本田雅一のAVTrends
第205回
“オーディオ”の概念を変え始めた信号処理の進化
2021年4月6日 08:00
新たなカテゴリを創出する、適応的なデジタル信号処理が製品を変えつつある。
昨年末、偶然ではあるが、デジタル信号処理の技術で音質を改善しようというプロダクトを同じ時期に触れた。「AirPods Max」と「NuraLoop」だが、振り返ってみると非常に多くの製品が同様のアプローチで製品の品質を改善、あるいは新しいカテゴリの創出に成功していることに気づいた。
前者はご存知、話題のアップル製プロダクトだが、後者は知らない読者も多いかもしれない。
Nuraはオーストラリアのベンチャーで、聴覚機能を確認する測定技術を応用し、人それぞれに異なる聴覚特性を補正することで、ヘッドフォンの音質を改善するNuraphoneを開発。クラウドファンディングで人気を集めた。そのNuraが同じ測定技術を用いて開発したのが、カナル型ワイヤレスイヤホンのNuraLoop。ノイズキャンセリング機能も備えている。
アプローチは異なるが、両者とも“測定と演算”を利用者に対して行なうことで音質を改善する取り組みという面では共通している。こうしたアプローチは近年、コンピュテーショナルオーディオというジャンルに分類されている取り組みで、スマートフォンやスマートスピーカーなどでも多用されている。
“リアルタイム演算”で体感レベルを高めたアップル
アップルは「AirPods」、「AirPods Pro」という二つのイヤフォンを発売していたが、ヘッドフォンで、しかも音質重視の高級ヘッドフォンの発売はAirPods Maxが初めてだった。というよりも、ワイヤレスヘッドフォンというジャンルに関して言えば、AirPods Maxと同価格帯の製品はB&Oブランドの例がある程度で、実はほとんどのメーカーが挑戦していない領域だった。
無論、世の中には数10万円の高級ヘッドフォンもあるが、ワイヤレス伝送でバッテリとDACを内蔵となると、それらとは使い勝手も目指す領域も異なるわけで、そもそもカテゴリが異なるとも言えるだろう。
しかし、AirPods Maxをじっくりと評価していると、既存製品のいずれとも競合しない製品であることが理解できてくる。外装デザイン、装着感を高めるための素材やメカ設計にかけたコストもさることながら、音質のコントロールに対するアプローチが異なるのだ。
ワイヤレスヘッドフォンにはBluetoothでの通信、データを受信、デコードし、イコライジングや音量調整処理を行なう信号処理回路、D/Aコンバータ、アンプなどが内蔵されており、さらにノイズキャンセルのためにイヤーカップ内外のマイクからの音声をA/D変換して信号処理を行なう必要もある。
パッシブで動作するヘッドフォンとは大きく構造が異なり、その間に信号処理回路が介在する。しかし、だからこそ、ここにコンピュテーショナルオーディオのアプローチを用いることができたわけだ。
個人差による聞こえ方の違いを演算で解決
ヘッドフォンの小さなハウジング内の音響特性は、少しばかりの装着位置の違いや耳の大きさ、形状などで異なる。
一般的には人間の頭部を模したダミーヘッドで音響特性を計測しながらも、最後には「音作り」の名の下に、人間によるチューニングを施していくことになる。音作りの手法はさまざまで、多くの場合は音質担当者が細かくチェックしながら詰めていくことになるが、個人差や装着時の状況の変化までは吸収できない。
AirPods Maxがユニークなのは、基本特性について追い込みつつも、最後のチューニングをマイクから計測する音とデコードした音楽データを比較しながらフィードバック制御することでニュートラルな音へと近づけていることだ。
中高域の歪み感が少なく、極めてクリーンな中高域から高域にかけての聴きやすく伸びやかな音が楽しめる。低域も正確かつ力強いもので、揺るぎない地に足のついた、いわばグリップ感の強い解像度が高い音に仕上がっていたが、一方で色付けは少ない。
どのような環境でも安定した聞こえ方となるのは、こうした計測をベースとした補正が入っているからだろう。
同じように計測を基礎に補正している製品がある。それがNuraLoopだ。この製品はカナル型のイヤフォンであり、さらに小さな空間での音響特性について計測、補正を行なってる。
新生児の聴覚機能検査を目的に開発された技術を応用し、音の聞こえ方を調整するデジタル処理を施す。そんなコンセプトで二年前に商品化されたのが「NuraPhone」だった。開発したNuraはオーストラリアのテクノロジベンチャーで、ヘッドフォン領域におけるコンピュテーショナルオーディオの草分けと見なすこともできるだろう。
第二弾として開発されたNuraLoopはワイヤレスのカナル型イヤフォンだ。価格は2万円台とワイヤレスイヤフォンとしては、少々高価な価格帯だが、実に興味深い音を聴かせてくれる。
専用アプリを用いると、まず密閉度の確認が行なわれ、密閉度が十分と判断されると測定信号が再生され、二つのマイクで耳道内の音を拾うことで耳の特性を計測する。計測した結果を元に補正用データが作成され、それをNuraLoop本体に転送することでユーザーひとりひとりにカスタマイズされた音となる。
筆者は左右の聞こえ方が比較的近い方だが、左右差の大きな人の場合は、そうした違和感が緩和される場合もあるようだ。
スピーカーの常識も変化
こうした演算による補正の精度向上は、たとえば「Amazon Echo Dot」などで顕著に感じることができる。新旧を比較すると、もちろんスピーカーとしての基礎体力も増しているのだろうが、同様にコンパクトなサイズながら驚くほど音質が向上していることがわかる。
昨年発売されたアップルの「Home Pod mini」もサイズを超えた豊かな音場に驚かされたが、同様の音質向上はAmazonやGoogleの製品でもみられる。
それらには、アップルのオリジナルHome Podが備えていたような、複数のマイクを用いた自動補正処理(部屋の音響特性や置く位置による補正)は施されていないが、それでも心地よい音を引き出している。
Home Pod miniに関しては、楽曲の特徴ごとに自動的に周波数特性を変化させ、再生ユニットが不得手な帯域で歪まないよう調整したり、ダイナミックレンジの圧縮で音圧感を出すといったことを細かく、分析的に行なっているという。
そのアプローチはAI的な手法とのことだが、適応的に流す楽曲ごとに連続的に演算で補正しているという意味でコンピュテーショナルオーディオの一種と言える。
そうした中で実は注目しているのが、ソニーの360 Reality Audio対応スピーカーである。CES 2019で技術展示された対応スピーカーが「SRS-RA5000」「SRS-RA3000」として、いよいよ発売されることになったからだ。
いずれも見た目はまるでモノラルスピーカーのようだが、RA3000は二つのツイーターユニットを使ったステレオ再生に加え、バーチャライゼーションによる仮想3Dサウンドを楽しめる。
RA5000はミッドスピーカーが3個、周囲を取り囲むように配置され、さらに上方からの反射音を生成するトップスピーカーも3個(それ以外にウーファーも1個、下方向きに装備)配置され、反射音を含めた3D音場空間を生み出す。
詳細なレビューはここでは触れないが、このような製品が産まれるようになったのも、デジタル信号技術の進歩があったからと言える。
アップデートされた仮想360度オーディオ
散発的にコンピュテーショナルオーディオの話題を拾ってきたが、最後に本当に“良くなった”と実感できた事例として、ソニーの360 Reality Audioのイヤフォン/ヘッドフォン向けバーチャライザーがアップデートされた件をお伝えしたい。
360 Reality Audioが日本でも本格的にローンチされ、ソニーミュージックはもちろん、ポニーキャニオンやワーナーも楽曲提供が開始されるなど、展開開始から1年半以上を経て動き始めているが、体験の核となる360 Reality Audioのバーチャライザーが大幅に改善する。アップデートは4月16日とのことだが、一歩先にその体験を済ませてきた。
改善の理由は仮想音場アルゴリズムの精度が高まっただけではない。耳の写真を分析して個人ごとの聞こえ方の推測する「360 Spatial Soud Personalizer」が改善したことによるものだ。
耳の写真から聞こえ方を推察する仕組みは、一種の機械学習処理による物だが、その精度を高めた結果、実際に計測した結果と推測値の差分を大幅に小さくできたことで、仮想360度オーディオの空間再現性が高まったのだ。
加えて360 Reality Audioでの制作を行なったエンジニアに意見をもらい、仮想化した際の音質についてコメントをもらい、より正確なイメージでのサウンド再現が行なえるよう調整も行なっている。
その効果は絶大で、音場の仮想化で曖昧になりがちな音像がシャープになり、ヴォーカルの曖昧さも改善。声の帯域に厚みが出たほか、低域にも弾力感が出ている。仮想化された音は、どこか不自然だから映像作品ならまだしも音楽を聴く際には使いたくない、という人もいるだろう(何を隠そう、私自身がそうだ)。
しかし今回のアップデートではそうしたネガティブな印象はない。
今後はオーディオテクニカとラディウスへのライセンスも行なわれる予定で、各社製ヘッドフォンでもソニー製と同じように360 Reality Audioを楽しめるようになるほか、AVアンプへのライセンスなど、サラウンド環境で360 Reality Audioを楽しむ手段も提供されるようになるという。
試せる環境にある方は、ぜひ一度体験してみるといい。仮想3D音場に対するイメージが一新されるとともに、技術の進歩を感じることができるはずだ。