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リーブルなにわ伝説(あるいは、1970年代末のぶっ飛んだ棚について)

2013å¹´03月12æ—¥ 21時33分31秒 | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œæ—¥éŒ²
 2013年3月9日の北海道新聞は、札幌の地場書店として親しまれてきた「リーブルなにわ」が、4月28日限りで閉店することを報じた。
 筆者は、中高生時代は「リーブルなにわの回し者」と言われたほど、この本屋さんに入りびたっていた人間であるから、惜しむ気持ちは深いものがある。
 地下鉄南北線「大通」駅直結という地の利の良さから、客足の多さでは市内の書店でもトップクラスであったことは間違いない。そんな店がなくなってしまうのだから、書店業界の厳しさにはあらためて驚かされる。

 本稿の狙いは、リーブルなにわが詩歌やオタク本などの品ぞろえという点で、いかに劃期かっき的というか、個性的な書店であったかについて、個人的な思い出とともに振り返ることである。(長文です)
 

 リーブルなにわは、なにわ書房(すでに閉店)の系列店として、1971年、中央区南1西4の日之出ビル地下に開店した。これは、大通駅と地下鉄の開業と同じ年である。
 ちなみに、系列には小樽の「左文字 さ もん じ 」もあり、包装紙や文庫カバーにはこの3店の名前が並んでいたものである。

 筆者はいまでも1970年代末の店内のようすをありありと思い浮かべることができる。
 下のフロアは、入ってすぐのところにベストセラーのコーナー・平台があり、その近くに「新刊書」の棚があった。 
 いや、「新刊書」だと思うのだが、若き日の松岡正剛さんが編集していた伝説の雑誌「遊」の別冊「全宇宙誌」がずーっと置いてあったし、さらに、ニューウエーブSFを紹介する雑誌「イスカーチェリ」のバックナンバーも並んでいた。

 そのまま南側の通路(現在は雑誌などが並んでいるあたり)は、文芸書の棚。ここで最も特色があった(と筆者が思う)のは、詩歌の充実ぶりである。
 詩集はもちろん、愛知の瀬尾育生や北川透らが出していた詩誌「菊屋」は、バックナンバーがほぼ全号そろっていたし、同じく北川透の「あんかるわ」も何号かが並んでいた。
 鈴木志郎康や伊藤比呂美らが詩誌「肆」「壱拾壱」を出したときは、最新号はなんと平積みである。あの規模の書店で、現代詩の同人誌が平積みって、いくらなんでも無謀だろう。
 筆者がのちに上京して、池袋などに当時あった、詩の専門書店を標榜する「ぱろうる」に行ってもあまり驚かなかったのは、ひとえにリーブルなにわの充実ぶりに触れていたからにほかならない。「ぱろうる」にだって、「菊屋」のバックナンバーはなかったのだ。

 下のフロアの北側、いまは実用書などが陳列されている区画は、文庫本のコーナーだった。
 当時は文庫本といっても、岩波、新潮、角川、講談社がメーンで、集英社や文春はかけだしだった。ほかに、集英社コバルト文庫という、ラノベの遠い祖先のような文庫シリーズや、少年少女向けの「秋元文庫」などがあった。
 いまの地図のあたりに新書があった。
 当時は、岩波、中公、講談社現代が「御三家」であり、この3つで新書の棚の大半を占めていた。新潮、文春、集英社、角川Oneテーマ、ソフトバンク、光文社、平凡社、ちくま、祥伝社などの各新書は出ていなかった。隔世の感がある。

 当時、雑誌は上のフロアの、入り口付近に展開していた。
 「エピステーメー」「詩芸術」「詩学」「同時代音楽」「インパクション」「80年代」「美術手帖」「旅と鉄道」といった専門的雑誌や、「DIGGER」などの地元雑誌もここで立ち読みしたり購入したりしたものだ。
 いま児童書などが置かれている一角は、80年代半ば以降に拡張工事を行ったもので、70年代から80年代初頭にはまだなかった。
 また、いま講談社学術文庫や岩波文庫などが置かれているあたりは、教員向けの指導書などが並んでいた。
 中央の柱部分には、なぜか左翼の文庫が並んでいた。つまり、新日本文庫、青木文庫、国民文庫である。このほか、金日成の著作などを収載した「白峰文庫」というのもあった。
 ほかは、法律や社会科学、ビジネス書などがあったのだと想像するが、当時はあまり興味がなかったので、品ぞろえの特質までは記憶にない。美術書についても同様。すみません。


 上のフロアで最も特徴的なことは、中央の階段を上がってすぐのあたりに
落書きコーナー
があったことだ。壁に大きな模造紙を貼り、ときどき新しい紙に取り替えていた。
 筆者も何度か宇宙戦艦ヤマトのことを書いた覚えがある。
 「トンデモ創世記」(唐沢俊一、志水一夫共著)によると、角川書店の編集者がこれをおもしろがって、一冊の本にしようとしたことがあったという。実現はしなかったらしい。その編集者とは、のちに幻冬舎を起こすことになる見城徹氏である。

 ところで、リーブルなにわと宇宙戦艦ヤマトといえば、「月刊OUT」(1977~95年)が創刊2号目で、ブームになる前の「ヤマト」を特集し、下のフロアの入り口に大量に積んでいたことがあった。
 「おたく」という語が、「漫画ブリッコ」誌で中森明夫氏が命名したことで生まれたという歴史的事実はすでに広く知られているが、おたくの「精神」あるいは「思考様式」が誕生したのは、まさにこの「OUT」2号においてであると言っても、過言ではないだろう。つまり、アニメーションを趣味の対象とすることをはじめ、設定資料や世界観など細部へのこだわり、キャラクターへの偏愛や強いパロディー志向、内輪での盛り上がりといった「おたく」特有の傾向は、もともとはアニメ誌というよりSFや音楽を含めたサブカルチャー全般を扱う雑誌であった「OUT」の2号に端を発するのだ(もちろん、「海のトリトン」「太陽の王子ホルスの大冒険」といった前史は存在するが、しかし1977年の時点で、世間一般の人は誰も「アニメ」とはいわず「テレビ漫画」と呼び、子どもが見るものとして、趣味や愛情の対象としてはまともに取り扱っていなかったのも事実なのだ)。
 こんなわけのわからない(ほめ言葉です)雑誌をどーんと平積みにする当時のリーブルなにわの変態ぶり(これもほめ言葉です)には、脱帽せざるを得ない。

 当時、まだ小遣いの少なかった筆者は、1時間以上も迷った末に、この雑誌を購入しなかったことを記憶している。

 ちなみに、メジャーなアニメ誌は、翌78年の「アニメ-ジュ」創刊をもって嚆矢こう し とする。
 1975年に放送され、その時はほとんど話題にならなかった「宇宙戦艦ヤマト」は、このあたりからブームに火がつき、アニメファンが市民権を得ていくのである。
 ただし、北海道では、1976年冬にHBC(北海道放送)ラジオのリクエスト番組「ベスト100 マラソンランキング」で、まだシングルレコードすら発売されていなかった「宇宙戦艦ヤマトのテーマ」が1位になっていたのだ。
 もちろん、当時「ヤマト」の歌がヒットしていた事実はないわけで、熱心なマニアが電話でリクエストをし続けた結果なんだろうが、やっぱり北海道って、変わったところだよなーと思う。

 すでにものすごい長文になってしまったので、この項は終わり。



関連ファイル
小松左京とリーブルなにわ
なにわ書房の文庫カバー
文庫カバーと小心者


なじみの書店また一つ… 札幌「リーブルなにわ」来月閉店(北海道新聞)


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コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (川上@個展deスカイ)
2013-03-12 23:05:20
かつて、某誌を上梓したときに、初めて商業書籍としてリーブルなにわの棚に並べてもらいました。
A店長の優しく包むような人柄や時代をつまりわれわれを見抜かれている視力の強さがとても印象的でした。
その後、母校のご縁もありなにわ書房の棚にも置かせて頂きましたが、その売れ行きのすごいことと、少し売れ行きが鈍くなると二週間も経たないうちに引き上げを勧告されるという、厳しさも体験しました。本当に貴重な経験でした。札幌の目抜き通りで商売を続けるという厳しさがほんの14日間で分かったような気がしました。
時代の動向を読むセンスは、アートを標榜する僕らには到底かなわないものです。
閉店は残念なことですが、誤解を恐れずに言えば昔の書店の文化的な熱気を少しでも知るものとしては昨今の書店はきまりの悪いものです。
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北海道というよりも (わたじゅん)
2013-03-12 23:39:58
それは札幌がずば抜けてヘンなんだと思う。田舎生まれ育ちには、やはり底知れぬ街です。
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Unknown (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2013-03-14 00:17:42
川上@個展deスカイさん、わたじゅんさん、こんな長い上に趣味的なエントリに反応をありがとうございます。

やはり、札幌がずば抜けてヘンで、中でも、リーブルなにわがヘンだったのかもしれません。
ただ、80年代以降のリーブルなにわは、ビジネス書が多くて、品揃えの回転が速い、普通の本屋さんになっていったような気がします。

それを、誰にも責めることはできないのですが。

川上さん、その節はお世話になりました。
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