恋、と書いたら、あと、書けなくなった。 ~現代音楽フェス論と偽者のことば流行~ | R

恋、と書いたら、あと、書けなくなった。 ~現代音楽フェス論と偽者のことば流行~

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鹿ってかわいいかも。あのお尻をぷりんとあげて走るとこ。

さて、GWも近づき夏に向けて進んでいく。ぼくらは夏の生き物かもしれない。唯一は今年の夏フェスのほとんどがはずれでもはや遠くで酒を飲むしかないだろうラインアップてことだ。
ついにフェスは乱立時代となる。それは予想していた通りだ。しかしこれからはその権利を獲得する時代になるかもしれない。
 アメリカの大型フェス、コーチェラフェスがYouTubeで生中継された(まだ見れるだろうから見てね、ローゼスやらヤーヤーヤーやレッチリやらスカパラやツードア)。生音の良さはいまだに再現は難しいが、昨今では配信でもなかなかにいい音で聴くことができる。坂本龍一も配信によるライブ(ネットで投げ銭スタイル)をしている。
 そう、これからはフェスとは別にその配信権を獲得し各地で生中継することが可能だ。それこそ自宅PCではできないスペックのスピーカーや映像を用いて海外だろうとどこだろうとフェスをそのまま味わうことができるだろう。
 従来では(それこそまさに今も指すだろうが)フェス乱立から、夏のイベントとしての機能を重視することも増えた。今では夏になるとどこのショップでも夏フェスグッズとしたしゃれた長靴やポンチョ、レインコートが売られる。ロキノンであったようなフェスメシ、屋台の強化。
 だがいつでも本当に必要なのはその季節が狂うほど美しい音楽とバンド達であることは確かだった。見たいグループがいるからこそ会場へ向かった。今年も浅井健一は北国のフェスにはだいたい参加(岩見沢7月末、盆のRSRなどにソロ(バッドティーチャーキルクラブとして)かシャーベッツ)でくる。スマッシュとは仲いいがロキノン関係には出ないからなあ。

 推メン浅井は置いといて、今後はいつどこにいてもフェスが生中継で楽しめることになる。ほぼ1日時差あるアメリカの野外フェスが携帯端末で見れるのだから。もはや大物バンドが大金で大型フェスに連ねる必要はなくなったのかもしれない。
 例えば、いつぞやツェッペリン再結成に1000万円かけて見に行ったこともあった。ロック史で非常に重要なファクターだが、もしこれがネット配信されたならばどうだろう。チケットは完売しただろうが、高値になっただろうか。会場の数万人(規模忘れた笑)、それよりもむしろ、世界中恐らく数億人への配信によってそのネット広告料やその他の方がお金は動いたように考えられる。
 
 
 現在ではまとわりつくライブでの臨場感、音質、雰囲気、動き、熱気(温度湿度)、これも近い将来、本当に近く、再現されるだろう。音質は有料であればかなり向上している、つられて無料配信もそうだ。仮に巨大なスクリーンとスピーカー、ロックな会場があれば臨場感も出るかもしれない。動きだって実寸サイズになるように見えたら本物かもしれない。
 唯一困難なものは熱気だ。この温度と湿度は音楽に密接していると近頃考えている。スカからレゲエが生まれたというように熱帯地域はとにかく暑いし蒸している。涼しくもなりたいし晴れていてもほしい。となると動くのもだるいスローな音楽が生まれる。水中では音の伝わり方も違う。音楽は環境と一心同体なのは間違いない。からっと晴れた日に聴くストラトギターのロックは気持ちいい、ミッシェル初期とその他をぜひ晴れたときに聞き比べしてほしい。
 
 つまり今後、このいくつかの要素、とりわけ熱気を再現することができたものがこれからの音楽シーンの方向性を決めることができるのだ。悔しいがそうなる。でも我々は決してあの胸、腹の底に響く重圧を忘れないし、爆音でスネアのバネが響きっぱなしなのを忘れないし、聞き取れないと判断されカットされた部分を愛していく。現代の利便性のもと千切り取られたあの部分こそ我々が愛して止まない音楽の本質だ。





便利になることは何かの行動をすっ飛ばしていることになる。その部分をわすれてはいけない。いつかこどもたちは思うかもしれない。何がどうなってぼくらは自分のベッドの上からトムヨークが踊るのが見れるのか、と。



偽者ことば編は次にするったい。



ここで映画、『めめめのくらげ』



























映画なのか、、、市場開放もオタク市場に変化してるだけで美術市場を盛り上げたいなら金融屋でもやればいい。コンテンツ化、キャラ化、イラスト化が生き残る最後の道か否か。
きっと思うだろう、彼がこれで芸術家をやめたことを。
あきらめて映画もカイカイキキすればよかったのに。