ショート・ストーリーのKUNI[32]降臨
── やましたくにこ ──

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ある日、作家・石山岩雄の書斎からわめき声ともなんともつかぬおそろしい声が聞こえてきた。岩雄の妻・鉄子はあわてて室内に入った。

「どうしたんですの、あなたっ」
「あああああ、私はもうだめだ、もうおしまいだ」
「どうしたんですか、いったい」
「私にはもう小説が書けないのだ。これでまるまる一ヶ月、パソコンを前にして一行も書けない。昔の小説家なら原稿用紙を丸めたりびりびりと破いたりするところだ。だが、パソコンだから丸めたり破いたりできない。けがをしてしまう。痛そうだ。それに高い」
「パソコンを丸められないので困ってるんですか、それとも」
「小説が書けないから困ってるに決まってるだろ。アイデアが浮かばないのだ」
「なんとか浮かぶようにがんばってくださいな、あなた」


「それができるなら苦労はない。ああ、思い起こせば一年前。石山岩雄の久々の傑作と言われた『今夜、すべてのばーさんと』。あれを書いたときはよかった。アイデアが突然、天から降ってきたように浮かび、何かに憑かれたように私の指がキーボードの上を縦横無尽に駆けめぐり、気がつけばできあがっていたのだ、あの名作が。そう、アイデアというものは常にそのように、作家自身にも予測のつかないようなやり方で天から降りてくる。そういうものなのだ。いくら作家自身がうんうんと考えてもそれだけではだめなのだ。ああ、もう一度、あのようなことが起こらないものか」

「一年前というと、このときでしたっけ、あなた」
「なんだ、その写真は」
「ちょうど一年前、めずらしく夕食時に一家がそろったのですわ。で、せっかくだから写真を撮ったの。覚えてらっしゃらないの」
「ああ、そういえばそんな記憶が」
「この写真を撮ったあと、あなたは急に書斎に駆け込み、小説を書き始めたのですわ」
「え、そうだったのか。すると、この状況下でまさにアイデアが、いや創作の神が降りてきたもうたのだ。そうか、このときか」

石山岩雄はじっと写真を見つめた。石山岩雄と妻の鉄子、長女の錫子、長男の鋼一が食卓を囲み、中途半端なカメラ目線で収まっている。食卓の上には食べ物やビールが雑然と並んでいる、というより散らかっている。鉄子はうちわを手に、鋼一はVサインをしている。

「おい、いますぐこれと同じ状況を再現するんだ」
「はあ?」
「はあじゃない。この何の変哲もない風景のどこがどうなのか私にはわからぬが、とにかく創作の神のお気に召したわけだ。ならば、このときと同じ状況をつくり出せば再び創作の神は降りてこられるやもしれぬ。私はふたたび神の命ずるままに指を動かし、言葉を紡ぐ。それはふたたび名作として世に迎えられるだろう」
「え、でも」
「錫子と鋼一を呼んでくるんだ。そして、これと同じように食卓に料理を並べる。寸分違わず同じ状況をつくり出すのだ、わかったかっ」
「そう言われても、あ、はい、わかりました、なんとか」

およそ一時間後、一家は食卓を囲んでいた。食卓には写真に写っているのと同じ造りの盛り合わせ、鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、焼きナスなどが配置された。息子はバイト先から、娘はショッピングを楽しんでいたところを至急帰って来いとのメールで無理矢理帰らされ、それぞれの位置についている。もちろん、全員が写真を撮ったときと同じ服装に着替えている。

しばらく待ったが、何も起こる様子がない。「あなた、何か浮かびまして」
「いや、何も。おかしいな、こんなはずではないのだが。ひょっとしたら何か違う点があるのかもしれない。あ、そういう私が座布団を尻に敷かず頭の上に載せていた。ははは」
「まあ、あなたったら、でも、そういう私もうちわのつもりでおしゃもじを持っていましたわ」
「なんだ、そうか、まったく気づかなかったよ。ははは」
「ほほほほほ」
「あ、鋼一、おまえの携帯が変わっているじゃないか、この写真と」
「機種変したんだよ、ホワイトプランで」
「前のはどうしたんだ。なに、あるのか。じゃあ早く前の携帯を持って来なさい。これが原因だとすると、おまえのせいで私は書けるものも書けないということになるのだぞ」
「鋼一、早くそうしなさいっ」

鋼一は古い携帯を持ってきて、食卓に置いた。だが、しばらくしてもやはり何も起こらない。
「おかしい」
岩雄はふたたび写真と現実を見比べた。

「鋼一、写真のおまえはVサインをしているが、いまのおまえは『チョキ』をしている」
「いっしょだろ」
「ああ、鉄子! おまえはなんということを」
「なんですの」
「写真のおまえが持っているうちわは駅前のサカガミ薬局のものだが、いまおまえの持ってるのはドラッグ・コバヤシのじゃないかっ」
「あら、ほんと。どっちもキョーレオピンと書いてあるので間違ったわ。ごめんなさい。えっと、あのうちわあったかしら」
「錫子、写真のおまえはペンダントをしているのに、いまはしてないぞ」
「それは前のカレに買ってもらったんだよ。もう別れたし、むかつくからプレゼントしてもらったもの全部送り返したよ」
「いますぐ行って返してもらってこい」
「そんなぁ!」
「私が小説を書けるかどうかがかかっているんだぞ。私が書けなければおまえだって困るだろう。一家そろって路頭に迷うかもしれないんだぞ」
「わかったわよ、行けばいいんでしょ、行けば」

約一時間後、錫子が戻ってきた。しかし、錫子がペンダントをつけ、鉄子がサカガミ薬局のうちわに変えても何も起こらない。

「おかしい、まだ何か違うところがあるのか。いったいどこが違うというのか。ああ、こ、こ、これはっ。鋼一」
「なんだよ」
「おまえの右腕に蚊にくわれた跡がある。なのに、いまのおまえの右腕にはない」
「わかったよ、蚊にくわれてくりゃいいんだろ蚊にくわれりゃ」
「鋼一、蚊なら裏の公園の汚い池のそばにいっぱいいるわ。早くあそこに行って腕を出してきなさい、早くっ」
「わかったってば」
「ママ、おなかすいたから鶏の唐揚げひとつ食べていいよね」
「何言ってるの! この数は写真と同じにしてあるのよ。ひとつでも減らしたらだめなの。パパが小説を書けなくなるでしょ」
「どうもおかしい。いまだ何にも頭に浮かばないとは。鉄子、この料理もコップのビールも写真のときと同じなんだろうな、本当に」
「あなた、ごめんなさい。実は、この写真のはビールではなく発泡酒なの。あなたが気づかないだろうと思っていつも缶からコップに入れて出してたの」
「おまえ、いままで私をだましていたのか」
「ごめんなさい、あなた」
「まあいい。問題は写真の状況と同じであるかどうかだ。これも発泡酒ならそれでいいのだ。ビールでなくても」
「ごめんなさい、これは発泡酒でもないの。いわゆる第三のビールで」
「おいっ」

コップの中身はただちに発泡酒に変えられた。鋼一も無事に蚊に食われて帰ってきた。これですべての条件は整ったと思われたが、依然として岩雄の脳裏には何も浮かばない。一家そろって、そのときを待っているというのに。

「だめだ。これはどうしたことだ。何か問題があるに違いない。根本的な問題が。よし、もう一度よく見よう」

岩雄は写真をなめるように、丹念に見直した。
「あーっ」
「なんですの、あなた」
「こ、これは。この、隣の部屋のふすまの陰から見えている白い物はなんだ」
「ああっ、これは」

鉄子はへなへなと崩れ落ちた。
「そそ、それはパンツです」
「パンツだとっ」
「許して、あなた。実は私、私、3丁目の大島さんとその…あの…なにで…その日も昼間大島さんが来ていたんですけど、そこへあなたがいつもより早く散歩から戻ってきたので大島さんはあわてて、はくものもはけずに裏口からあたふたと。それは大島さんのパンツなのっ」岩雄は怒りで顔を真っ赤にした。
「ばかものっ!」
「許して、あなた、町内会の役員同士でつい親しくなって…違うの、あなたの散歩のときはいつも、っていうわけじゃなくって…たまたま、たまたまなのよ」「おまえというやつは、おまえというやつは、そんなことを今まで黙っていたのか」
「許して」
「私がどうなってもいいと思っているのか! いますぐ、大島さんからパンツを借りてこい!」
「えっ」
「私が小説を書けなくてもいいというのか!」

鉄子はよろよろと立ち上がり、隣の部屋から大島家に電話した。しばらくすると表の戸が遠慮がちにがらがらと開く気配がした。むっつりと振り返ろうともしない岩雄と鉄子に代わって、鋼一が玄関に立って行った。ひそひそ声の会話が聞こえてくる。

「このたびは、その、どうも」
「あ…いや、その…パンツだけでいいですから」
またがらがらと音がして、男が出ていった気配。
「これ」

戻ってきた鋼一から無言でパンツ受け取ると、鉄子は写真と照合しつつ正確な位置にパンツを置いた。
「さあ、もう、これで万全だな」
「ええ、あなた」

一家はそれぞれの位置についた。そして厳かに、そのときを待った。

【やましたくにこ】[email protected]
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