そうなんだ。
気持ちを「言葉」にしたときに、こぼれ落ちることがたくさんある。だから、ぼくたちは「思うように伝わらない」というジレンマを永遠に抱えながら、でも伝えようとする。
どうして、「言葉」にすると、たくさんのことがこぼれ落ちるのか?
それは、言葉が個人のものではなく、伝えるためのもので、社会のものだから。
ぼくの「りんご」に対するイマジネーションと、あなたの「りんご」に対するイマジネーションは、ズレていて、一致することがない。
それどころか、ぼくが、ぼくのイマジネーションとして「りんご」と発した瞬間に、それは社会的な「りんご」というイマジネーションを帯びてしまう。純粋なぼくの言葉としての「りんご」は消えてなくなってしまう。
ぼくの「りんご」は、言葉にすると、ぼくの「りんご」じゃなくなってしまうんだ。
これは、絶望なのかな。
それとも、希望なのかな。
ていねいに言葉を重ねていけば、そのズレとズレの生じ方の関係性から、ズレが明確になるかもしれない。お互いのイマジネーションのあり方を理解することができるかもしれない(楽観すぎる妄想かもしれないけど)。
ぼくの「りんご」と、あなたの「りんご」は、違うけれど、ぼくが感じた「りんご」の香りや味や匂いを、どうにかして伝えることができるかもしれない。
ぼくが「りんご」を見て「悲しい」と思う気持ちを、少しは理解してもらえる手だてがあるかもしれない。
そのことを、ほんの少しでも伝える言葉を連ねることができるのならば。
あなたが「りんご」を見て「悲しい」と思わなくても。
「りんご」を見て「悲しい」と思う気持ちを持つぼくのことを、思い出してくれるかもしれない。
言葉にするということが、すでに「あなた」を対象としている。
自分が見つめる自分だって、自分にとっての「あなた」になりえる。
そのことも含めての「あなた」に、伝えるために、言葉に、する。
そして、「公の場」であるブログに言葉の連なりを発表するということは、「あなた」との対話を求めているということだ。
ブログは、とても簡単に、おおぜいの「あなた」に向けて、あなたのイマジネーションを発表できるツールだ。
今から、この原稿をメールして、外に出かける。
(いつから、純粋に空を見てないだろう)空を見て、夕日の色を感じてみよう、と思う。
その時の気持ちを、ぼくは、文章にする。
希望をこめて。