中距離弾道ミサイル「ノドン」2発を日本海に向け発射

◆3月27日
 静岡地裁、袴田事件の犯人として48年前に逮捕され、34年前に死刑判決が確定し拘置されている袴田死刑囚について、「重要な証拠が捜査機関に捏造された疑いがある」として、再審開始を認め、同時に「拘置を続けることは耐え難いほど正義に反する」との理由で刑と拘置の執行停止も決定、即日釈放。
◆3月31日
 国際司法裁判所、オーストラリアが日本の南氷洋における調査捕鯨を国際捕鯨取締条約違反として訴えた裁判で日本の調査捕鯨は「研究目的ではない」と述べ、条約違反と認定、今後実施しないよう命じる判決を下す
 フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』が放送終了。1982年の放送開始から31年半の歴史に幕を下ろす。
◆4月1日
 消費税が5%から8%に増税
 武器輸出三原則に代わる新たな政府方針として防衛装備移転三原則を制定
◆4月7日
 渡辺喜美みんなの党代表、化粧品会社DHCからの8億円借入金問題を受け、党代表を辞任
◆4月16日
 クルーズ旅客船「セウォル号」が沈没、死者299人

◆5月22日
 タイ軍がクーデターを宣言。憲法を停止。
◆5月29日
 北朝鮮当局による拉致被害者再調査がストックホルムでの日朝協議により合意
(北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia参照)
◆5月30日
 内閣官房に内閣人事局を設置。初代局長には内閣官房副長官の加藤勝信を任命
◆6月12日〜7月13日
 2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会
◆6月16日
 石原環境相が東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う除染廃棄物を保管する国の中間貯蔵施設建設をめぐり難航している福島県側との交渉について「最後は金目でしょ」と述べ、最終的に交付金など金銭で解決するとの見方を示したことに対し、佐藤雄平福島県知事らが批判。19日に発言を撤回し謝罪
◆6月21日
 富岡製糸場の世界文化遺産登録決定
◆6月26日
 終戦前後に現在の北朝鮮地域で死亡した日本人の遺族9人が墓参のため北京経由で北朝鮮に到着、7月5日迄滞在
◆7月1日
 北京で日朝局長級協議

 臨時閣議において、集団的自衛権の行使を条件付きで認める憲法解釈の変更を閣議決定
◆7月3日
 習近平・中国国家主席、国賓として韓国を初訪問。朴槿恵大統領とソウルの大統領府で会談。共同声明で、北朝鮮による「朝鮮半島での核兵器開発に断固として反対する」と明記。従軍慰安婦問題について、関係機関による共同研究を進める旨、声明付属文書に記載
◆7月10日
 1日に北京で開かれた日朝政府間協議の際、北朝鮮が複数の拉致被害者を含む約30人の日本人生存者リストを提示したと日本経済新聞が同日付朝刊で報じたことについて、菅官房長官が記者会見で否定
◆7月11日
  日本大使館は自衛隊創設記念行事の開催会場として予定していたソウルのロッテホテルが、前日の10日夜に「国民感情に触れる」などとして取消を通知したことに対しホテルに抗議。菅官房長官、岸田外相が遺憾の意を表明。レセプションについては日本大使公邸に会場を変更し予定通り開催

◆8月1日
  前日に解党した日本維新の会の「石原グループ」が「次世代の党」、「橋下グループ」が「日本維新の会」をそれぞれ結党
◆9月18日
 スコットランドでイギリスからの独立を問う住民投票を実施。結果は「否決」。
◆9月28日〜12月15日
 香港で雨傘革命(2014年香港反政府デモ)が起きる。最終的に警察の強制排除で終了
◆10月7日
 ノーベル物理学賞受賞者に赤崎勇・天野浩・中村修二の3人が決定
◆10月20日
 公選法違反疑惑で小渕経産相、松島法相が辞任
◆10月24日
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立の覚書が中国で21カ国代表により結ばれる。
◆11月16日
 沖縄県知事選挙で翁長雄志が現職の仲井眞弘多を破り当選
◆11月19日
 みんなの党が解党決定
◆11月27日
 ユネスコの無形文化遺産に「和紙」が登録
◆12月15日
 海江田万里・民主党代表が衆院選(12月14日投開票)での「民主党の不振(63→73と10議席の増加にとどまった)」「海江田自身の落選」を理由に代表辞任を表明
◆12月17日
 アメリカ大統領バラク・オバマとキューバ国家評議会議長ラウル・カストロが両国の国交正常化交渉の開始を発表

新刊紹介:「経済」2025年6月号

「経済」6月号を俺の説明できる範囲で簡単に紹介します。
特集「税財政の基本から考える日本の転換」
◆生活苦解決への政治の出番と財源論(田村智子*1)
◆石破内閣に問われる税・社会保障政策(大沢真理*2)
◆岐路に立つ日本財政(鶴田廣巳*3)
◆納税者権利憲章制定の緊急性と税務行政(石村耕治*4)
◆地方経済、生業を壊すインボイスは廃止(村高芳樹)
◆不公平な法人税制を正す:消費税減税へ(田中里美*5)


◆グローバル経済とは何か2(増田正人*6)
◆資本による労働の包摂と解放(下):マルクス「社会変革の主体的条件成熟」論から考える(関野秀明*7)
◆「働く貧困」の広がりと「少子化」の加速(下)(藤田宏*8)
◆大企業・投資家連合から富を取り戻す(野中郁江*9)


ドイツの今と行方
◆二つの戦争とドイツ(進藤理香子*10)
◆ドイツ経済を分析する(朝日吉太郎*11)
◆ドイツの総選挙結果(宮前忠夫*12)

*1:衆院議員。日本共産党委員長

*2:東大名誉教授。著書『イギリス社会政策史』(1986年、東京大学出版会)、『企業中心社会を超えて』(1993年、時事通信社→2020年、岩波現代文庫)、『男女共同参画社会をつくる』(2002年、NHKブックス)、『現代日本の生活保障システム』(2007年、岩波書店)、『いまこそ考えたい生活保障のしくみ』(2010年、岩波ブックレット)、『生活保障のガバナンス』(2014年、岩波書店)、『生活保障システムの転換』(2025年、岩波書店)

*3:関西大学名誉教授。著書『グローバル時代の法人課税と金融課税』(2023年、有斐閣)

*4:白鴎大学名誉教授。著書『納税者番号制とプライバシー』(1990年、中央経済社)、『納税者番号制と国民背番号』(1992年、旬報社)、『先進諸国の納税者権利憲章』(1993年、中央経済社)、『納税者番号制とは何か』(1994年、岩波ブックレット)、『アメリカ連邦税財政法の構造』(1995年、法律文化社)、『オーストラリアのNPO法制と税制の構造』(1999年、法律文化社)、『アメリカ連邦所得課税法の展開』(2017年、財経詳報社)

*5:三重短期大学教授。著書『会計制度と法人税制』(2017年、唯学書房)

*6:法政大学教授

*7:下関市立大学教授。著書『現代の政治課題と「資本論」』(2013年、学習の友社)、『金融危機と恐慌』(2018年、新日本出版社)、『インフレ不況と「資本論」』(2024年、新日本出版社)

*8:著書『財界戦略とアベノミクス』(2015年、本の泉社)

*9:明治大学名誉教授。著書『現代会計制度の構図』(2005年、大月書店)、『国有林会計論』(2006年、筑波書房)

*10:法政大学教授

*11:鹿児島県立短期大学名誉教授。鹿児島国際大学非常勤講師。著書『グローバル化とドイツ経済・社会システムの新展開』(編著、2003年、文理閣)、『欧州グローバル化の新ステージ』(編著、2015年、文理閣)、『現代資本主義と資本・賃労働関係』(2022年、文理閣)

*12:著書『週労働35時間への挑戦:戦後ドイツ労働時間短縮のたたかい』(1992年、学習の友社)、『人間らしく働くルール:ヨーロッパの挑戦』(2001年、学習の友社)、『あなたは何時間働きますか?:ドイツの働き方改革と選択労働時間』(2018年、本の泉社)

新刊紹介:「歴史評論」2025年5月号

特集「歴史学の焦点」
 辻論文は「時代(辻論文は中世、大河は近世(江戸時代))が違うとは言え、今年の大河ドラマ『べらぼう』で遊女を取り上げたからか?」「近年(2020年)、行われた国立歴史民俗博物館企画展『性差(ジェンダー)の日本史』で遊女を取り上げたからか?」、鄭栄桓論文は「今年は日韓国交正常化60周年だからか?」と思いますが他は失礼ながら「何処が焦点なんだろう?」感があります。
◆平城宮・平城京研究の現在(渡辺晃宏*1)
(内容紹介)
 平城宮・平城京の発掘調査の成果について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、平城京は「都(首都)」、平城宮は「平城京にあった宮城」です。当然、広さは「平城京>平城宮」なので「平城京」の発掘調査は平城宮よりも進展していません。
参考

発掘まだ4割、謎多き古代の首都中枢「平城宮跡」(1/2ページ) - 産経ニュース2021.3.21
 これまでの発掘調査では、軍事に関わる兵部省や文官の人事などを担当する式部省、祭祀を統括する神祇官などの場所が分かっている。だが、大蔵省などはわかっておらず、今後の調査、研究の進展が待たれる。
 令和2年度末現在の平城宮跡での発掘調査の進捗率は「37・8%」。対象面積123・6ヘクタールのうち46・7ヘクタールに当たる。国家的儀式が行われた大極殿などについては判明しているが、周囲には未調査の空白地帯が残る。
 奈良大の渡辺晃宏教授(古代史)は「少なくとも80%は掘らないと全貌は分からない。ようやく道半ばという数字」と分析するが、発掘の進捗とともに期待されるのが、木簡による解明だ。
 これまで平城宮跡では役人の勤務状況や食べ物などについて知る木簡が多く出土。東方官衙地区の調査でも排水路跡で千数百点を超える木簡が見つかり、解読が進められている。


◆日本中世の遊女史研究とその課題(辻浩和*2)
(内容紹介)
 中世においては遊女には「一定の自立性」が認められたが、近世になるにつれて、そうした自立性は失われ、社会的地位も低くなったと指摘されている。
参考

遊女 - Wikipedia
 諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら一方で性も売る様になったものと思われる。
 中世当時、遊女や白拍子を母に持つ公卿や武将は多く、従一位太政大臣にまで上り詰めた徳大寺実基の母も白拍子であり、貴族達は14世紀前半までは、そうした母親の出自に関して、なにはばかることなく、系図に載せ、周囲も怪しむことは無かった。

男と女、線引きは「戸籍」から生まれた。「性差(ジェンダー)の日本史」の企画展が問う“常識” | ハフポスト NEWS2020.10.5
 プロジェクトの代表で国立歴史民俗博物館教授の横山百合子氏*3(日本近世史、ジェンダー史)に聞いた。
 「遊女」という存在は、中世と近世で異なる位置づけにあった。
 「中世の遊女は、売春だけでなく、巧みに歌を歌ったり舞を舞ったりする芸能や宿屋の経営を家業として、その権利を代々女系で受け継ぐ自営業者でした。ところが江戸時代になると、人身売買による売春を幕府が公認する体制がつくられます。この社会で遊女は『商品』となり、生かすも殺すも自由なモノとして扱われるようになったのです」

「性差の日本史」展に行ってきました - 新日本婦人の会中央本部2020.11.4
 性を売る「遊女」とよばれる女性は9世紀後半に登場しました。当時は性を売るだけでなく、芸能にもたけ、独立した自営業者として主体的に生きていたとされ、自分が持っていた「遊女」のイメージがガラリと変わりました。ところが近世になると、江戸幕府の公認のもと男性が経営する遊廓で売春をさせられ、「商品」となっていきます。

「性差(ジェンダー)の日本史」展はなぜ話題? アラサー男性記者が潜入レポ | Hint-Pot2020.11.21
 多くのスペースが割かれているのが第6章の「性の売買と社会」。売春は人間の本能に由来した行為との見方もあるが、「少なくとも古代には性の売買はなかった」と横山教授は言う。
「古代は婚姻関係そのものがゆるやかで、性を売り買いするという考えもなかった。中世になると遊廓ができますが、彼女たちは売春だけしていたわけではなく、和歌や芸能のプロ。社会的な地位も低くなく、差別的な見方はありませんでした」
 遊女が商品化されるようになったのは近世だ。織田信長の「安土日記」には、すでに女性をさらい売り飛ばす描写があるという。
「江戸時代になると幕府の管理のもと、借金のカタに売られてきた女性たちが莫大な税収源となる一大産業になり、国家公認の商売として行政にも大きな影響を与えていました。モノ扱いされていた女性たちは明治になって(ボーガス注:娼妓解放令によって)解放されるんですが、負債を抱えるために実質的な身売りは続いた。自由意志という建前のもとで、彼女らへの同情は薄れ、代わりに淫乱な女だという蔑視が進んでいきました

国立歴史民俗博物館「性差の日本史」ツアー 報告 | 東京大学 B'AI Global Forum2020.11.23
 参加者の間で特に印象深いものとして語られていたのが、第6章に設けられた「性の売買と社会」の展示である。性を売る女性は9世紀後半から現れるが、15世紀後半以前までは女系の家と結び付いた自立的な職業集団だった[3]。ところが、江戸幕府の統制下において、遊女屋や女衒など特定の集団に人身売買の権利が認められ、新吉原遊郭のような遊女町が各地に設置された[4]。

中世の遊女は「個人経営者」であり自立していた 15世紀後半から16世紀に変化し男性が経営する「遊廓」が誕生 | AERA DIGITAL(アエラデジタル)2020.11.28
 国立歴史民俗博物館研究部・横山百合子教授に話を聞いた。
「近年の研究によると、古代社会では男女の結びつきが緩やかで、職業としての売春が生まれたのは9世紀後半ごろだとわかってきました。『売春は最古の職業』ではないわけです。彼女たちの前身は遊行女婦(ゆうこうじょふ)などと呼ばれる専門歌人で、地方の役所などで催される宴会で和歌を詠み、時に男性貴族と性的な交渉を持っていました。一夫一婦制が強化される中で、婚姻と区別される売買春の概念が生まれると、彼女たちは『遊女』と呼ばれるようになったのです」
 中世の遊女たちは芸能者として自立し、売春に限らず、宿泊業者の側面を持つなどいろいろな生業を複合的に営んでいた。個人経営者として「遊女の家」を女系で継承しつつ、遊女の集団を形成していった。
 「中世の遊女たちは社会の一員として、差別を受けることなく、様々な階層の人びとと関係を結びながら生活していました。例えば鎌倉時代中期、駿河国の傀儡子(くぐつ・遊女の一種)たちが生活を守るために、地域の人びととともに荘園の預所(あずかりどころ・荘官)の非法行為を幕府に訴え、全面勝訴した事例はよく知られています」
 こうした自立的な遊女のありかたは、15世紀後半から16世紀にかけて変化する。「遊女の家」の経営権を次第に失い、遊女の身体を男性たちが売買する動きが強まっていったのだ。
「戦国時代を経て、統一政権が誕生し、城下町ができる中で男性が経営する遊女屋が遊女たちを抱えて売春させる『遊廓』が生まれました。遊女は自営業者ではなくなり、多くが人身売買で連れてこられ、経営者に奴隷的な従属を強いられたのです」

揺れ動く「性差の日本史」 歴博展に大きな反響 その理由とは - 産経ニュース(文化部 黒沢綾子)2020.11.29
 今回の展覧会が注目された理由の一つは、「性の売買」を歴史的にひもといているからだろう。まず、巷でいわれる「売春は最古の職業」は当てはまらない。なぜなら婚姻関係そのものが緩やかだった古代日本では、性を売買する概念がなかったというのだ。平安中期になって性を売る遊女が現れるが、彼女たちは売春だけでなく、歌や舞などに長けた芸能のプロであり、宿屋経営も兼ねた自営業者として女系で継承したという。社会的地位も決して低くなかった。
 遊女が商品になったのは近世だ。江戸幕府は人身売買による売春を公認。遊郭を支える金融ネットワークもできるなど、一大産業に。明治に入り(ボーガス注:娼妓解放令により)芸娼妓は開放されるものの、負債で逃れられない女性も多かった。自由意思という建前のもと、公娼制度は継続され、「自ら売る」女性への蔑視が進んだという。遊女が書いた手紙や売春関連の資料、娼妓が使った用具などから、その過酷さが伝わってくる。

知られざる遊女たちの実像│57号 江戸が意気づくイースト・トーキョー:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター2017å¹´8月25æ—¥
 吉原遊郭は、経済面でも社会のシステムにしっかり組み込まれていました。遊女屋は寺社名目金貸付という、幕府の後ろ盾がある金貸しから多額の融資を受け、また、収益の一部を上納金として幕府に納めていたのです。1868年(明治元年)に東京府が江戸町奉行所機構を引き継いだ時期の史料を見ると、旧町奉行所や東京府の金銭収入の12%を遊女屋上納金が占めています。売春業は、非常に重要な資金源でもあったのです。
 (ボーガス注:近世では)特権によって守られていたのは遊女屋であって、遊女ではありません。遊女たちは、農村の口減らしや、親の借金のカタなどとして、牛や馬のように売買され、一方的に性的搾取をされる存在でした。
 19世紀以降、吉原では反抗する遊女による放火が頻発します。
 1849年(嘉永2年)に、梅本屋の遊女16人が共謀した放火未遂事件が起きました。彼女たちは付け火をし、鎮火の騒ぎに紛れて名主役宅に駆け込んで経営者の非道を訴え、自らの正当性を主張して裁きを受けようとしたのです。このときの調書のなかに、遊女が書いた覚え帳という日記が残されています。そこには、腐ったご飯しか食べさせてもらえないとか、瀕死になるほどの折檻を受けたといった凄惨な日常が、遊女自身の話し言葉で赤裸々に綴られています。


◆近世移行期の地域社会と身分制解体(今村直樹*4)
(内容紹介)
 近世移行期、つまり「幕末維新期」において「従来の身分制」は、「版籍奉還」(1869年)、「廃藩置県」(1871年)、「地租改正」、「徴兵令」(1873年)、「秩禄処分」(1876年)等といった明治新政府の諸施策によってどのように解体され、その結果として、どのような地域社会が形成されたのかが、
1)横山百合子『明治維新と近世身分制の解体』(2005年、山川出版社)
2)

尾脇秀和 - Wikipedia
『壱人両名:江戸日本の知られざる二重身分』(2019年、NHKブックス)
『近世社会と壱人両名:身分・支配・秩序の特質と構造』(2020年、吉川弘文館)

といった尾脇秀和*5の『壱人両名』論等、過去の研究実績を踏まえて、論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

原直史*6
 横山百合子『明治維新と近世身分制の解体』(山川出版社、2005)。刊行されて20年近くになるが全く古さを感じさせない名著。
 このような身分制解体期の理解がもとになって、芸娼妓解放令と遊廓・遊女の動向をもあわせて論じた岩波新書『江戸東京の明治維新』に繋がり、新吉原遊廓をめぐる深い問題提起にも展開していった。
 近年話題をさらった尾脇秀和さんの「壱人両名」なども近世身分制の解体とむしろその根強さを前提とした再編をめぐり注目される論点だが、そうした事態が明治維新期にどうなっていくかなど、横山さんの視点に学んで見てみたいものである。しかしこの本、絶版になって久しく、近代史研究者のMさんが「見失ってしまうのが怖い」とツイートしていたことに同感です。復刊されませんかね。

「越境」する武士と百姓 尾脇秀和さん「壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分」|好書好日2019.6.15
 江戸時代、一人の人(壱人〈いちにん〉)が二つの名前(両名〈りょうめい〉)を使い分け、ある時は武士、ある時は百姓と、身分の垣根を自在に越えていた。身分制度の常識を覆す「発見」を一般向けの本にまとめた。
 「歴史学者の間でも、身分は越えられないというのは常識でして。マルクス史学の発展段階論にとらわれてきた影響もあるでしょうが、最近は実証的な研究も進んでいます」
 研究に取り組んで約10年の成果。最初に出会ったのは、尾脇さんの地元・京都の公家に仕える大島数馬という侍と、同じく京都近郊の村に住む利左衛門という百姓だった。
 「大島家に残る膨大な日記を読み込んでいく中で、実印も筆跡も同じなのに違う名前で出てくる2人を見つけました。ひょっとしたら同じ人物なんじゃないかと調べたら、周囲の人たちも、2人が同一人物だとちゃんと知っていることがわかった。面白くなりましたね」
 昨年は『刀の明治維新:「帯刀」は武士の特権か?』(2018年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)で、刀を帯びるのは武士だけという常識に異を唱えた。佛教大講師を務める新進の近世史家。

弁護士会の読書:壱人両名2019.7.20
 2つの名前をもっていると、裁判のとき砂利の上に座るのか、板張りに座るのかといった扱いの違いがあった。
 公家の正親町(おおぎまち)三条家に仕える大島数馬と京都近郊の村に住む百姓の利左衛門。二人は名前も身分も違うが、実は同一人物。この人物は大小二本の刀を腰に帯びる「帯刀」した姿の公家侍「大島数馬」であると同時に、村では野良着を着て農作業に従事する百姓「利左衛門」でもあった。一人の人間が、あるときは武士、あるときは百姓という、二つの身分と名前を使い分けていた。これを、江戸時代に、「壱人両名」(いちにんりょうめい)と呼んだ。
 「壱人両名」は、村や名跡と化した名前や身分を、縦割りである各「支配」との関係を損ねることのないよう、維持・調整できる合理的な方法として、平然と行われていた。ただし、それは声高に奨励されてはならないものだった。
 武士身分をもったまま、「町人別」まで保持して町人身分になっている者は少なくなかった。壱人両名は、ごくありふれたことだった。しかし、何かでそれが発覚すると、「所払い」などの処罰が加えられた。つまり、壱人両名は、江戸時代の社会秩序の大前提、とくに縦割りである各「支配」との関係から、表面上うまく処理するために行われていたのであって、その状態が他人を騙したり、村や町を苦しめたりしない限り、表沙汰にされることはなかった。


◆近代オスマン軍事史研究の状況と課題(永島育*7)
(内容紹介)
 「近代オスマン軍事史研究」の特徴として、初期研究においては第一次大戦敗北で亡国の危機に直面したトルコを「軍事指導者ケマル」が優れた軍事指導で救ったとして、「近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルク*8(1881~1938年:初代大統領)」を美化、正当化する傾向が強かったことが指摘される。
 当然ながら初期研究には
1)ケマルに批判的な著述は少ない
2)ケマルが関わらない、あるいは関わりが薄い軍事史は研究が手薄になる
→逆に「英雄は長生きすべきでない」のか?―小笠原弘幸『ケマル・アタテュルク』|辻井凌|つじーも書くように「ケマルの功績」とされる「ガリポリの戦い」などは「ケマル美化」と言う制約がある物の研究が厚い
3)第一次大戦中のアルメニア人虐殺(トルコ政府の公式見解では『アルメニア人強制移住の過程で、トルコ政府が意図しない死亡事件が起きた(故意の虐殺ではない)』としており、未だに虐殺の存在を否定)など、ケマルも関与した、軍事面での近代トルコの黒歴史(日本における南京事件、慰安婦等の戦争犯罪にあたる)は扱われない*9
と言った弊害があったが、そうした弊害も3)以外は、トルコにおいて、現在ではかなり薄れているとされている。

【参考:ケマル・アタチュルク】

「英雄は長生きすべきでない」のか?―小笠原弘幸『ケマル・アタテュルク』|辻井凌|つじー2023.12.4
1.2023年10月29日、トルコ中がケマルに染まる
 2023年10月29日、「国家の英雄」とはどんな存在なのかまざまざと見せつけられた。トルコの建国100周年記念日である。
 僕はトルコのサッカーに興味があり、サッカークラブのアカウントを多くフォローしている。そのアカウントどれもが建国100周年を祝って「ケマル・アタテュルク」を顕彰する投稿一色になった。
 ケマル・アタテュルク。
 彼こそ現在のトルコの地を外国から防衛し、トルコを建国した「建国の父」である。アタテュルクという名字も「父なるトルコ人」を意味し、議会から与えられたものだ。アタテュルク擁護法というケマルに対する批判を禁止した法律まで存在している。
 果たしてケマル・アタテュルクとは何者か。『オスマン帝国*10』や『オスマン帝国英傑伝*11』といった良質な新書を執筆されている小笠原弘幸さん*12が(ボーガス注:著書『ケマル・アタテュルク』(2023年、中公新書)で)彼の実像にせまっている。
2.地味キャラ軍人が英雄になるまで
 ケマルの人生を追うと、いつも周回遅れな印象を受ける。オスマン帝国軍人ながら政治活動を志すもそれが仇となり希望の任地に配属されなかったり、政治活動においても目立つことが少ない傍流であった。
 彼の軍人としての名誉を欲しいままにしているのが第一次世界大戦での「ガリポリの戦い」だ。イギリスがダーダネルス海峡を攻略するべく攻撃したガリポリ半島をケマルは指揮官として防衛することに成功した。現在は彼が英雄となる第一歩を踏んだ戦いだとされている。
 しかし実はこの戦いで(ボーガス注:戦争当時)英雄視されたのはケマルではなかった。彼より上の立場であったエンヴェル*13とエサトだった*14。ちょこちょこ褒められはしたみたいだが、オスマン軍もオスマン政府もケマルを賞賛することはなかった。
 このようにケマルは長らく日に当たらない人生を送っていた。のちに「建国の父」となる要素はひとつもない。むしろ父となる資格があるだろう人物は他にもいただろう。
 ではなぜケマルが「建国の父」たりえたのか。一つには日が当たってなかっただけで能力は抜群にあったのだろう。さらに「ガリポリの戦い」の功績がメディアによって再発見され「頼れる人物」として世論に浸透した。その上で起きたのがトルコ建国につながる諸外国との「国民闘争」だ。
 彼は勝負師でもあった。「ガリポリの戦い」での勝利もそうだが、最大の山場は「国民闘争」の終盤に発生したギリシャとの「サカリヤ川の戦い」だ。
 政府が拠点に定めたアンカラまで50キロしか離れてないこの場所まで進軍してきたギリシャ軍をケマルは一軍を率いて撤退させることに成功する。
 このときケマルは議会から総司令官に任命されていた。これは全権を掌握できる役職で、オスマン帝国では皇帝しかつくことがないものだ。
 これだけ聞くとケマルが(ボーガス注:この時点で既に)絶対的指導者に君臨してるように見える。だが内情は違う。このとき政府にはケマルと考えの異なる有力者も少なくなかった。ここでケマルがしくじれば総司令官として責任を取って退場してもらえばよい。そうすれば自分たちが実権を握れる。その可能性も見据えた任命であった。
 だがケマルは成功する。その後も権力闘争は続くが外部(ギリシャ)と内部(ライバル)の双方からの挑戦に打ち勝ったケマルは、大統領にのぼりつめ絶対的な指導者になる。
3.永遠の英雄になるための幕引き
 権力を盤石なものにしたケマルは1938年に57歳で亡くなる。今年、彼の命日である11月7日にトルコ中のサッカークラブがケマルを顕彰する投稿をしていた。
 ご丁寧に没年の1938年を193∞に変えている投稿もある。「建国の父は永遠」ということだろう。わざわざ8を∞にしているのは「日本の関ジャニ∞*15」ぐらいだと思っていたがトルコにも存在するとは。
 さて、ケマルはなぜ今日にいたるまで「完全無欠の英雄」であり続けるのか。もちろん成し得た業績がとてつもなく大きいのは間違いない。トルコ建国であり、未熟だった国を守ることだったわけだからだ。法律によってケマルの批判をすることが難しいことも英雄視を後押ししている。
 ここで僕は別の側面を考えてみたい。1938年、ケマルはこの時点で死んだからこそ今日まで英雄たりえているのではないかと。
 ケマルの死後、大統領となったイスメト*16の舵取りでトルコは第二次世界大戦を戦勝国として乗り切る。中立として参戦を引き延ばしながらタイミングを見定め、ぎりぎりのラインで参戦し勝者の切符を手に入れたのはイスメトの手腕なくしてあり得なかった。
 ここで歴史で禁句となるifを提示したい。ケマルが後継として頭に置いていたのがイスメトじゃなかったとしたらどうだろうか。
 晩年のケマルは、最高の右腕であるイスメトとの間に政策面など様々な理由ですきま風が吹いていた。確かにイスメトのケマルへの敬愛は決して薄れなかったため決定的な絶縁までは至っていない。それでもイスメトは首相の座をケマルの勧告で降ろされた。ケマルに指名された後任のジェラル・バヤルは、イスメトと違いケマルと経済政策の方向性が一致している。
 しかし首相交代後一年でケマルは亡くなり、後任の大統領にはイスメトが就任する。
 仮にもしケマルがあと10年(1948年まで)生きていたら、ケマルからイスメトへのバトンは実現したのだろうか。ジェラルがケマルのバックアップを受けて後継への道を歩んでいた可能性もある。
 ケマルが誰に肩入れするかをめぐった後継争いが繰り広げられたかもしれない。それがトルコの内部対立を招いたかもしれない。
 あるいは権力を持ち続ける年老いたケマルが(ボーガス注:晩年、文化大革命で晩節を汚した毛沢東のように)いわば老害のような振る舞いをしていたかもしれない。第二次世界大戦でのトルコの振る舞いはどうなっていただろうか。もちろん変わらない可能性もあるが。
 中華人民共和国の「建国の父」である毛沢東。彼の英雄物語に最もケチをつけたであろう文化大革命は彼が71歳のときだ。
 たとえば彼が朝鮮戦争で中国の脅威をアメリカなどに見せつけた時点でこの世を去っていたとしたら、反右派闘争による弾圧、大躍進政策の失敗、文化大革命での暴走が彼によって引き起こされることはなかったかもしれない。もっと絶対的かつ神格化された毛沢東で今もいられたかもしれない。
 もちろんあくまでifだし、歴史は一人の生き死にだけでそう簡単に流れが変わらないだろう。
 だが、英雄の物語は長編であればあるほど物語の成立を困難にさせていく。毛沢東は「永遠の英雄」になるには物語が長すぎた。
 もちろんケマル自身はあんなタイミングで倒れるのではなく、まだまだ成し遂げたいことがあったはずだ。だが不本意ながらも彼の一生は「永遠の英雄」で居続けるためにちょうどいい長さの物語だったのかもしれない。

 別に「旧ソ連のレーニン崇拝、中国の毛沢東崇拝、北朝鮮の金日成崇拝」等を正当化する気もありませんが、こうしたトルコの「アタチュルク崇拝」を「反共ウヨ連中」がどう考えてるのかとは思います。


【参考:アルメニア人虐殺】

タラート・パシャ暗殺事件 - Wikipedia
 1921年3月15日に過激派組織「アルメニア革命連盟」構成員のソゴモン・テフリリアンが、元オスマン帝国大宰相でアルメニア人虐殺に関与したタラート・パシャ(1874~1921年、暗殺当時、ドイツのベルリンに亡命)を暗殺した事件である。
 1919年7月5日、タラートは、オスマン帝国の特別軍事法廷によって、「帝国のアルメニア人の虐殺と絶滅」の罪で有罪判決を受け、欠席裁判で死刑を宣告された。
 タラート暗殺後の1922年、オスマン帝国と対立する立場のアンカラ政府(ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)が指導)はタラートの有罪判決を取り消し、その2年後、タラートの遺族に年金を与える法律を可決した。タラートが暗殺されたときに着ていたシャツは、イスタンブール軍事博物館に展示されている。
 一方、トルコではテロリストとみなされたテフリリアンだが、アルメニア人にとっては英雄となった。

フラント・ディンク - Wikipedia
 1955~2007年。アルメニア系トルコ人のジャーナリスト。第1次世界大戦中に行われた「アルメニア人虐殺」を告発する一方で、アルメニア人とトルコ人の和解を訴えてきた。2007年、極右活動家によって暗殺された。

アルメニア人大量殺りく報復部隊 | 国際テロリズム要覧(要約版) | 公安調査庁
 「アルメニア人大量殺りく報復部隊」(JCAG)は,「1915年から1916年のトルコによるアルメニア人虐殺に対する報復を行う」と主張し,トルコからの分離独立及び各国のアルメニア人居住区を統合したアルメニア共和国樹立を目指して1975年に設立されたアルメニア系過激組織である。「アルメニア革命軍」(ARA)とも呼称される。世界中のアルメニア人コミュニティにネットワークを有するとされ,1980年代まで,世界各地においてトルコ人外交官に対するテロを続発させた。

赤旗アルメニア人「虐殺」 トルコで大論争/学者・作家が「謝罪」2008.12.29
 この事件はトルコにとって歴史的に複雑な問題となっています。二〇〇六年にノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムク氏*17は、二〇〇五年の外国メディアとのインタビューで、政府は一九一五年の事件を「虐殺」と認めるべきだと発言。同氏が一時「国家侮辱罪」で起訴されたこと(ボーガス注:国内外の批判もあり最終的には不起訴)は、同国の欧州連合(EU)加盟交渉にかかわる人権問題にもなりました。

トルコ首相、アルメニア人虐殺に初の哀悼表明 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News2014.4.24
 トルコのレジェプ・タイップ・エルドアン*18首相は23日、第1次世界大戦中のアルメニア人虐殺について、トルコの国家元首として初めて哀悼の意を表明した。
 エルドアン首相は、1915年のアルメニア人強制移住開始からちょうど99年の節目の前日に当たる同日、多方面から「20世紀最初の大虐殺」とみなされているこの事件を「われわれ共通の痛み」と呼んだ上で、1915年に起きた一連の出来事は「非人道的結果」をもたらしたと言明。だが一方で、それをトルコに対する敵対心の口実に使用することは「容認できない」とも述べた。
 アルメニアは、オスマン帝国の下で最大150万人のアルメニア人が殺害されたとして、この出来事が「ジェノサイド(大量虐殺)」であるとトルコに認めさせようとしてきた。一方、トルコ側は死者数を50万人程度とした上で、これらの人々が第1次大戦中の戦闘と飢餓によって死亡したと主張。これを「ジェノサイド」と呼ぶことを断固として拒否している。

トルコ、アルメニアと国交正常化も エルドアン大統領が示唆 - 産経ニュース2020.12.11
 トルコのエルドアン大統領は10日、断絶状態にあるアルメニアとの関係について「アルメニアがトルコに対し前向きの措置を取るなら国境を開く用意がある」と述べ、条件付きで国交正常化に応じる可能性を示唆した。
 訪問先のアゼルバイジャンの首都バクーで、アリエフ大統領と会談後の共同記者会見で表明した。オスマン帝国末期のアルメニア人虐殺をトルコが否定しているため、アルメニアとトルコには正式な外交関係がない。

トルコ大統領「事実に反する」 ジェノサイド認定の米を非難 - 産経ニュース2021.4.27
 トルコのエルドアン大統領は26日に演説し、バイデン米大統領がオスマン帝国末期の第一次大戦時に起きたアルメニア人迫害を「ジェノサイド」(民族大量虐殺)と認定したことについて、「根拠がなく不公平で、事実に反する」と強く非難した。
 ロイター通信によると、エルドアン氏は17世紀以降、西欧から北米への移住者らが先住民と対立を繰り広げた歴史を持ち出し、「(ジェノサイド認定の前に)自らの姿を鏡で見るべきだ」と非難した。
 また、オスマン帝国末期の1915年以降、150万人が犠牲になったとするアルメニアの主張は「誇張だ」として、米政権に認定の撤回を要求。トルコ、アルメニア双方の歴史家による事実解明の合同委員会の設置も提案した。トルコは第一次大戦中、少数派キリスト教徒のアルメニア人に強制移住を命じ、その過程で多数が犠牲になったことは認めているが、多くは飢餓などによるもので組織的な虐殺はなかったと主張している。
 アルメニア人迫害はエルドアン氏の支持基盤のイスラム保守層だけでなく、多くのトルコ人の機微に触れる問題で、同国内の野党も米政権の判断に反発している模様。
 同氏の激しい対米批判には、新型コロナウイルス感染拡大や経済悪化で低下する支持を取り戻す狙いもありそうだ。


◆GHQ占領下における朝鮮人の越境の痕跡を読む:CCD(民間検閲局)の郵便検閲記録を中心に(鄭栄桓*19)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

「あなたが大阪にいると知ってうれしい」…4・3済州から消えた家族 : 政治•社会 : ハンギョレ新聞2024.4.3
 済州4・3抗争期に日本と済州との間で手紙がやりとりされていたことを示す文書が発掘された。米国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた当時の日本駐留連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の文書には、このような内容が含まれている。解放後、韓国駐留の米第24軍団が民間人の郵便を検閲していたのと同様、日本のGHQ傘下の民間検閲支隊(CCD)も通信と郵便を検閲していた。彼らは韓国と日本を行き来する郵便を検閲し、このような内容を収集して報告していた。
 「同じ船に乗って日本にやって来た仲間の学生は、今はみな元気でやっています」。
 1949年7月22日に大阪府八尾市からカン・ヒャンウォンが西帰面下孝里(ソグィミョン・ハヒョリ)のカン・チャンブンに送った手紙は、同じ船に乗って日本に渡ってきた学生たちの安否を伝えている。この時期に日本に渡る方法は密航だけだった。複数の学生が集団で密航船に乗り、虐殺と検挙を逃れて日本に渡ったものとみられる。
 4・3の研究者たちは「当時の4・3抗争の混乱のさなかで済州人たちの日本密航は続いていたが、日本に居住する人々と済州の家族、親戚、知人たちとの間で郵便がやりとりされていたのは見たことがなかった」、「手紙の原文が発掘されれば、4・3抗争期になぜ日本に渡らねばならなかったのか、彼らがどのように生きたのかなど、4・3抗争と在日済州人との関係の研究にとって良い資料になるだろう」と話した。

 なお、「CCD、朝鮮人、密航」でググってヒットした記事が「ハンギョレのこれだけ」だっただけで紹介には他意はありません(済州島事件やハンギョレを特に取り上げたかったわけではない)。小生も「無能なこと」は自覚してるので歴史評論に限らず、前衛や月刊経済も含めて、「関連記事があれば紹介した上でコメントすること(まずはググって関連記事を探すこと)」にしています。その方が「自分で内容紹介を全て書く」より楽だし、「凡人の俺の駄文」よりも「理解もされやすい(特に紹介記事が『マスコミ記者』『研究者、学者』『作家』の記事など、それなりの能力を持つプロの記事の場合)」のではないか。
 それはともかく、勿論、「韓国から日本への渡航」は「済州4・3抗争(済州島四・三事件 - Wikipedia)」のような「虐殺と迫害から逃れて(政治難民)」ばかりではなく

・戦前日本の南米(ブラジル等)移民、満州移民
・1980年代のジャパゆきさん
・現在の「メキシコから米国への移民」
・現在の『ブラジルから、日本へ出稼ぎに来た日系人(SUBARUの工場がある群馬県太田市、スズキの工場がある静岡県浜松市などに居住)

等のような「経済的に食えないから」という要素は当然あったでしょう。
 後、話が脱線しますが、済州島事件(1948å¹´4月)以外にも麗水・順天事件 - Wikipedia(1948å¹´10月)、聞慶虐殺事件 - Wikipedia(1949å¹´12月)、保導連盟事件 - Wikipedia(1950å¹´6月)といった類似の虐殺事件(李承晩の大統領就任前に起こった済州島事件以外は、全て李承晩政権時代)がこの時期起こっています。これらについては以前新刊紹介:「歴史評論」10月号 - bogus-simotukareのブログ等で紹介しましたが、韓国でもこれらの犯罪事件の追及が近年始まってるようです。


◆「感情史」ブームの回顧と展望(森田直子*20)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

感情という視点から歴史を見ることで、史実に新たな光を当てる|上智大学(森田直子)
 感情史は、日本では10年ほど前から注目され始めた歴史学の新しいジャンルです*21。歴史学はいつ誰が何をしたかという無機的な事実の羅列だと認識している人は多いと思いますが、大抵の出来事は人間が引き起こすもの。出来事の裏には、必ず何かしらの感情が潜んでいます。感情史は、その感情に注目し、従来の歴史的解釈とは異なる新たな側面に光を当てようとするものです。
 歴史学では感情は厄介者扱いでした。主に文字で書かれた史料を客観的に分析する歴史学では、史料に書かれていない主観的な感情を含む分析は不可能だからです。その流れを変えたのは2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件だったとも言われます。(ボーガス注:遺族等の)言葉(文字)にしえないショックや怒り、悲しみが爆発したことで、感情というものにもっと目を向けなければという機運が高まったのです。
 実際、魔女狩りやナショナリズムなど、感情を抜きにしては説明がつかない歴史事象は少なくありません。同調圧力や無自覚の同意が歴史を動かす要因になっていることもあります。
 私は19世紀のドイツ史が専門ですが、なかでも男子学生がサークル活動のように行っていた決闘について研究をしています。本当の決闘ではないので殺し合うわけではないのですが、本物の剣を使って斬り合うのです。当然、傷だらけ、血だらけになる。なぜそのような野蛮な行為を日常的にしていたのか。男らしさを誇示するため? 仲間はずれになりたくないから? 名誉のためとして仕方なく? 決闘という事実の背景にある感情から、決闘の意味を浮き彫りにできたらおもしろいと思っています。
 もう一つは、名誉市民についての研究です。ドイツでは都市に貢献した人を名誉市民として顕彰するシステムが19世紀初頭からできあがっていきますが、どんな人をどのように選んでいたのか。公の歴史では顕彰されたという事実があるのみでも、議事録などを詳細に見ていくと反対意見が書かれているなど、その都市の政治や人の動きがいきいきと見えてきます。

人びとは共感を、どのように経験し、また言語化してきたのか――。|じんぶん堂
 『共感の共同体:感情史の世界をひらく』(伊東剛史*22・森田直子編、平凡社、2023年10月18日刊)の編者2名が、本書について紹介します。
◆森田直子
 本書の副題は「感情史*23を世界にひらく」ですが、「感情史」は見慣れない言葉かもしれません。「感情史」というのは英語のhistory of emotionsなどに由来していて、直訳すると「感情の歴史」となりますし、「感情歴史学*24」などと訳されることもあります。(どの訳が正しい/間違いということはありませんが、日本の歴史学界では「感情史」が浸透しつつあるようです。)


◆歴史の眼「抵抗をどのように語るのか:ベルリン・ナチズムへの抵抗記念館」(土肥有理*25)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

赤旗ベルリンの抵抗博物館って?2005.10.15
〈問い〉
 ドイツには、公的な抵抗運動の博物館があるそうですが、どんな博物館ですか?
〈答え〉 
 館内には、ヒトラーに対する軍人のクーデターグループ(ボーガス注:黒いオーケストラ)をはじめ、学生反ナチ活動家グループ「白バラ」やドイツ共産党(KPD)やドイツ社会民主党員の活動、ナチスに取り込まれたキリスト教会に抗してナチ反対を貫いたカトリックの神父やプロテスタントの牧師の活動*26、ユダヤ人、シンティ・ロマ(ジプシー)の抵抗、ユダヤ人をかくまって援助した人、強制収容所での蜂起などが展示されています。
 抵抗博物館は、ヒトラーに対する軍事クーデターを企てた(ボーガス注:が失敗し死刑となった)シュタウフェンベルク伯爵*27らの遺族が1953年、処刑が行われた国防省跡に小さな碑を建てたのが始まりで、1967年には、ヒトラーに抵抗した軍人の資料館になり、1989年、ドイツ全土のレジスタンス活動を紹介、展示する博物館となりました。
 しかし、ドイツでもこうした施設が戦後すんなりとできたのではありません。1960年代から活発化した青年学生運動が「祖父や父はナチの時代に何をしたのか。なぜナチスに抵抗しなかったのか」と問うなかで、抵抗運動犠牲者への顕彰につながったのです。
 一方、日本では、小林多喜二のように戦争に反対したため、拷問で殺された人々(拷問で虐殺されたり獄死したりした人が194人、獄中で病死した人が1503人:治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)にたいして、政府は公式にはその事実さえ認めず、犠牲者の顕彰どころか加害者の処罰、被害者救済もないままです。

シュタウフェンベルクと抵抗運動の人びと - ドイツ生活情報満載!ドイツニュースダイジェスト
 1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、東プロイセンの総統本営でヒトラー暗殺を試みたが、あと一歩というところで失敗に終わり、翌日未明、同士と共にこの場所で銃殺された。
 あれから70年が経った日、現在はドイツ連邦国防軍の敷地であるこの中庭で、連邦政府による追悼式典が行われた。
 抵抗運動に携わった人々は、今でこそ「自らの良心に従った勇気ある者」とドイツの国内外で称えられているが、ガウク大統領は演説の中で、「1950年代当時、シュタウフェンベルクとその同士は『国への裏切り者』として家族に中傷が及ぶこともあった」と、彼らの名誉回復に至るまでの長い道のりについても言及した。


◆書評:大久保由理『「大東亜共栄圏」における南方国策移民』(2023年、晃洋書房)(評者:細谷亨*28)
(内容紹介)
 アジア太平洋戦争下の国策移民と言えば、満州移民が有名で

◆加藤聖文*29『満蒙開拓団:虚妄の「日満一体」』(2017年、岩波現代全書→『満蒙開拓団:国策の虜囚』と改題し2023年、岩波現代文庫)

等、研究蓄積も多いが、それに比べ研究が手薄な「南方国策移民」を取り上げている。評者は満州移民が専ら「自作農としての移民」であるのに対し、南方移民が

「大東亜共栄圏」における南方国策移民 - 株式会社晃洋書房
◆第二章 拓南塾:企業社員の養成

ということで「企業移民(企業社員としての移民)」を含んでおり、「企業移民への研究が従来、手薄だったこと」から大久保著書を肯定的に評価している。
 一方で大久保著書が「南方国策移民当時の分析」に留まっていることに対し、「南方国策移民経験者」が「戦後(引き揚げ後)、その体験をどう総括し、戦後をどのように生きたのか」を分析することで、さらに意義ある研究となるのではないかとしている。

参考

「大東亜共栄圏」における南方国策移民 - 株式会社晃洋書房
 「大東亜共栄圏」の「建設」をうたい、「異民族との共存共栄」をタテマエとした聖戦イデオロギーを、同時代の現実を生きる人びと―民衆はどのように受容し、あるいは受容せずにどう行動したのか。
 人びとが南方を目指した1940年代。南方開拓の「拓士」として養成された青年たちは「大東亜共栄圏」を建設できたのか。
 本書が光を当てる「南方国策移民」は、知識人でも植民地主体でもない、日本人の一〇代後半から二〇歳前後のセミ・エリート青年である。
 限られた拓務省*30の公刊史料を中心に政府が進めた南方移民政策をたどり、政策に応じて「南方雄飛」を目指した個人が、どのように「大東亜共栄圏」建設の一翼を主体的に担ったのか、その内実に迫る。
◆第一章 拓務省の南進
◆第二章 拓南塾:企業社員の養成
◆第三章 拓南練成所:農業指導者の養成
◆第四章 南方国策移民になる:ある拓南塾生の「錬成」経験
◆第五章 南方国策移民の南方経験:日本占領下のフィリピン
◆補 論 断裂する日本占領下の記憶:グアム・チャモロの人びとと旧日本軍

【南方人材の育成】(『小平市史・近現代編』の「第四章 戦時開発と町制施行」の「第四節 戦前・戦時の移動と生活圏」の「3 アジアのなかの小平」収録)
 (ボーガス注:東京都)小平にもアジアの開発*31を担う人材を養成する機関があった。一つは『第三章 学園開発と小平村』の『第一節 学園開発のはじまり』の『3 郊外型施設の進出』の『海外拓殖学校・東京高等拓殖学校』で紹介した『海外拓殖学校・東京高等拓殖学校』で、これは一九四〇年に拓殖大学に吸収合併され、校地は茗荷谷にある本科に進学するための拓殖大学予科校舎となった。
 そしてもう一つが、一九四一年五月五日に開校した拓南塾である。一九四〇年頃になると、日中戦争の行き詰まりを打開するために武力を用いて南方進出し、重要資源の自給圏である「大東亜共栄圏」を建設するという南進論が台頭するようになった。それが南部仏印進駐(一九四一年七月)のかたちで現実化したことで、対英米戦争への道が決定づけられていった。このような情勢のなかで拓務省は、一八歳(中等学校四年終了)以上を対象に二年間の教育訓練を施して、「南方に活躍する若き人材を育成する」として拓南塾を創設することを決めた(『朝日新聞』一九四〇年一二月二一日)。小平青年学校を増改築した塾舎には、二〇倍の入試倍率を突破した一〇〇名の若者が集って、全寮制のもとで切磋琢磨した。同塾はその後水道橋、石神井、保土ヶ谷へと移転していったが、実践的な教育と厳しい訓練を通じて、南方統治と資源開発*32のための「中堅人物」を輩出したのだった。このように小平村*33は、アジア進出*34のための人材育成の場でもあったのである。

拓南訓練所
 昭和15年、ニューギニア・パラオ諸島等の南洋地域で石油・ゴム等の資源を開発する目的で「拓南協会」が設立され、昭和16年4月「拓南訓練所」が静岡県沼津市に開設され南洋地域の資源開発を指導できる人材の養成を開始した。
 その後、日本拓殖協会に経営を移管し大東亜省*35管理のもと「拓南練成所」と改称され訓練期間を6ヶ月に制定して再発足した。昭和17年9月以降の4年間で千数百名の若者を輩出した。しかし戦局の悪化に伴い、民間人であった卒業生も「われ南洋の防波堤たらん」と戦場で懸命に任務を全うしようとしたが、中南海各地で300余名が散華した。
 戦後、九死に一生を得て帰国した第一期訓練生は、南方から引き揚げてくる卒業生を迎え入れる為に練成所跡地で生活を始めた。その後、散華した卒業生達の御霊を慰めるため、懐かしいこの地に拓南神社を建立した。

南方の戦場へ 「拓南訓練練成所跡」 | しずおか多居夢州(しずおかたいむす) - 楽天ブログ
 沼津市足高の鉄工団地入り口近くに拓南訓練練成所跡の碑があります。
 拓南訓練所は東南アジアへ開拓を目的に1941年に開所され100名の訓練生が採用されました。沼津では1年間の訓練をしたのちパラオで訓練を行いました。
 太平洋戦争が始まると拓南練成所と名前が変わり、終戦までに1600余名が南方に送り出されました。南方の赴任地がすでに戦場となっていたこともあり300名あまりが現地で亡くなっている。

 話が脱線しますが「小平市史」ですが他にも

【小平にやって来た人びと】(『小平市史・近現代編』の「第四章 戦時開発と町制施行」の「第四節 戦前・戦時の移動と生活圏」の「3 アジアのなかの小平」収録)
 小平からアジアに出ていく人ばかりではなく、アジア諸地域から小平にやってきた人たちもいる。
 (ボーガス注:小平にある)東京商科大学*36には植民地である台湾や朝鮮出身の学生に加え、満州事変後はその他のアジア地域出身の留学生が増えたという。一九四一(昭和一六)年の卒業式では、満州出身者二名、中国出身者二名、アメリカ日系二世三名、タイ、ビルマ出身者七名の外国籍の卒業生に対し、高瀬(ボーガス注:荘太郎)*37学長は「将来永久に提携の実を挙ぐるよう努力を望む」との言葉を贈った。
 インドからやってきた独立運動家が小平に住んでいた。マヘンドラ・プラタップ(一八八六~一九七九)である。
 二八歳の時インド独立運動に生涯を捧げることを決意し、民族独立運動と世界連邦運動に邁進しながら世界を遍歴するうちに、一九二二年に来日し、インドから亡命していた独立運動家のビハリー・ボースや、アジア主義者*38である大川周明、満川亀太郎らと交流をもった。その後も理想の実現のために世界を股にかけて活動したあと再来日した。一九三八年、プラタップは小平村*39の津田英学塾*40にほど近い場所に四〇〇坪の土地を入手して、世界連邦日本支部を建設した。そこには彼に共鳴する日本人やインド人だけでなく、中国、モンゴル、ベトナム、フィリピン、トルコ、ドイツ、イタリアなど、人種、国籍、宗教を異にしたさまざまな人びとが集ったという。新聞では「最初は小平村*41にきて誤解されはしないかと思ってゐましたが親切な村人の態度や言葉にすっかり安心していまでは隣組の一員にさせてもらってゐます」と、地域社会に溶け込んでいるようすを語っていた(近現代編史料集③ No.二一八)。

ですからねえ。「あの戦争をまさか美化してるのか?」と疑いたくなります。
 そういう事実があったのなら「書くな」とは言いませんが「書き方に問題がありはしないか」。
 まあ、「公平のために書いておけば」一方では

【満蒙開拓青少年義勇軍】(『小平市史・近現代編』の「第四章 戦時開発と町制施行」の「第四節 戦前・戦時の移動と生活圏」の「3 アジアのなかの小平」収録)
 入植地の現実は「大理想郷建設」にはほど遠かった。開拓とはいいつつも、実際には現地住民が耕した土地を安く買いたたいてばかりで、追い出された中国人は日本人の下働きに使われるか、強制的に移住させられた。義勇軍の隊員が現地の人から反感を込めて「ショウクイズ(小鬼子)」と呼ばれるのも当然であった。一方、隊員の寄宿舎は狭く不衛生で、ホームシックからノイローゼになる者が出ても、放置されるだけであった。冬になればマイナス三〇度になる厳しい気候も隊員を苦しめた。隊員たちのストレスは宿舎で爆発し、「憂さ晴らしでリンチは毎晩ありましたが、みんな見て見ぬふり」という状況であった。

【戦地での移動とアジア体験】(『小平市史・近現代編』の「第四章 戦時開発と町制施行」の「第四節 戦前・戦時の移動と生活圏」の「3 アジアのなかの小平」収録)
 日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけて、兵士たちは朝鮮半島、中国大陸、南方(東南アジア)、南洋(太平洋)の島々へと、船、列車、自動車、馬車、徒歩などさまざまな手段で、実に長い距離にわたって移動していったことがわかる。
 彼らは戦場で現地の人びとを苦しめる日本軍の頽廃した姿にも直面した。証言のなかには、南方の島に朝鮮人慰安婦がいたことや、満州で日本人と朝鮮人の女性がいる慰安所を見たことに触れているものがある。

【満州の日本軍】(『小平市史・近現代編』の「第四章 戦時開発と町制施行」の「第四節 戦前・戦時の移動と生活圏」の「3 アジアのなかの小平」収録)
 立川飛行機に勤務していた金子総一は、戦争末期の一九四四(昭和一九)年八月に召集され、満州の斉斉哈爾(チチハル)飛行場の教育飛行隊で、飛行機の点検・整備・エンジン調整の仕事についた。
 彼は満州での軍隊体験のなかで頽廃する日本軍の体質を目の当たりにした。彼はあるとき内地での飛行機開発や生産状況の情報が欲しいという下士官から料亭に誘われたが、そこで目にしたものは豊富な酒と「今どきこんな(ボーガス注:上等な)ものが(ボーガス注:食べられるのか?)という(ボーガス注:高級)料理」であった。

という批判的な記述もありますが。

*1:奈良大学教授。著書『平城京と木簡の世紀』(2009年、講談社学術文庫)等

*2:川村学園女子大学教授等を経て立命館大学教授。著書『中世の〈遊女〉』(2017年、京都大学学術出版会)

*3:著書『明治維新と近世身分制の解体』(2005年、山川出版社)、『江戸東京の明治維新』(2018年、岩波新書)等

*4:熊本大学准教授。著書『近世の地域行財政と明治維新』(2020年、吉川弘文館)

*5:著書『氏名の誕生』(2021年、ちくま新書)、『お白洲から見る江戸時代:「身分の上下」はどう可視化されたか』(2022年、NHK出版新書)、『女の氏名誕生』(2024年、ちくま新書)等

*6:原氏は新潟大学教授。著書『日本近世の地域と流通』(1996年、山川出版社)、『近世商人と市場』(2017年、山川出版社日本史リブレット)等

*7:永島氏の研究成果については永島 育 (IKU NAGASHIMA) - マイポータル - researchmap参照

*8:宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコの発展はないと考え、憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、政教分離(世俗主義)を断行。トルコ語表記をアラビア文字からアルファベットへ変更、一夫多妻禁止や女性参政権導入、スルタン制・カリフ制廃止などトルコの近代化を推進した。「アタチュルク」は1934年にトルコ大国民議会から付与された敬称で、「トルコの父」の意味。死因は肝硬変と診断され、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われる「過度の飲酒」が原因とされている。ケマルは生前、一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。イスタンブールには彼にちなんで名づけられたアタテュルク国際空港、エルズルムにはアタテュルク大学がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにケマルにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはケマルの銅像が立ち、役所や学校にはケマルの肖像画が掲げられている。トルコの全ての紙幣にはケマルの肖像が印刷されている。さらに、「アタテュルクの記念碑等を公に侮辱した者は、1年以上3年以下の懲役に処す。アタテュルクの記念像、記念碑等を破壊、汚したりした者は1年以上5年以下の懲役に処す」とする「アタテュルク擁護法」という法律も存在する。(ムスタファ・ケマル・アタテュルク - Wikipedia参照)

*9:まあ、「ホロコースト否定論(ドイツ)」「南京事件否定論(日本)」等でわかるように「負の歴史」を扱いたがらないのは「古今東西よくある話」であり「アルメニア人虐殺」研究がトルコで進まないのも理解できる話です。

*10:2018年、中公新書

*11:2020年、幻冬舎新書

*12:九州大学准教授

*13:1881~1922年。1913年以降オスマン帝国陸軍大臣として兵権を掌握し、1918年まで大宰相メフメト・タラート・パシャと海軍大臣アフメト・ジェマル・パシャとともに三頭政治を行う。しかし、第一次世界大戦後にムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)との政争に敗れ、トルコを去る。その後はトルキスタンで反ソゲリラに身を投じるも、赤軍の掃討を受けて壮絶な最期を遂げた(エンヴェル・パシャ - Wikipedia参照)

*14:但し、歴史評論の「長島論文」も指摘するように、そうした事実とは関係なく当初の軍事史研究ではエンヴェルがケマルと対立し国外亡命に追い込まれたこともあって「ケマルが美化される(エンヴェルなどが軽視、無視される)」ことになります。

*15:ジャニー喜多川の性加害が問題になってからは「SUPER EIGHT」に改名

*16:1884~1973年。イスメトはムスタファ・ケマル(後にケマル・アタチュルク)大統領のもとで1923~1937年まで首相としてケマルの改革を支え、1934年に「イノニュの戦い」を記念して議会から「イノニュ」の姓を贈られた。1938å¹´11月10日、アタテュルク大統領が死去すると、その翌日、大国民議会はイスメトを後継大統領に指名した(1950年まで大統領)。第二次世界大戦後、トルコは西側(アメリカ)陣営に入る道を選んだ。この外交政策のために、民主主義を強調せざるを得なくなったイスメトは一党独裁政策を転換し、ジェラル・バヤル(1883~1986年:1937~1939年まで首相、1950~1960年まで大統領)ら一部の共和人民党員が民主党を結党することを認めた。その結果、1950年の総選挙で、民主党は議会の圧倒多数を獲得してバヤルが第三代大統領に選出され、イノニュは大統領を退いて野党党首となった。1950年代の経済失策からバヤル民主党政権が1960年の軍事クーデターで打倒されると、翌1961年の総選挙で共和人民党は比較第一党となり、1965年までイスメトが首相を務めた。1972年、共和人民党の書記長選挙でビュレント・エジェヴィト(1925~2006年:イスメト党首の下で共和人民党書記長、後に共和人民党党首、トルコ首相)がイスメトの推す候補を破って当選したのを受けて党首を辞任、エジェヴィトにこれを譲った。イスメトは終身上院議員となり、翌年死去した。死後、アンカラのアタテュルク廟に葬られた(イスメト・イノニュ - Wikipedia参照)

*17:邦訳に『わたしの名は赤』、『雪』(以上、2012年、ハヤカワepi文庫)、『無垢の博物館』(2022年、ハヤカワepi文庫)等

*18:役職は当時。現在は大統領

*19:明治学院大学教授。著書『朝鮮独立への隘路:在日朝鮮人の解放五年史』(2013年、法政大学出版会)、『忘却のための「和解」:『帝国の慰安婦』と日本の責任』(2016年、世織書房)、『平和なき「平和主義」:戦後日本の思想と運動』(2016年、法政大学出版局)、『歴史のなかの朝鮮籍』(2022年、以文社)

*20:上智大学准教授

*21:但し、「感情史」のような問題意識としてはそれ以前に「心性史」が存在する(心性史 - Wikipedia参照)

*22:東京外国語大学准教授。著書『近代イギリスの動物史』(2025年、名古屋大学出版会)

*23:この例としては例えばヤン・プランパー『感情史の始まり』(2020年、みすず書房)、バーバラ・H・ローゼンワイン他『感情史とは何か』(2021年、岩波書店)

*24:この例としては例えばアラン・コルバン他『感情の歴史1~3』(2020年、藤原書店)、南川高志編『生き方と感情の歴史学』(2021年、山川出版社)

*25:明治大学助教

*26:例えばディートリヒ・ボンヘッファー - Wikipedia(1906~1945年)

*27:1907~1944年。1944å¹´7月20日に、ヒトラーを時限爆弾によって暗殺する計画を実行したが、ヒトラーは軽傷を負うに留まった。クーデター計画「ヴァルキューレ作戦」も失敗し、1944å¹´7月21日に逮捕され、銃殺刑に処せられた。現在のドイツでは、英雄として顕彰されている(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク - Wikipedia 参照)

*28:立命館大学教授。著書『日本帝国の膨張・崩壊と満蒙開拓団』(2019年、有志舎)

*29:駒澤大学教授。著書『満鉄全史』(2006年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『「大日本帝国」崩壊』(2009年、中公新書)、『国民国家と戦争:挫折の日本近代史』(2017年、角川選書)、『海外引揚の研究』(2020年、岩波書店)

*30:1929年に設置され、朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太庁、南洋庁の統治事務の監督、および海外移民の募集や指導を行った。1942年に大東亜省が設置されたことで廃止(拓務省 - Wikipedia参照)

*31:原文のまま。勿論「東南アジアへの侵略行為」なのでカギ括弧もつけずに「開発」と書いていいか、非常に疑問に思います。

*32:原文のまま。「しつこいですが」勿論「東南アジアへの侵略行為」なのでカギ括弧もつけずに「南方統治と資源開発」と書いていいか、非常に疑問に思います。

*33:当時。現在は小平市

*34:原文のまま。「しつこいですが」勿論「東南アジアへの侵略行為」なのでカギ括弧もつけずに「アジア進出」と書いていいか、非常に疑問に思います。

*35:1942~1945年まで設置

*36:現在の一橋大学

*37:1892~1966年。1940~1946年まで東京商科大学(1944年からは東京産業大学に改称)学長。後に政界入りし参院議員(1947~1965年)。吉田内閣文相、通産相、郵政相を歴任(高瀬荘太郎 - Wikipedia参照)

*38:こう言えば聞こえはいいですが要するに右翼ですからね。

*39:当時。現在は小平市

*40:現在の津田塾大学

*41:当時。現在は小平市

黒井文太郎に突っ込む(2025年4月15日分)

黒井文太郎
 これは当然に批判多しですが、これでプーチンが満足するわけではないことも指摘しておきたい。
 あくまですぐにタダで手に入るならプーチンは受け入れるだろうけれども、それ単に一時的な話。すぐに攻撃は再開します。プーチンの要求はウクライナ全体の属国化なので
ウィトコフ米特使、トランプ氏にウクライナ4州をロシアに明け渡すことを提案=報道*1

 反ロシアの黒井らしいですが、「そのように言えるかどうか」は疑問符がつくでしょう。
 戦争長期化(2024年2月の開戦から既に3年)は、ウクライナは勿論ロシアにとっても打撃だからです。
 「ロシアから停戦や終戦に動いたらプーチンの面子が潰れる。政権維持が難しくなる」「停戦や終戦する場合でも、ウクライナの領土割譲などを呑ませ、ロシア優位の停戦、終戦と言いたい」で戦争を継続してきたロシアですが「日中戦争が泥沼化した日本」等と同様、本音では停戦、終戦したいでしょう。
 黒井の言う「すぐに」がどの期間を意味してるのか、不明(多分故意に曖昧にしてる)ですが、「打撃の大きさ」を考えれば、停戦、終戦してから「すぐに(例えば1年内に)」再開するかは疑問でしょう。
 再開したくても「再開できるだけの力」がなければ当然再開できません。
 そしてもはやプーチンも「ウクライナの属国化」など既に諦めてるのではないか。
 お断りしておきますが、これは勿論「ロシアの4州支配を当面容認して停戦や終戦すべきだ」と言う話ではない。
 停戦や終戦するにせよ、しないにせよ「事実に基づいた話をするべき」であって「ハルノート(中国からの日本軍撤退による蒋介石政権打倒断念など)を受け入れても米国が対日制裁(石油、くず鉄禁輸など)を解除するか分からない」のような「怪しい話(継戦論ありきとしか思えない)」をして「継戦論に無理矢理持って行こうとすべきではない」と言う話です。
 なお、一方で俺の立場は「恒久的ではない、当面の間であっても、ロシアの4州支配は容認すべきでない。そんな条件で停戦や終戦すべきではないという話」でもない。2022年2月の開戦当初ならともかく戦争長期化もあって俺も「継戦論」には躊躇しますし、停戦や終戦できるならした方がいいとも思いますが、一方で「ロシアが有利な停戦や終戦にしたくもない」し難しい問題であり「結論は保留」ですね。

*1:ウィトコフの本心はともかく、少なくとも建前では「恒久的割譲ではないこと」を指摘しておきます。さすがに彼も恒久的割譲をウクライナが呑むとは思ってないでしょう。

「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2025年4/15日分:荒木和博の巻)

多摩(三多摩)地域での現地調査について【調査会NEWS3917】(R7.4.15)|荒木和博ARAKI, Kazuhiro
1)「政府認定拉致被害者」久米裕氏、蓮池薫氏*1を除いて、全て特定失踪者で北朝鮮拉致被害者ではない
2)仮に本物の北朝鮮拉致でも今更現地調査で分かる新事実があるわけがない
3)新事実(どのように拉致されたのかなど)が分かったところで拉致解決に全く関係ない
と言う意味で馬鹿げた行為です。


「横田めぐみさんは生きているのか」とよく聞かれます(R7.4.14)|荒木和博ARAKI, Kazuhiro
 本当にそんなことが聞かれるのか、聞かれないのに話の前振りとして荒木がそう書いてるだけではないかと疑いますが、それはさておき。
 荒木の動画に関係なく、「生存してるか死去してるかについて決定的証拠は勿論なく断定的なことは何も言えない」が「恐らく生きてない」というのが俺の考えです。
 第一に「生きてる」のならとっくの昔に「帰国した5人(蓮池夫妻、地村夫妻、曽我ひとみ氏)のように帰国させた」でしょう。
 帰国させない理由があるとは思えません。これは「めぐみ氏」に限らず「北朝鮮が死亡発表した人間は恐らく全て死亡してる」と俺は思います(北朝鮮が発表した死亡の時期や理由が正しいかどうかはともかく)。
 「横田氏の遺骨」として北朝鮮が提出した骨をDNA鑑定で「偽物」と日本政府が判断したことは、仮にその判断が正しいとしても「生きてること」の証拠にはなりません。
 例えば
1)横田氏が失踪して所在不明(但し、状況証拠から見て生きてるとは思われない)
2)死亡したが、『津波に呑まれて行方不明』、『船の沈没→遺体が海の深い底で回収不可能』等で遺骨回収が無理
な場合は「死亡していても遺骨は出せない」わけです。しかし「遺骨を出せ」という日本側の要望に応じようとして「偽の遺骨を出した」で説明は十分出来る。
 勿論荒木ら救う会は「生きてる」と強弁する(この動画でも荒木はそう強弁する)わけですが、まともな根拠は何もない。
 荒木ら救う会は
 第一に「小泉訪朝時」からずっと生きてると言い続けてきたが故に今更撤回できない
 第二に「反北朝鮮の極右」として「めぐみさんは生きてる→にもかかわらず帰国させない北朝鮮は酷い→経済制裁は解除すべきでないし、ましてや国交正常化など論外」として、制裁解除や国交正常化を阻止し北朝鮮叩きをしたい
にすぎません。
 いずれにしても、まともな根拠もなく「生きてる」と決めつけ「生きてる人間をすぐに全員帰せ、返さないなら制裁をする」という「家族会、救う会」路線で何の成果もなかったことだけは確かです。むしろ「経済支援とのバーター取引」に動くべきでしょう。

*1:なお、蓮池氏が拉致されたのは勿論「新潟県の佐渡」であり「彼が当時、通っていた中央大学」が多摩地区にキャンパスがある(そして大学の近くに蓮池氏が下宿していた)からと言って、荒木が言うように「拉致と多摩地区が関係ある(拉致実行犯が多摩地区(大学や下宿)で蓮池氏と面識を持った)」という保証はどこにもない。

反党分子『松竹伸幸』を批判する(2025年4/14日分)

台湾を実感する・上 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
 「物価高とか生活問題そっちのけで、また安保論かよ」と呆れますがそれはさておき。
 松竹は「台湾侵攻の脅威ガー」を連呼しますがそれはないでしょう。
 第一に中国は「台湾が独立宣言せず、現状維持に留まる限り、侵攻しない」としています。
 従って「現状維持」なのに侵攻したら「嘘つき」と言う批判は免れませんし、
1)ウクライナ侵攻を理由とした「NATO諸国(英米仏独など)のロシア経済制裁」
2)天安門事件当時の「中国経済制裁」
のような「中国経済制裁」は免れません。そんなリスクを中国が犯すかどうか。
 一方で台湾も「台湾独立宣言」という「中国侵攻のリスク」を犯さないでしょう。
 第二に国民党やいわゆる外省人は「民進党」に対しては「中国に対してあまりにも敵対的すぎる。もっと融和的であるべきだ」として批判的です。しかし「現状維持」なのに侵攻したら、国民党や外省人もさすがに中国を批判するでしょう。これまたそんなリスクを中国が犯すかどうか。
 いわゆる断交ドミノも「リスクを犯してまで侵攻できないから」でしょう。侵攻で片をつける気なら断交ドミノなどする必要が無い。
 第三に今、中国は「関税問題」で米国と全面対決しています。そして、「中国について批判的な人士」でも関税問題では「中国の方に道理がある」と評価する人間も少なくない。
 その状況下で「台湾侵攻」という無法をやったら「米国の中国攻撃」を正当化するネタを提供してるようなもんです。
 「関税問題」で、「中国に有利な決着」が着くまでは、中国は台湾侵攻などしない(というより、できない)でしょう。

 保守論壇を見ていれば分かることだが、2027年台湾有事説が振りまかれている。

 今が2025年なので「2027年有事」といったら「たった2年」しかない。「ありえない」と言うのが私見です。
 「今年中に侵攻が」では説得力が無いが、「あと10年以内」では「緊迫感に欠ける」ので「2年と言ってる」程度にすぎないでしょう。

 2027年は習近平が国家主席として4期目を迎える
 4期目を狙うだろうが、共産党内の反発も強まる。その反発を抑えるため、台湾で有事を煽って世論の求心力を高めるだろう。その延長線上に実際の武力衝突が生まれかねない。

  「はあ?」ですね。
 まず第一に「習氏が国家主席4期目に突入するかどうか」分からない。そんなことは習氏は一言も言ってない。
 第二に「習は3期で退任する。そうなるとその後、彼の政治的立場がどうなるか分からない。大統領退任後、
1)光州事件が追及された韓国の全斗煥、盧泰愚
2)汚職が追及された韓国の李明博、フランスのサルコジ(例えば李明博元大統領、収賄で懲役17年確定 韓国最高裁 - 日本経済新聞*1(2020.10.29)、フランス サルコジ元大統領 禁錮1年の実刑判決が確定 | NHK | フランス(2024.12.19))等のように厳しい目に遭うかもしれない。だから3期目の内に、どんな手段を使ってでも台湾統一し、自らの地位を高めようとするだろう」ならまだ「理解できる」(但し俺個人は、3期で退任でも「台湾侵攻」と言う博打はしないと思いますが)
 「4期目に突入する」のなら「4期目の内に台湾統一すればいい」でしょう。慌てて2027年に侵攻する必要が何処にあるのか。
 仮に侵攻が失敗すれば「フォークランド侵攻が失敗して軍事政権が崩壊したアルゼンチン」のようにむしろ習政権が苦境に陥る可能性もある。
 また、反発を抑えるため云々という松竹の主張は、習主席批判派が良く言う「ナンバー2である李強首相は習主席が浙江省党委員会書記だった頃(2002~2007年)の部下(当時は浙江省党委員会秘書長)。他の幹部連も習氏が主席を務める間(2013年に就任)に、習氏に近い人物で固められており、反対派が習氏打倒に動くことは無理」という主張と明らかに矛盾します。そういう状況で「反発を抑えるため台湾侵攻」なんてあるとは思えない。
 また仮に反発を抑えるためであってもその場合に「経済成長や格差是正」「五輪や万博等のイベント開催」などではなく「台湾侵攻」というリスキーな手法をとる必要が何処にあるのか。

 台湾人の複数の研究者の論考を出したいと思っているわけだ。

 「反中国」松竹のことだから、「松竹の計画に協力する台湾人研究者が皆無で、結局、計画倒れ」に終わらず、本当にそんな本が出せたとしても「民進党に近い反中国の研究者」ばかりでまとめた本になるのでしょう。読む価値はなさそうです。
 なお、上記は松竹記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。賛同コメント以外掲載しない松竹には心底呆れます。

*1:但し、李明博 - Wikipediaによれば『2022å¹´12月28日、尹錫悦大統領から特別赦免を受けた。これにより、李は懲役17年のうち、残る15年の刑期が免除され、選挙権や被選挙権も回復した』そうです(これについては81歳の李明博元大統領、残りの刑期は免除 尹大統領が特別赦免:朝日新聞、韓国、李明博元大統領の特別赦免を決定…残り15年の刑期と未納の罰金を免除 : 読売新聞、韓国政府、李明博元大統領の恩赦決定 懲役刑を免除 - 日本経済新聞(2022.12.27)参照)。しかし、さすがに政治的復権はないと思いたいところです。