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★★★

『風立ちぬ』を見て驚いたこと

2013-07-25 00:25:07 | æ˜ ç”»ç´¹ä»‹
 宮崎駿の『風立ちぬ』を見ました。かなり驚いたので、感想を書きたいと思います。いわゆる”ネタバレ”がありますので、まだ見てない方は読まれない方が良いと思います。映画を見たこと前提に書きますので、まだの方には意味がわかりにくいかもしれません。

 「えっ、本当に?」というのが、『風立ちぬ』を見た僕の最初の感想でした。なんとなく美しい話として見てしまう物語の基底が、圧倒的に残酷で、これまでの宮崎映画とは次元がまったく異なっています。
 そして、たぶんこの残酷さが宮崎駿の本音なのだと思います。今回、宮崎駿は今までよりも正直に映画を作りました。それは長い付き合いで、今回主人公の声を担当した庵野秀明も言っていることなので間違いありません。何より、庵野秀明が主人公役に抜擢されたこと自体が「正直に作った」という意思表示です。庵野さんに対する宮崎監督の評価は始終一環して「正直」というものだからです。今回も「庵野は正直に生きてきた」から、その声が使いたかったと宮崎駿自身が言っています。

 この「正直」という評価は代表的庵野作品『エヴァンゲリオン』に対しても使われました。「正直に作って、何もないことを証明してしまった」と庵野秀明との対談で宮崎駿は言っています。
 ここで言う「正直」というのは、主に「心の底では考えている残酷なことに対して」正直」ということです。エヴァンゲリオンでは残酷さは正直に画面に現れていました。アスカの乗る弐号機が使徒に喰われてアスカの目から血が吹き出したりするシーンを見れば、そういうのは実にはっきりしています。

 庵野さんが「正直」ということは、宮崎さんは「正直ではない」ということですが、今まで慎重に嘘をついて来たのだと思います。子供向けにオブラートで包むようなやり方で。
 今回、宮崎監督はオブラートを3分の1くらい外しているはずです。その外し方に天才的な技巧を適用することで「正直になっても、俺にはこんなのがある」ことを証明しました。

 『風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。
 残酷すぎて、ジブリが果たしてこんな映画を作るのだろうか、と思ってしまうくらいに残酷です。鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿にこの映画の企画を持ちかけたとき、宮崎監督は「映画は子供のために作るものだ」と怒ったそうですが、この映画を宮崎さんは子供にあまり見せたくないのではないでしょうか。あなたが生まれたこの世界は残酷なのだと言うことになるからです。

 主人公、堀越二郎は一見すごく良い奴みたいに描かれていますが、根っこの部分は人の心が分からない薄情者です。映画の端々で彼の薄情さが描かれます。特に妹が訪ねて来る時にいつも約束を忘れていて、妹を一人ずーっと待たせているところに明々白々な表れ方をしています。何時間もずっと待たせて、一言「ごめん、わすれてしまっていたよ」で済ませるのですが、妹は兄が薄情者であることを承知しているので、それに対して文句を言いません。そんな妹も、後に堀越二郎が結婚したあと、妻の菜穂子が可哀想だと泣いて訴えます。二郎の妻菜穂子に対する態度はそれくらい酷いのですが、二郎自身はそれが酷いとは全く気付いていません。二郎はそういうことが分かる人間ではないからです。

 この映画が”恋愛物語”からはみ出るのは、男の方がそういう薄情な男だからで、もっと云えば、二郎は菜穂子を別に愛しているわけではありません。二郎は菜穂子が好きですが、それはほとんど単に菜穂子が「美しい」からです。
 二郎は「美しさ」が好きです。それ以外のことにはあまり興味がありません。飛行機が好きなのも、美しいからで、彼が作りたいのは美しい飛行機です。焼き魚を食べてはその骨の曲率が「美しい」と言います。菜穂子に対しても褒め言葉は「きれいだよ」ばかりです。

 僕が最初に、「あれ?」という違和感を感じたのは、計算尺を返して貰った二郎が教室を飛び出していったとき、菜穂子ではなく、菜穂子の侍女のことを想っていたときです。前情報でだいたい二郎と菜穂子が結ばれることは分かっていたので、どうして菜穂子ではなく、その侍女のことを二郎が好いているのか理解できませんでした。
 にも関わらず、後に菜穂子と再開して恋に落ちた二郎は、堂々と菜穂子に告白します。
 かつては侍女の「美しさ」が好きで、今は成長した「美しい菜穂子」が好きです。

 「二郎と暮らすために、まず結核を治す」と山の療養所へ入院した菜穂子のところへ、二郎は見舞いに来ません。
 それどころか、「大丈夫?心配してる」と1,2行書いた後に、(多分延々と)「今、仲間達とこんなに面白い仕事してるよー」と書いた手紙を菜穂子に送ります。二郎は自分のことしか考えられません。

 この辺りで、ようやく菜穂子は二郎が薄情であることを悟ります。
 自分が、一人の人間として「普通に」愛されているわけではなく、ただ「今のところ外見が美しい」から好きと言われているだけだと悟り、山を下りて二郎の元へやって来ます。
 ただルックスだけで、好きだと言われていても、菜穂子の方では本当に二郎のことが好きなので、くじけずに病を押して捨て身で、言わば命がけで山を下りたわけです。
 命がけで山から街へ、二郎の元へやって来て、二人は即席で結婚式を執り行い結婚しますが、仕事で忙しい二郎と、病身の菜穂子の生活は全く噛み合いません。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」だけです。二郎が仕事をしている間、菜穂子は一人で治療も受けずにずっと布団に寝ていて、その様子を見た二郎の妹は「かわいそう」と泣いて兄に訴えます。菜穂子は二郎に美しい所を見せなくてはならないので、どこにも出かけないのに毎日化粧をしています。
 妹の訴えに対して、二郎は「僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」と答えるわけですが、これは全く頓珍漢な答えです。だって、二郎は朝から夜遅くまで仕事をしているだけで、特に菜穂子と多くの時間を過ごすわけではないからです。もしも、本当に大事にしているのであれば、菜穂子は療養所に返して、二郎が週末にでも訪ねるというスタイルにすればいいはずですが、二郎はそんなつもり毛頭ありません。病身で命を削ってだろうがなんだろうが、朝「いってらっしゃい」と美しい菜穂子に言ってもらって、一日美しい飛行機の設計をして、夜遅く帰ったらまた美しい菜穂子に「おかえり」と言ってもらう。それが彼にとっての「大事にすごす」です。菜穂子の健康も、二人の未来も、菜穂子の望みも、そんなもの知ったことではありません。

 ある日、飛行機の設計が終わり、徹夜明けで帰ってきた二郎が、菜穂子の隣にバタンキューと眠ってしまうと、菜穂子は二郎の掛けていた眼鏡を外します。美しいものを追い求める男の眼鏡を外すのは「美しい私を見るのは、もう最後だ」というサインです。
 翌朝、菜穂子は散歩に行くと嘘をついて家を去り、また山の療養所へ向かいます。これ以上、美しい状態を二郎に見せることができないくらいに病が進行したことを自分で分かっていたからです。喀血したり、しきりに咳き込んだりする姿を二郎に見せるわけにはいきません。そんなことをしたら、途端に二郎に嫌われてしまうことを菜穂子は分かっています。

 菜穂子が去った後、二郎の設計した飛行機のテスト飛行が行われます。今までのテスト飛行は失敗続きで、急旋回などの負荷を掛けると翼が折れたり、機体が空中分解したして墜落していました。
 でも、今回はテスト飛行の真っ最中、山の方へ風が吹いて、機体は美しく飛び続けます。ええ、もちろん、この山へ吹いた風は菜穂子の命が尽きたことを暗示するものです。
 二郎の飛行機は飛び続け、菜穂子は死にました。

 この後、夢の中で二郎は菜穂子に「あなたは生きて」と許されます。
 これは、アニメに身を捧げてきた宮崎監督の、自分に対する許しだと思います。

 菜穂子のことを中心に書いて来ましたが、この映画には別の大きな主題もありました。それは、ここ数ヶ月、特にベーシック・インカムのことを真剣に考えるようになってから僕が考えていたことに似ている、というか、僕とは全く反対の意見で「ピラミッドのある世界が良い」というものです。

 ピラミッドを、僕も本当に例にあげて喋っていたので、この部分が実は一番強く印象に残っています。
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
 僕は「ない世界」と答えます。

 何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
 この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。

 主人公、堀越二郎は、裕福な家庭に育ち、才能に恵まれ、大学卒業後は三菱に鳴り物入りで入って、上司にも部下にも非常に恵まれます。生きにくい時代を描いたということですが、基本的に庶民の生活と二郎は全く関係がありません。銀行の取り付け騒ぎなどで騒然としている街を通るのも、上司と一緒に車に乗ってで、窓から慌てる人々を「ふーん」と眺めているだけです。
 エコな左翼人みたいなイメージにまみれていますが、宮崎監督自身、裕福な家庭に育って学習院を出ています。最終的なところでは、宮崎さんのメンタリティはそういうところに立脚しているのだと思います。でも、そういうのはポリティカリー・コレクトではないので、今まで言わなかった。

 才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。

横岩良太 短編集
横岩良太

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