よりよい未来の話をしよう

児玉美月|​​映画『怪物』鼎談記事の反響から考えるソーシャルメディアとの向き合い方【言葉で紡ぐ、いま・ここにある社会】

「ネタバレ」が意味するメッセージ

早いもので、今年もいよいよ終わりが近づいてきた。テーマについて、今回はソーシャルメディアにしようと思っていた。TwitterがXという名称に変わり、ますます別のソーシャルメディアへ移行しようとするひとたちも多くなってきている。

わたし自身もかつてほどは利用しておらず、複雑な感情を抱えたままアカウントだけは残している。しかし、ソーシャルメディアとの向き合い方を考えるにあたって、2024年でもっとも大きな影響を与えた出来事に辿りついたので、ここではまずそのことについて書いてみたい。

2023年6月、ひとつの日本映画が公開された。日本を代表する映画作家である是枝裕和と脚本家の坂元裕二がタッグを組んだ映画『怪物』は、公開前から大きな注目を集めていた。長らく是枝監督の新作を楽しみにしていたわたしは、担当している雑誌の新作映画紹介欄で取り上げることもあり、前情報をまったく入れないまま我先にと試写を観た。

序盤、走行中の車内で安藤サクラ演じる母親の麦野早織から「どこにでもある普通の家族」という言葉が発せられた瞬間、息子の湊が突然外へ飛び出してしまう。そのあたりからすでに、違和感のようなものを抱き始めた。そしてそれは、三章構成で綴られたこの映画が最後の章に入った段階で確信へと変わった。

『怪物』は子どものある異変に気づいた母親の視点で描かれる一章から、その母親の子どもに暴力を振るったとされる学校教師の視点で描かれる二章、そして子どもたちふたりの三章へと繋がれる。その子どもたち──湊と依里は、互いにまだ彼らがそれを名指す言葉を知らない感情を、密かに抱いていく。依里はまた、学校では規範的な「男らしさ」から逸脱しているとして同級生から暴言を吐かれており、そのジェンダーについても断定できない。「怪物」だったはずの人物が別の場面ではまともな人間になり、また別の場面では、まともだったはずの人間が「怪物」となる。ひとつの事象が角度を変えて、別の表情を浮かべていく。


試写を終えたあと、赤字で記載されたマスコミ向けの注意喚起に目をやると、そこには「子どもたちの視点で描かれる三度目の火事の描写以降に関しては、できる限り触れずに紹介してほしい」とあった。そこに言及すると「ネタバレ」になってしまい、「楽しみ」が削がれてしまうから、と理由も添えられていた。

「三度目の火事の描写以降」、つまり三章で鏤められた謎に回帰していきながら顕著に描出されゆくテーマが子どもたちのセクシュアリティである以上、「ネタバレ」とは主にそれを指すのが自然だろう。公共性の高い映画の広報において非規範的なジェンダーやセクシュアリティを「ネタバレ」と扱えば、「ネタバレ」とは一般的に「隠されるべき事実」を意味するために、社会に対して性的マイノリティのアイデンティティは「伏せ置かれるべきもの」というメッセージを図らずも送ってしまいかねない。またそれは、作品自体に孕むそうした構造的な危うさを強化してしまうことでもあった。

「楽しみ」とは、一体「誰」の「楽しみ」なのか

引っかかったのは、「ネタバレ」という文言だけではない。その「楽しみ」とは、一体「誰」の「楽しみ」なのか。

『怪物』には、親が自身の子どもが性的マイノリティかもしれないという可能性を「病気」であり「治療」すべきものとして「教育」しようとしたり、同級生が依里と湊の関係を勝手に恋愛と仮定し「気持ち悪い」と揶揄したりするなど、性的マイノリティがこの社会で遭遇しうる容赦ない差別が随所に差し込まれてもいる。

そこで描かれる当事者は、そうした作品で自らの属性が明かされる展開を、果たしてみんながみんな「楽しめる」だろうか。

そのマーケティングにおける戦略は、この映画を観ることになるであろう潜在的なクィアの観客たちを、あまりにも蔑ろにしているような印象を受けた。

スクリーンで「ネタ」にはなっても観客席には存在しないのなら、それは歪な想像力だなと思う。それでも、試写というルートで観てしまった立場としてすべてを公に言うべきではないかもしれないと悩みながら、作品名を伏せたうえでソーシャルメディアに今回の問題を投稿した。

その後、『怪物』がカンヌ国際映画祭でクィア・パルムを受賞したことが報道され、初めて性的マイノリティの登場人物やテーマを描く作品でもあることが世間に周知された。さらに、是枝監督がその映画祭の会見の場で「LGBTQに特化した作品ではなく〜」と答えた発言が話題になり、わたしもこのとき、隠すつもりだった「クィア」の称号を得たのは、彼らにとって「不名誉」なことだったのではないか、というようなことを投稿して批判に加勢した。作品のスタンスからしても、トッド・ヘインズの『キャロル』(2015)やセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』(2019)などが獲得してきたクィア・パルムの受賞は、寝耳に水で驚きを禁じえなかった。一方で、反射的に強い批判の言葉をソーシャルメディアに書き込んでしまったことを悔やんでもいた。

『怪物』の前作にあたる韓国との合作映画『ベイビー・ブローカー』(2022)では、是枝監督が「赤ちゃんポスト」を題材として扱った同作に対し「赤ちゃんの命を救う箱なのか、母親を甘やかす箱なのか、多分日本の取り組みも含めて両方の目線があると思うんですね」と、同じくカンヌ国際映画祭でのインタビューにて答えた内容が切り取られ、是枝監督自身が赤ちゃんポストを「母親を甘やかす箱」だと考えているかのように捉えた投稿がソーシャルメディアで拡散された(現在、ソーシャルメディア上で拡散される発端となった投稿はすでに削除されている)。

この騒動が起きて早々、わたしは「是枝監督が寧ろ『母親を甘やかす箱』とする世間を批判する側にいるのはこれまでの仕事を見ていれば一目瞭然で彼自身の真意だと受け取る方が難しい」と投稿し、擁護していた。

だから『怪物』の件では、是枝監督の言葉がまた不当に一人歩きして誤解されてしまっている、ともうひとりの自分は思ってもいて、今度は批判側に自分が立たされてしまっていることが苦しかった。それでもわたしがどうしても素通りできなかったのは、一義的には『怪物』がきわめて社会に対して影響力を持った大作であること、そして最たる理由は、描かれた対象が幼い子どもたちだったことだ。多感な季節を生きている子どもたち、とりわけ湊と依里のような子どもたちが、何も知らされずに不意打ちでこの映画を観て心に傷を負わない保証はできない。

▼「クィア」について解説した記事はこちら

是枝監督と坪井里緒さんとの対話に込めた思い

『怪物』についてのソーシャルメディアでの投稿が目に止まり、かねてより寄稿していた朝日新聞側から「重要な問題提起だと思うから何か書かないか」と打診があった。ただ、『怪物』で起きたこれらの問題は決して初めて起きたわけではなく、もはや常態化さえしていた。その都度クィアコミュニティは批判の声を上げ、それが制作側に架橋されることなく立ち消えになっていく光景も見てきた。

しかし『怪物』に至っては、物語の源流にあるのが、ひとつの事象に対して別の視点に立つことにより自らの加害性に気づくという再帰性なのであれば、クィアの視点を見て見ぬふりするような態度は、この物語が啓蒙しうるそうした核となる部分と矛盾をきたすのではないか。

ここでわたしが何か批評を書いて出しても、また一方通行な批判で終わるだけで、現状何も変わらないのではないかという徒労感と諦観もあった。書く場のある自分に与えられた特権を、これまで声を上げてきたクィアコミュニティにどう還元できるかをもう少し考えたかった。

わたしがそうこう考えあぐねているうちに、ライターの坪井里緒さんが「映画『怪物』を巡って——「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ」と題した記事を発表した。

この記事を読んだ是枝監督が、坪井さんとぜひ話をしたいと連絡したという。これまで分断されてきたように見えた作り手側と批判側を架橋できたなら、いまの現状を少しでも変えられるかもしれない。すでにコミュニケーションを重ねていた坪井さんと是枝監督が自分たちの話を公の場に出したいと考えてくれていたこともあり、それならばと今回は批評を書くのではなく、「対話」を出したいと朝日新聞側に提案したのだった。

それでも本当に実現できるのか半信半疑だったし、調整までにかなりの時間を要し、最終的に「映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話」と題されたその記事が露出されたのが、2024年の3月だった。

その記事では、映画祭の会見での件の発言、ジェンダーやセクシュアリティを「ネタバレ」とする広報、有識者による監修がどう行われたか、インティマシー・コーディネーターの導入、物議を醸した結末の解釈、子どもの撮影について…。また、『怪物』から離れて、映画にショッキングな内容が含まれるかを事前に告知する「トリガーアラート」の設置、女性の働き方、ハラスメントなどまで話題は多岐に亘った。

会見で出た発言は、もちろんクィアの子どもたちを描いた映画であるという前提で、クィアのテーマだけでなく、さまざまなテーマを持っていると伝えようとしたという真意、広報についてはセクシュアリティを「ネタバレ」としないようにしたかったが宣伝側との意思疎通に齟齬があったことなど、起きた問題についてひとつずつ詳らかに検証していった。

公開から時間が経っていたこともあり、世間がどれだけまだ関心を持っているかはわからなかった。でもわたしはまず誰よりも、『怪物』の広報や作品自体にクィアの観点から疑問を持った観客たちに、批判に応答する作り手の言葉を届けたかった。何らかの形で傷ついたひとがいるならば、その傷は決して時間が経ったからといって、たやすく消えるものではない。遅くなってしまったけど届くべき層に届いてくれればそれでいい、という個人的な想定とは裏腹に、有料の限定公開であるにもかからず、反響は凄まじかった。

日本におけるクィア映画を巡る批判と作り手の架橋という当初の目的も映画界という領域も遥かに超えて、批評行為とは何か、そもそも創作物とは何かなど、始源的な主題をそこに読み取るひとたちも数多くいたようだった。

ある俳優は『怪物』とは関係のない映画の上映後トークイベントで、記事について触れながら「セクシュアリティを隠すような宣伝はしてほしくない」と自身の立場上のリスクも顧みず話した。日本の映画界では俳優がこうした発言をすること自体なかなか珍しい状況のため、より誇らしく感じた。少しずつ変わってきたとはいえ、監督に限らず、同様に作り手側でもある俳優とも対話が増えていけばいいと思う。

鼎談記事に対するソーシャルメディア上の反応

少し時間が経ってさらに記事のアクセス数が伸びていくにつれ、批判も多く寄せられるようになっていった。クィアやフェミニズムについて触れる書き手は、ソーシャルメディアなどでの誹謗中傷を受けやすい。その意味では、わたし自身はまだまだ被害が少ない方だと認識してきた。

ただ、この時ばかりは正当だと思える批判に混在した悪意を、もろに喰らってしまった。普段はソーシャルメディアで批判への応答は一切しないように決めているものの、これに関しては自分だけの問題ではないため、応答できる内容にはなるべく応答していった。

だいたい嵐が止むまでに、1週間ほどかかった。連日、朝目が覚めて夜眠るまで、仕事のかたわらで常にソーシャルメディアを開き、批判があればそれについて何か書けるなら書く。途中から、体調を心配してくれる方まで現れた。ましてや直接顔を合わせてお互いに批判をぶつけ合った時間を過ごしたあととなると、内心はやはりソーシャルメディア上の議論は不毛にも感じつつ、こうした試みを実施すると反発がきてしまうという先例を作ってしまうと将来的にもよくないように思った。

記事は読み手のために整理されているが、収録現場では同じ話を何度も繰り返したり、話題を行ったり来たりしながら、お互いが納得できるまで、遠回りしながらでも歩み寄っていった。当初は媒体側から鼎談の様子を録画してその動画を配信する案も出されていたし、実際に読んだ方から「映像として見たかった」という投稿もあった。また、業界内部からはそのときに交わされたすべての会話を文字に起こして記事化しなければフェアではないという批判もあった。

とはいえ、その場では表に出せないような話もたびたびあり、個別でのやり取りはあったものの3人で集まって話すのは初めてだったので、そこでふと溢れる本音や理路整然としていない綻びのようなものが、その場を構築するコミュニケーションとして重要な機能を果たしていたようにも思う。

公平性と言えば、制作側が1人に対して、書き手側が2人という座組についても批判が寄せられた。わたし自身、映画は集団芸術であるにもかかわらず、何か問題が起きた場合に監督を務めた人間ばかりが矢面に立つのはおかしいと感じており、もともとはプロデューサーも同席する予定だった。さまざまな現場があるにせよ、最終的な決裁を握っているのが常に監督であるとは限らない。

しかしそのことは一旦置いとくとしても、本当に制作側と書き手側の人数を同数にしたところで、「公平」と言えるだろうか。国際的な知名度があり、業界内でも権威のある是枝監督と、まだ若手の書き手である坪井さんが1対1になれば、それは「公平」なのだろうか。

マイノリティとマジョリティの区分は、単純に少数派か多数派かという「数」に依拠しているわけではない。それは、社会的に弱い立場か強い立場かという権力の問題に係る。数を同数にすれば「公平」になるというのは、不均衡な権力勾配の土壌にしか立てないわたしたちにとって、表層的な主張に過ぎないように思う。

評言は表現を直接的に変える権限を持たない

その場にいた個人的な体感として、もっとも長く議論したのは、『怪物』の結末に関してだったと記憶している。初めて観たとき、わたしはその結末を、現実的な生死の次元を超えて、あくまでも抽象的な広がりをもった抒情詩として受け取っていた。

そのため、公開後に結末が死または生のどちらなのかという二項対立の議論が起きたことに対しては、ある種の意外性を覚えた。と同時に、『怪物』が「クィア映画」の系譜にも連なりうる作品であることを踏まえれば、その系譜にとって重要な意味を不可抗力的に抱え込むクィアの生死の問題が取り沙汰されるのは、もちろん必然でもあった。

是枝監督は鼎談でも他の媒体でも、最後のシーンでなされた白飛びの演出は彼らの生に対する祝福の光であり、自分は完全に生の側に立って撮ったのだと語っている。しかしその議論を経ても、やはりわたしにはあの結末は両義的であり、観客に解釈を委ねられるような余地を残しているとしか思えなかった。ましてやクィアの観客たちは自らの属性の人物がスクリーンに登場すると、死あるいはなんらかの悲劇が待ち受けていると身構えるのであり、そちらの引力に引っ張られたとしても不思議ではない。

その引力にも抗って「生」を強調するのであれば、別の描き方があったのではないか、と疑問を投げかけた。それでも是枝監督は、自分は「生」を選び取ったと言って譲らなかった。おそらくは拒否感もあるであろう「誤読」という言葉すら使った。そこには、何を言われても揺るがない、自分の表現に対する自負があった。

鼎談の記事に対して、「表現規制」「検閲」「欠席裁判」「公開尋問」といった政治的な強い言葉による批判も見受けられた。しかし、それは一見すると擁護のようでありながら、ひとりの作家の自律性を軽んじてはいないだろうか。

字義通りの意味で政府が規制や検閲といった権力を発動させたなら、無論それは作家にとっても一大事に違いないが、こちらは単なる一市民の評論家に過ぎない。是枝監督の結末に関する意思が変わらなかったように、評言は表現を直接的に変える権限を持たない。

たとえば『怪物』はジェンダー、セクシュアリティの表現に関して、有識者による監修を導入し、脚本の執筆段階から助言を受けている。ある知識に基づいて適切かを判断し、作り手側に提言する「監修」こそ表現を変える可能性があるとも言えるが、作り手が自由に表現できず、外部からなんらかの圧力を受けて表現が変わることを危惧しているとしたら、それは「検閲」ではないのだろうか(わたし自身、過去に監修の仕事もしたことがあり、批評と監修を担う者が重なり合う場合もあるだろう)。

「批判」や「批評」に、「表現規制」や「検閲」といった本来であれば公権力を示すはずの言葉を宛てがう比喩的なレトリックが動員されるとき、そこには話者のどんな心情が働いているのかについても、もう少し考えていきたい。

ソーシャルメディアにおける断片的な言葉の限界

というようなことをソーシャルメディアで語ろうとしても、息の長い言葉はあの場には向かない。つまるところソーシャルメディアは、答えを出さない言葉に向かない。問いだけを堂々巡りするような言葉に、優しくない。短文による反論はまた反論を呼び、言葉は空回りし、深い沼に足元をすくわれていく。

この鼎談記事が出た直後のソーシャルメディアでのやり取りを経て、これまで以上に断片的な言葉への限界を感じた。実社会において自らを語る声を持たない小さき存在を浮かび上がらせもするインターネットの空間は、マイノリティの権利獲得運動にとって有効な側面もある。短い核心的な言葉は拡散力が高く、性暴力やハラスメントなど世間の認知がまだまだ至らない問題について啓蒙するのに適している局面があり、わたし自身、過去にそれを利用してきたりもした。

でもいまは、延々と考え、答えもなく、ただ遅効性だけを携えたような言葉を語っていたい気分になっている。

今年仕事で出会った数多くの人たちが、『怪物』の鼎談記事について触れてきてくれた。なかには「本当は何か自分も投稿したかったし、児玉さんに声をかけたかった」と言ってくれた人もいた。でもあのとき、もはや誰に向けているのかもわからない批判に対する応答の言葉をソーシャルメディアに必死に綴りながらも、そのかたわらで、そんなふうに思ってくれている人がきっといるんだろうということに思いを馳せてもいた。インターネット上には可視化されないような、そんな見えない言葉に耳を傾けることを忘れずにいたい。

自分の心を守っていくために、無数のひとの感情の総体であるソーシャルメディアとの付き合い方を、まだまだ考えていかなければならない。

 


©︎ポニーキャニオン映画部

児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
X:https://x.com/tal0408mi
Instagram:https://www.instagram.com/mizuki.kodama73?igsh=MjhlcjB2dGE5bDli&utm_source=qr

 

寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝

 

最新記事のお知らせは公式SNS(Instagram)でも配信しています。
こちらもぜひチェックしてください!

▼これまでの児玉美月さんの連載コラムはこちら

"); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module:nth-child(1)").addClass("block-category"); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module:nth-child(2)").addClass("block-tag"); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module:nth-child(3)").addClass("block-sdgs"); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module:not(.block-sdgs)").wrapAll(""); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module.block-tag .hatena-urllist a.category-NEWS,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module.block-tag .hatena-urllist a.category-INTERVIEW,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module.block-tag .hatena-urllist a.category-COLUMN,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module.block-tag .hatena-urllist a.category-DICTIONARY,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module.block-tag .hatena-urllist a.category-SHOW").parent('li').hide(); $(".hatena-module-category a.category-SDGs-01-貧困をなくそう,.hatena-module-category a.category-SDGs-02-飢餓をゼロに,.hatena-module-category a.category-SDGs-03-すべての人に健康と福祉を, .hatena-module-category a.category-SDGs-04-質の高い教育をみんなに,.hatena-module-category a.category-SDGs-05-ジェンダー平等を実現しよう,.hatena-module-category a.category-SDGs-06-安全な水とトイレを世界中に,.hatena-module-category a.category-SDGs-07-エネルギーをみんなにそしてクリーンに,.hatena-module-category a.category-SDGs-08-働きがいも経済成長も,.hatena-module-category a.category-SDGs-09-産業と技術革新の基盤をつくろう,.hatena-module-category a.category-SDGs-10-人や国の不平等をなくそう,.hatena-module-category a.category-SDGs-11-住み続けられるまちづくりを,.hatena-module-category a.category-SDGs-12-つくる責任つかう責任,.hatena-module-category a.category-SDGs-13-気候変動に具体的な対策を,.hatena-module-category a.category-SDGs-14-海の豊かさを守ろう,.hatena-module-category a.category-SDGs-15-陸の豊かさも守ろう,.hatena-module-category a.category-SDGs-16-平和と公正をすべての人に,.hatena-module-category a.category-SDGs-17-パートナーシップで目標を達成しよう").parent('li').hide(); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a").parent('li').hide(); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-01-貧困をなくそう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-02-飢餓をゼロに,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-03-すべての人に健康と福祉を, #box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-04-質の高い教育をみんなに,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-05-ジェンダー平等を実現しよう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-06-安全な水とトイレを世界中に,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-07-エネルギーをみんなにそしてクリーンに,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-08-働きがいも経済成長も,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-09-産業と技術革新の基盤をつくろう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-10-人や国の不平等をなくそう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-11-住み続けられるまちづくりを,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-12-つくる責任つかう責任,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-13-気候変動に具体的な対策を,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-14-海の豊かさを守ろう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-15-陸の豊かさも守ろう,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-16-平和と公正をすべての人に,#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs a.category-SDGs-17-パートナーシップで目標を達成しよう").parent('li').show(); $("#box2 .footer-module-wrap .hatena-module-category.block-sdgs li:hidden").remove(); })(jQuery);