午後7時のニュースが始まって間もないころだった。食卓にひと足早くついた父親が、よく冷えた飲み物──それは彼がまだ飲んだことのないものだ──のグラスを手に取っていた。すぐそばのキッチンでは母親が揚げ物をレンジで温めていた。彼の鼻孔ににんにくの香りが飛び込んだ。
「ぼく、それ、いらない」
「なんですって?」
母親は聞き返した。ファンの音がうるさくて聞こえなかったのだ。
「ぼく、それ、いらない」
「どうして」
「にんにくのにおいがする。ぼく、にんにく、きらいだもん」
「にんにくはとても体にいいのよ」
「でも、きらいだ」
「大きくなれないわよ」
「いい。食べない」
「ぼく、それ、いらない」
「なんですって?」
母親は聞き返した。ファンの音がうるさくて聞こえなかったのだ。
「ぼく、それ、いらない」
「どうして」
「にんにくのにおいがする。ぼく、にんにく、きらいだもん」
「にんにくはとても体にいいのよ」
「でも、きらいだ」
「大きくなれないわよ」
「いい。食べない」
「好き嫌いを言うんじゃない」
父親はグラスの飲み物をごくりと飲み干し、彼をじろりとにらみつけて言った。彼は思い出した。その飲み物はガンガーという名前だ。大人になるまで飲めない、銀色の飲み物。ねっとりとした輝きを持つ、たぶんとてもおいしい飲み物。
「今年も……そろそろ街では……の姿がみかけられるようになりました」
テレビのニュースロボットがしゃべっている。
「子どもはなんでも食べないといけないんだ」
「でも、きらいだもん」
「…日中は……耳を保護する必要が…」ニュースが続く。
「かまわず食べさせろ」
父親が母親のほうに顔を向け、彼のほうをあごで示して言う。彼は身を固くする。母親が皿いっぱいに盛った揚げ物を持ってやってくる。すごいにおいだ。それはどんどん近づいてくる。母親は彼の目の前で立ち止まり、彼の前の皿に、いまわしいにおいをぷんぷん放っているそれを3つほど、はしではさんで盛りつける。
「きらいなんだよ…」
彼は顔をゆがませる。くさい。目の前の、おそろしくくさいにおいを放っているこんなおぞましいものを、父さんも母さんもどうして口に入れられるのだろう。彼の胃はすでに拒否反応を示して、波打っている。
「食べたく、ないんだよ」
「わがまま言うな!」
父親が大きな声を出し、ガンガーがまだ半分ほど入ったグラスをどん、とテーブルにたたきつける。彼はおびえ、しくしくと泣き出す。
「泣いたってだめだ!」
彼は大声をあげて泣き出す。父親はますます怒りをあらわにする。顔が真っ赤なのは怒りのせいかガンガーのせいかわからない。母親は黙って揚げ物を分け終わるとうつむいて椅子に座った。
「…なお、車を…から…するためには…が有効です。それでは次のニュースです…」
「あれがきらいだとかこれがきらいだとか、そんなわがままが通用すると思っているのか! もう5歳なんだぞ!」
彼は泣きじゃくるばかりだ。
「出て行け!」
「そんな」
母親は言いかけて、やめる。自分の夫がこんなふうに大声を出し始めたら最後、誰の反論にも耳を貸さないことはわかっている。
「いますぐ表に出て行け!」
部屋中に、悲鳴にも似た彼の泣き声が響き渡るが、母親は無言でドアを開け、夜の闇へと彼の背中を押し出す。
ドアの外は、夜になっても熱と過剰な水蒸気を含んだ空気が濃密にたちこめる別世界だ。家の裏手はケヤキやクスノキからワシントンヤシまでが雑多に繁る小さな林になっていたが、いまはその一画も分厚い闇におおわれ、何がひそんでいても不思議ではないと思われた。彼は泣きじゃくりながら、その闇の中をどこへともなく歩きだした。どこかへ行きたいわけではないが、せめて安心してうずくまれる場所を探さないといけない。
不意にだれかに足をなでたような気がして飛び退いたが、エノコログサの穂がふれただけだった。羽虫が顔のすぐそばをかすめる。顔をそむけて動いた拍子に足元で湿った柔らかいものがつぶれる気配がしたが、それが何かもわからない。どこからかいやなにおいが漂ってくるような気がする。にんにくじゃない、もっといやなにおい。額に汗がにじむ。さっきまでは快適なエアコンがきいた部屋にいたのに。彼はなさけなくて、また泣きじゃくる。そもそも、夏の日中は気温が高すぎて彼のような小さな子どもは外に出ないよう、政府が規制している。子どもたちにとっては熱帯夜の蒸れた空気でさえ、なにやら未知の、おそろしい世界そのものなのだ。
ふと、彼は物音に気づいた。かさかさ、と何かが動く音。すぐそばから、音は聞こえる。かさ、かさ。かさ、かさ。彼はつばをのみこんだ。恐怖で心臓がばくばくして、いまにも破裂しそうだ。すると、闇の中で彼を見ているものがいることに気づいた。とても大きな目だ。ガンガーのグラスくらい。それが、土の中から彼を見つめている。ぬれたようなその目がぎらりと光る。そして、その目の持ち主はゆっくりと太い腕を振り上げようとする。彼は恐ろしさで声を出すこともできずに逃げ出す。だが、その行く手にまたしても、闇の中から彼を見つめる大きな目に出会う。あっちでもこっちでも、かさかさ、かりかり、という音がする。
何ものかが大勢で、彼を襲おうとしているのだ。さっきちらっと見た太い腕を思い出す。あのぎざぎざした腕が自分の首にかけられ、すっと横にひかれるところを、その傷口から真っ赤な血が噴出するところを──それはぶらんこから落ちてひざをすりむいたときに出るようなもんじゃない、比べものにならないくらいのおそろしい量の血だ──想像する。ものすごい悲鳴が彼の口からもれる。謝ろう、父さんに謝って、許してもらうんだ。でないと、ぼくは殺されてしまう、ここにいる化け物たちに、つかまって細切れにされてしまう!
彼は家のテラスの方向へ走って逃げようとした。草が足にからまって転び、あっと思ったときは彼の体は深い穴の中に半分以上埋もれていた。かろうじて穴の縁に腕をかけてしがみつくと、クズの大きな葉と葉の隙間から空が見えた。灰色の雲に覆われて月の光がにじんでいる。ひじがずきずき痛んだ。はい上がろうと、力を入れると縁の土がぼろっとくずれた。彼はあわててもう一方の手で突っ張り、なんとかそれ以上落ちないよう姿勢を保った。口の中に土の粒が入り、気持ち悪い。そのとき、穴の上にあの目が光った。ガンガーグラスの大きな目。彼の口から悲痛な叫び声が上がった。
穴の中の彼を引き揚げてくれたのは母親だった。足ががたがたとふるえ、立っているのがやっとだった。喉が苦しいのは涙と鼻水とつばが混ざってつっかえているからだ。彼は咳き込み、泣きじゃくり、しゃくりあげ、母親が何か言っても声を出すことさえできなかった。
「だいじょうぶよ。お父さんはもう寝てしまったし」
暑い。体中がべとべとして気持ち悪い。とても不快だ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、何もこわいものはいないわ」
うそだ、と思った。母さんはこわくないのか。あの化け物たちが。
「ああ、あれを見たのね。穴の中から出てくるもの。あれはセミよ」
セ、ミ?
「セミは土の中で何年も生きていて、夏の夜、穴から出てきて羽化するの。あなたが落ちた穴もそうした穴のひとつよ」
母親は闇の中で見えない微笑みを浮かべた。
「むかしむかし…私のおじいちゃんが子どもの頃は、セミはもっと小さかったんですって。子どもたちはよくセミを捕って遊んだりしたそうよ。でも、なぜか急激にセミが巨大化して…いまではこどもたちよりセミのほうが大きくなってしまった。気候のせいだと言われるけど、正確なところはわからない。昆虫のすべてが巨大化したわけではないし」
彼は自分が落ちた穴を見た。大人の人間でも入れそうな真っ黒の穴がぽっかりと口を開けている。夜の闇よりもっともっと黒い、底なしの穴。
「セミはおとなしい生き物だからこわがらなくていいの。人間に対して特に危害を加えるわけではないし。でも、巨大化したセミに樹液を吸われるもので、毎年たくさんの木が枯死していくのが問題になってるわ。それと、日中は鳴き声がひどいから、耳栓をせずに外を歩くのは危険なの。でも、そのくらいよ。こわくないわ」
彼は母親に手をひかれながら、半分ほどしか話を聞いていなかった。あの化け物たちが人間に危害を加えないなんて、うそだ。あいつらはぼくたちを細切れにしようと待ちかまえているのだ。
「そうそう、むかしのセミは地上に出てから1〜2週間くらいしか生きられなかったそうだけど、いまのセミはなかなか死なないらしいのよ」
翌朝早く、まだ薄暗い頃。父親は出勤前に車のボンネットについた、冷蔵庫ほどもあるセミのぬけがらを苦労して取り除き、ゴルフクラブでたたきつぶした。
夏が始まったばかりというのに、今年すでに7匹目だった。
「セミよけを買ったほうがいいかしらね」妻が言った。
「セミの幼虫がいやがるにおいのする薬剤を塗る、あれかい?」
「ええ。いくらぬけがらといっても不気味だし。それに、跡が残るじゃない。査定に影響するし」
「毎年毎年、そのセミよけが効かないセミが出現するっていうじゃないか。セミは進化の途上だ。それも急激で、方向も見えない進化。やつらが何をめざしているのかわからないんだ」
街はしんとしていた。まだ今は。
「耳栓は持ったの?」
彼はうなずいた。まもなく、文字通り耳を聾するセミの声が、いっせいに響き渡るはずだ。
【ヤマシタクニコ】[email protected]
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
< http://midtan.net/
>