おくやみ

久しぶりにはてなにログインしたまさにその日に、こんな情報に接することになるとは思いもしませんでした。

能川元一さんが亡くなったことを、週刊金曜日が報じたそうです。

私がはじめて「はてな的」な話題に言及したのは、Apeman(apesnotmonkeysだったかもしれません)の記事に対する「批判」でした*1

もっとも、私はそのときの彼の記事に対して特別に関心や知識があったというわけではありません。たまたま記事が目につき、その厳しい筆致に何かひと言いってやりたくなったというだけです。

私の言及内容は、要約すれば、「あなたの言っていることは正しい面もあるかもしれないが、そのような言い方では人々に理解されない」というようなことでした。社会問題を自らの問題として引き受けず、無責任な立場から戦略を云々する。まさに現在の私が批判している態度そのものであり、今から振り返ってみれば恥ずかしい限りです*2

そのような批判というのもおこがましい言及に対し、彼は、勿論手厳しく反論し完膚なきまでに私を叩きのめすこともできたでしょう。私の言及は不躾であり、そのような対応をされても当然だったと思います。しかし、彼はそうしなかった。私の幼い言及を黙殺してくれたのです。

当時の私は人格的にも未熟で負けん気ばかりが強かったので、もしこのとき手酷く言い負かされていれば、おそらく反発心が先に立ち、無意識的にその反発心を正当化するための知識ばかりを集め論理を構築するようになっていたのではないかと思います。そうならなかったのは、ひとえに彼の温情ゆえであり、そのことに私は深く感謝しています。

文化の日の夜、はてなの思い出として記しました。

*1:Apeman(apesnotmonkeys)と能川さんは同一人物で、本人が少なくともそれを黙示的に認めるような言動をしていたという記憶のもとに本記事を作成しています。もし私の記憶に誤りがあればご指摘ください。

*2:現在進行形でそのような態度をとっている方には、私がそうした過程を経て現在の立場に至っているということを心に留めておいていただきたいです。無責任な立場から、問題にコミットしている人を眺めたとき、その人が近視眼的であったり短慮であったりするように見えることもあるかもしれません。しかし多くの場合、決してそうではない。そのように見えるのは、自身が問題を自分事として引き受けない甘えた立場をとっているからではないか、と己に問うてみてください。

来年もよろしくお願いします

今年記事を書くのはこれが初めてですが、はてなには何度かログインする機会がありました。

その際に驚いたのは、はてなで注目されているトピックを把握する能力が著しく衰えていたこと。やはり有名な「はてなー」さんをたまに追うなどしていわゆる「はてなの文脈」をある程度理解していないと、同じ場にいても同じものを見ることができないのですね。

この一年は、会食等の機会が顕著に増えて執務時間が大幅に制限されたにもかかわらず、仕事の量はむしろやや増加したため、生活の多方面にしわ寄せがきてしまったように感じています。今のようなありかたは持続可能ではないので改善の必要があるでしょうが、皆様のご期待や需要に応えつつ持続可能性を高める妙案はまだひらめきません。この年末年始に考えてみます。

それでは皆様、よいお年を。

来年もよろしくお願いします

私が無事にやっていることはひと月ほど前にお伝えしたところなので、改めてなにか申し上げる必要はないかな、という気もしたのですが、やはり暮れなので簡単にだけご挨拶を。

今年は仕事がいよいよ多忙となるとともに責任の重い立場に就くことともなった一年でした。多忙にかまけて自己研鑚という面では疎かになったところもあるように思うので、来年はなにか具体的な目標を定めて、キツくても研鑚を積まざるを得ない状況に自らをおくべきかもしれません。もっとも、若いころと同じ感覚で無理を続けた結果からだを壊すという例を仄聞しないでもないので、そのあたりは上手くバランスをとることが重要なのでしょうね。

久しぶりにはてなに接して、目をひいたのはColaboがらみの話題ですね。実社会ではまったくといってよいほど話題に上っていないのに、随分息ながく騒がれ続けているようなのは、いかにもはてならしいと感じた次第です。
この件を発端からおって何かものを申すような気力も時間ももとよりないですが、事案から離れた一般的な話をするならば、行政等に提出する書類が、勘所さえおさえてあれば、その他は相当に「テキトウ」であっても許されるなどというのはなんら珍しいことではありません。書類を作成する側も審査する側も、記入項目の逐一について詳細かつ正確であることを厳密に求められるならば、とても業務が回らないというのが実際のところだと思います。そのような現状が望ましいのかどうかはもちろん議論の余地があるでしょうが。
ともあれ、このような糾弾が効果をあげるというのであれば、スネにキズもつ団体は相当多いでしょうから、時間とご興味のある方は調べてみるのもおもしろいかもしれませんね。

今年も一年お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。

おくのほそ道を読みました

お久しぶりです。

私は変わらず元気でやっています。

近頃は多忙にかまけて趣味としての読書からは遠ざかりがちだったのですが、先日おくのほそ道を読む機会があり、同書がとてもよかったので、読書熱が少しだけ再燃しています。

ひとまず芭蕉の他の著作のほか、曾良日記、菅菰抄、それから芭蕉に大きな影響を与えている西行についての手ごろな新書あたりは読もうと思っているのですが、「芭蕉に手を出すならこれは読んでおけ」という本をご存知の方がいれば教えていただけるとうれしいです。

朝晩冷え込む季節となりました。皆様どうぞご自愛ください。

元気でやっております

すっかりご無沙汰をしてしまいました。

もし心配してくださった方がいたら、申し訳ありません。私は元気でやっております。

この1年は、飛躍、というとおこがましいかもしれませんが、自分なりに一歩を進めることができたのではないかと感じています。

今後もはてなに顔を出す機会はあまり多くないかもしれませんが、戻ってきたときには温かく迎えてくださるとうれしいです。

ではよいお年を。

とっつきやすい南京事件論

清水潔『「南京事件」を調査せよ』*1を読みました。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

本書は、「戦争についてほとんど知らなかった事件記者」である清水が、南京事件について「調査報道」の手法で自ら調べあげた結果等をまとめたものです。

公平に言って、純粋に南京事件についての知識の獲得を目的とするならば、たとえば笠原十九司南京事件』など、より幅広くかつ詳細に解説した安価な一般書が他にもあるとは思います。本書でかなり紙幅を割いて紹介されている黒須忠信上等兵の陣中日記も、上記の笠原書などにおいてすでに言及されているものであって、新発見というわけではありません。

しかしそうであるにもかかわらず本書がすばらしいのは、清水が自らの取材によってそうした資料をいわば「血の通った」ものとして表現することに成功しているからです。

資料を収集している者のもとに直接赴く。資料収集者から収集を思い立った動機や資料を譲り受ける際のやりとりなどを聴取する。折れやすり減り、あるいは紙の変色など、資料の状態を観察する。資料作成者の本人確認を行う。資料の記載と他の資料から判明している客観的事実との整合性を確認する……。

この種の調査は清水に限らず問題に対して誠実に取り組んでいる者であればだれでも当然行っているでしょうが、いざ一冊の本として発表するという段では、そうした調査によって得られた結果だけを書くことも多いのではないかと思います。もちろんそれが悪いというわけではないですが、ときにそのような記述は門外漢に対して無味乾燥でとっつきづらい印象を与えることもあるでしょう。本書の最大の功績は、上記のような調査の過程についても事件記者ならではの生々しい筆致で描写することにより、南京事件をとっつきづらい歴史論争だと感じているようないわゆる「普通の人」にも関心を抱かせた点にあるのだと思います。

なお、本書は『「南京事件」を調査せよ』と銘打っているものの、南京事件について論じているのは全体の3分の2ほどで、残りの3分の1は「旅順虐殺事件」などの別事件について論じるものとなっています。 南京事件以外にも多くの痛ましい事件があるのは全くそのとおりであり、必ずしも知名度の高くない事件にも光を当てようとする清水の姿勢には大いに共感します。ただ、本書に関して言えばさすがに少々話題が拡散してしまった観があり、南京事件以外の問題については別の機会に論じた方がよかったのではないかと思います。

*1:以下、「本書」といいます。

生活保護と扶養

はじめに

令和3年1月28日参議院予算委員会での小池晃の質問に対する田村憲久厚生労働大臣のセンセーショナルな答弁、

「義務ではございません。義務ではございません。扶養照会が義務ではございません」

からはや一月半。いかにも時機を逸してはいますが、生活保護と扶養について、一応書いておこうと思います。

なお、この件についてはわっと(id:watto)さんがすでに記事を作成されているので、そちらもご覧ください。

田村厚生労働大臣が「扶養照会は生活保護の義務ではない」と国会答弁した前後の私的まとめ - しいたげられたしいたけ

1月29日付拙エントリー2日続けて2万pv超えお礼と扶養照会に関する若干のリンク追加 - しいたげられたしいたけ

田村発言は何を言っているのか 

まず「扶養照会が義務ではございません」という田村発言が何を言わんとしているのか、確認しておきましょう。

そもそも「扶養照会」とは、生活保護の申請があったとき、扶養義務のある申請者の親族などに援助が可能かどうかを問い合わせることです。

ところで、生活保護*14条は以下のような規定となっています。

第四条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。

2 民法(明治二十九年法律第八十九号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。

3 (略)

ごらんのとおり、法4条2項には「扶養義務者の扶養……は、すべてこの法律による保護に優先して行われる」との文言があります。このため、扶養義務者による扶養が可能な場合には生活保護に先立ってその扶養を受けるべきであり、かかる扶養の可否を判断するために扶養照会がなされなければならないのではないか、ということが一応は問題となりうるのです。

もっとも、これまた条文を見れば明らかですが、生活保護の要件は法4条1項に明記されているとおり「生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用すること」であり、これに尽きます。扶養義務者の扶養等は、要件とは截然と区別されているのです。したがって、法4条2項にいう「優先」とは、たとえば実際に扶養義務者からの金銭的扶養が行われ たときに、これを被保護者の収入として取り扱うこと等を意味するにすぎません*2扶養や扶養照会は、生活保護の要件ではないのです。

「扶養照会が義務ではございません」という田村発言はまさにこの趣旨、すなわち扶養照会を行わなければ生活保護の決定ができないわけではないことをいうものです。

扶養と生活保護に関して(余談)

ちなみに、扶養と生活保護に関しては、過去にも大問題がありました。長野県の福祉事務所が生活保護申請者の親族に対して、保護にあたっては「扶養義務者の扶養(援助)を優先的に受けることが前提」であるとの記載のある書類を送りつけていたのです*3

上記のとおり扶養は生活保護の要件ではありませんから、このような書類が送りつけられていたことは誤った説明をするものだとして、当然当時の国会において厳しい追及がなされました。結果、厚生労働省も不適切な記載があったことを認め、「生活保護法第4条第2項の扶養義務者の扶養の可否を確認するために使用する扶養照会書等について」(平成25年11月8日付厚生労働省社会・援護局保護課保護係長事務連絡)を全国の自治体に送付し、対応の是正を求める事態となったのでした。当時これだけの大問題へと発展したにもかかわらず、扶養が生活保護の要件ではないことを前提とした対応が必ずしも徹底されていないようにも見えるのは残念なことです。

なお、平成25年11月7日厚生労働委員会においてこの問題をはじめて追及したのは、今回(令和3年1月28日)と同じく小池晃。答弁に立ったのもやはり同じく田村憲久でした。小池晃、よく働いていますね。

扶養義務は義務である 

閑話休題

上記のとおり扶養は生活保護の要件ではなく、その意味において扶養も扶養照会も義務ではありません。しかし、同語反復的な言い方になってしまいますが、扶養義務者にとって扶養は義務であることを確認しておくのは重要だと思います。

民法は、一定の親族に対して扶養義務を課しています。条文で言うと、752条、877条1項および2項です。

(同居、協力及び扶助の義務)

第七百五十二条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

(扶養義務者)

第八百七十七条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。

2 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。

3 (略)

以上のとおり、夫婦、直系血族および兄弟姉妹は、互いを扶養する義務を負います*4。また、特別の事情がある場合には、その他の三親等内の親族家庭裁判所によって扶養義務を負わされることがあります*5。これらの扶養義務者のうち、夫婦と、未成熟の子に対する親は、生活保持義務と呼ばれる特に高度の扶養義務を負うものと解されていますが、ここでは立ち入りません。重要なのは、これらの者は扶養の義務を負うのだということです。 

こんにちでは、家族のつながりというものは随分弱くなったように見えます。冒頭で紹介した令和3年1月28日参議院予算委員会でのやりとりにおいても、扶養照会がなかなか援助につながらないということが述べられていました。

もちろん、扶養義務は義務者に扶養能力があることを前提とするものですから、本当に扶養ができないという事例も多々あることでしょう。そのような事例に非難を向けるべきでないのは当然です。しかし、くりかえしになりますが、本来扶養義務者の扶養は義務なのです。してもしなくてもよい恩恵や施しではないのです。扶養義務者がいるならば扶養がなされるのが原則であり、これがなされないのはイレギュラーな事態なのだという認識を、もっと世間において共有するべきだと思います。

助けあえる家族がいることの重要性

生活保護申請者の自立という観点からも、扶養義務者による扶養をとりつけるのは重要なことだと、私は思っています。

つくろい東京ファンドが実施した生活困窮者向け相談会に来場した方へのアンケート調査*6によれば、生活保護を利用しないと答えた方のおよそ3人に1人は「家族に知られたくないから」との理由を選択したそうです。納得感のある調査結果です。私自身、人並み以上にはいわゆる「どん詰まり」の方と接してきたと思いますが、やはりそういう方は「人と関わること」「人に迷惑をかけること」を極度に嫌う印象があります。

しかし、手垢のついた表現を用いるならば、人はひとりでは生きられませんし、他人と関わっていけばどうしても迷惑をかける場面は出てきます。逆説的な言い方になりますが、自立して生きていくとは、ナチュラルに他人に頼れるようになる、迷惑をかけられるようになること*7である、という面がたしかにあると思います。 

そのように考えた場合、扶養義務者のような関係の近い家族というのは、自立への第一歩としてきわめて重要な存在です。自民党が夢想するような古臭い世界観だと言われるかもしれませんが、ダメでもクズでも*8、家族であるという一事をもって、とりあえずは面倒をみる。それが家族というものでしょう*9

迷惑をかけるうえで一番ハードルの低い存在。しかも、扶養義務という法律上の担保まである。もちろん事例による部分はあるにせよ、こうした人たちにさえ甘えられないようでは、なかなか社会の中で生きていけるようになるのは難しい場合も多いのではないかという気がします。その意味で、扶養義務者の扶養をとりつけることは、生活保護申請者をふたたび社会で生きていけるようにするためにも重要なことではないかと思うのです。

ただし、上記のとおりそうした「どん詰まり」の方にこそ家族等に窮状を知られるのを嫌う傾向があるのではないかと疑われる以上、生活保護の申請段階において扶養義務者へ積極的にアプローチすることについては、私は必ずしも賛成しません。そうしたアプローチによって、本来生活保護を利用すべき人が利用を控える結果ともなりかねないからです。申請段階では本人の意思を尊重し、保護の決定等が出たのちに、根気よく(本人も含めた)各関係者を説得してつながりをつくっていくサポートをするべきではないか、というのが私の考えです。

おわりに

生活保護と扶養について、情報の整理がてら思うところを述べてみました。

「扶養は義務ではない」はまったく正しく、私自身満腔の同意を表するものですが、一方で「扶養は義務である」もまた、本記事で述べたように正しくはあるのだということを、心の片隅にでもとどめていただければうれしいです。

*1:以下、「法」といいます。

*2:「扶養義務履行が期待できない者の判断基準の留意点等について」(令和3年2月26日付厚生労働省社会・援護局保護課事務連絡)参照。

*3:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-09/2013110901_01_1.html

*4:これらの者を「絶対的扶養義務者」といいます。

*5:こうした者を「相対的扶養義務者」といいます。

*6:https://tsukuroi.tokyo/2021/01/16/1487/

*7:より正確に言うなら、他人を頼ったこと、迷惑をかけたことをきちんと引きうけ、その上に関係を築いていけるようになること、でしょうか。

*8:当然ですが、生活保護申請者がそうだと言っているわけではありません。「どんな人間であっても」という趣旨です。

*9:それは、「家族愛」のようなキレイゴトではありません。「そういうものだ」という、ある種の理に近いものです。