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賛否はともかく、やたらと濃い感想の数々を昨年の段階で聞き及んでいたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『灼熱の魂』(INCENDIES 2011)を、年明け来阪間もなく劇場でキャッチしました。
-- 「馬鹿と気狂いは真実を言う。」(ニーチェ) 真実の価値と、「死を前にした人間はウソをつかない」という劇中のセリフについて考えてみる。...似たことは良く語られるし、アインシュタインも、俗世におけるエゴからの解脱の困難を次のように語ってました。 -- 「我々が正直になるのを許されているのは、生まれる瞬間と死ぬ瞬間だけだ。」 真実は、それが指し示すものがどのようなものであれ、揺るがない価値を持っているだろう。また、それを知ることは常に尊くて、それは人を自由にするだろう。...とかいろいろ言われるわけですが、けれど一方で、秘密を「墓場まで持っていく」という表現があるように、隠された真実が厄介なものであるのも事実でだし、死に際に真実を語る者には、責任を全うする意図に反して、時に「言い逃げ」の無責任ささえ漂うことがあります。 いや、「魂の叫び」とか、「強靭な愛の意思」という風に言われている本作のヒロインの決断を、ここで無責任などと言いたいわけではありません。映画の中で明かされる真実は、作劇臭さギリギリで持ちこたえる類のものだけど、私の想いが向かうのはヒロインよりもむしろ、その真実を突き付けられる子供たちの方。 三人の子供たちへの遺書を通じて「真実」を知らせようとする老いたヒロインであるナワル(ルブナ・アザバル)。彼女の真意、少なくとも双子の姉弟に対するものについて、双子にとっての真実の価値がどのようなもので有り得るのか、私の想像力はそこに追い付くことができません。 真実に行き着いた時、発作的に嘔吐した双子の姉は、母親の遺書に耳を傾けることで、果たして肯定に至ることができたのだろうか、またこの先、これまで以上に自由に成り得るのだろうか。... 少し乱暴に言ってしまえば、ここで私の想像力が及ばないのは、私が男であるからかもしれない。 ...というのはものすごくいい加減で安直な言い草なのだけど、こんなことを考えてしまうのも、本作がどこからどうみても女性についての映画だからです。 序盤で男児の踵に刺し傷をつける時点で、映画は早々にオイディプスの悲劇を暗示しながらも、おそらくレバノンと思わしき内戦の凄惨さを、神話的な題材に準えてメタフォリカルに描くことに力点を置いているように見えない(もしくはそれほど成功していない?)のは、映画の立ち位置がそれ以上に、ダイレクトに「女性」性にスポットを当てようとしているからでしょう。 『灼熱の魂』では、女性であることの豪壮さと悲劇性が鮮烈なコントラストで描かれています。 例えば、端緒となる男女の恋が家名にとって許し難い罪だとするならば、それは如何に報いられるのか? ...相手の男は、一瞬にして頭部を撃ち抜かれます。そして女(ナワル)は、新しい生命とともに生を得て、映画が約2時間かけて描くとおりの顛末を辿ることになります。この導入部はすでに、女であることの主題に対して十分過ぎるほど雄弁です。 世界中を駆け巡る憎しみと報復の連鎖に対して、この映画では意識的に「生命の循環」が重ねられているでしょう。そしてそれは、悪の連鎖に対抗し得る「希望の兆し」であると同時に、女性はその身に生命を宿すことが「できる」、または「できてしまう」、ということさえもが、悲劇の連鎖に同調する契機となってしまう様を、残酷に描いていると言えます。 だから、中盤でナワルが"必殺!女アサシン"と化す報復劇に、どこか唐突感が拭えないは、それが「女であることの論理(生命の持続)」を逸脱して、消耗的と言える「男の論理」へと向かってしまうからでしょう。 血塗りの戦闘を「男の論理」とか言ったり、女性の生殖機能を「希望の兆し」や「悲劇の装置」のごとく語るのは、「性」に対する偏った見方丸出しではあるのだけど、しかし、この映画は確実にそういう部分にスポットを当てています。実際、銃を手に「男の論理」に立ったヒロインには、強烈なリバウンドとして、後半に向けて女性ゆえの過酷な悲劇が用意されることになります。彼女には、即刻頭を撃ち抜かれるような決着が用意されることはないわけです。 -- 「母性愛が示しているのは、どの世代も、次に継ぐ世代に身をのりだしているということである。生物はともかくひとつの通路であり、生命の本質は生命を伝達する運動のうちにあるということを、母性愛は垣間見せてくれる。」 ベルクソンが「創造的進化」において、全生命と全世界の、その運動の奔流を大きく捉えるにあたって、ついついうかつにも「母性愛」というキーワードを使ってしまうように、やはり女性であることの意味において、映画はナワルの肯定と赦しへと向かうことになります。それ自体は理解できるのだけど、私の想像力はここで、どうしても本稿の最初に触れたところに戻ることになります。 女性であることにおいて「希望」と「悲劇」を残酷に往復するナワルの決断に、多くの賛辞を聞くことができるけれど、映画が意図的に踏み込もうとしない子供たちへの波及の形状について考えるとき、やはり真実の価値をめぐって途方に暮れるてしまう。 長兄と双子の弟は男だ。ゆえに、彼らにはきっと何も成すすべがないだろう。ナワルの墓の前に佇む長兄のラスト・ショットは、あえてカメラが寄らないことで多くを語ろうとしているのかもしれないけれど、その中途半端なカットの時間から伝わるのは、男であるがゆえに真実に対して何も成すすべもない、ということだけだ。 しかし、双子の姉(メリッサ・デゾルモー=プーラン)は女だ。1+1=2の意味を理解したときに咄嗟に嗚咽をもらした彼女だけが、3人の中でただ一人、いずれ肯定に行きつくであろうことは、なんとなく想像できるのでした。 監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは、1967年生まれのカナダの映画監督。まずはその若さに驚きます。ユニークな映像スタイルと話術で高い評価を得ているようですが、私はこれまでノーフォローで本作で初めて知ったこともあって、そのあたりはなんとも言えないのですが、こと『灼熱の魂』に関して言うと、スタイルも話術も特別ユニークなものには感じられず、基本的には親切・丁寧で、こちらの無駄な警戒を誘うこともありません。特にバスト・ショット以上クローズアップ未満でサクサクと差し込まれる力強い画や、章立てによるミステリとしての全体の引っ張り方など、エンターテイメント性に長けていると感じました。劇中のカオスを象徴するレディオヘッド「You And Whose Army」もそう。 ですので、異教徒間の民族紛争を舞台にしながらも、テオ・アンゲロプロスのように歴史や政治思想の中に人物を配置するのではなく、それらは映画の後景に留まります。観ていて逆に「人物をもっと現実の中に放り出せ」と思ってしまうくらい。だから、ここで描かれる女性の呪いと祝福は、遠回しに"織り成される"のではなく、あくまで直接的に語ろうとされており、それを見誤ることはないだろうと思う。 いずれにしろ、後味の悪い映画でした。 映画が用意する真実は、大時代的で、作劇的で、観客をシラケさせ兼ねない非常に際どいものだと思うけど、そのキワどさのせいでもなく、また真実の残酷さのせいでもなく、上で書いたとおり、真実の価値をめぐる思考が自分の中でどこにも行き着かないせい。「最近泣いてないので泣きたい」、という幾分安直な思いで劇場に足を運んだ自分にも問題があるのだと思うけれど。
by hychk126
| 2012-02-11 18:26
| 映画
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Comments(1)
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