道寸祭り その1 |  三浦の村の写真館

 三浦の村の写真館

   海に囲まれた、三浦の村の写真を撮りながら、たまには隣り村に出掛けたり、若き日の昔話に耽りたいと思います。

今日は、五月晴れに恵まれた、油壺の荒井浜で、「道寸祭り」が行われました。
北条早雲に滅ぼされた、三浦道寸義同を偲び、毎年5月の最終日曜日に行われるものですが、今日は、初めて新井城址のある、東大臨海実験所の構内が開放されました。
先ずは、その様子からレポートします。

会場の入り口ですが、ここはいわゆる「内の引橋」と呼ばれる場所で、当時は両脇に深い堀が掘られており、敵が攻めて来たら、橋を引いて防御しました。それには北条早雲も手が出せず、3年もの間、兵糧攻めにしたそうです。しかし、ここには「千駄やぐら」と呼ばれる、米俵を2000俵も備蓄出来る大きな洞窟があり、また水軍でもあった三浦一族は、船を使い、海からの食糧の補給も続けていたそうです。


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会場には、三浦道寸研究会が作成した、当時の新井城の見取り図が飾られていました。
ここは現在、油壺マリンパーク、東大臨海実験所、ホテル観潮荘になっていますが、当時は、それぞれ二の丸、本丸、合戦場となっていた場所です。


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これは三浦道寸が自決する時の辞世の句ですが、「討つものも 討たれるものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ」と詠んでいます。
この日は、脇に「かわらけ」のサンプルが置かれていました。


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当日は、高校生のボランティアガイドが活躍していました。
三浦一族を良く知っている私には、ちょっと物足りない部分もありましたが、覚えた事を一生懸命説明している姿には感激しました。
彼女達のユニホームのTシャツの胸には、三浦一族の三つ引き両の紋がありましたが、背中には「三浦どうするん会」と面白いロゴが入っていたので、わざわざ背中の写真を撮らせて貰いました。


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これは「空堀り」ですが、何時もは外から撮っているのに、今日は中から撮る事が出来ました。
当時は、もっと深い堀でしたが、500年の間に、両脇の土手が崩れ、こんなに浅い堀になったとの事です。


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この会場を出て、近くにある、三浦道寸の供養碑を訪ねてみました。
この日は、道寸祭りの日でもあるので、ご焼香所が設けられていました。
私も焼香をして、道寸の霊を弔いました。


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供養碑には、三浦一族の三つ引き両の紋が見られました。
私も持って来たワンカップを碑に少し掛けて、一緒に弔い酒を酌み交わしました。


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ここは合戦場の近くにある、胴網海岸です。
三浦荒次郎義意は、父義同の切腹を見届けた後、敵陣に突入しましたが、誰一人彼に敵うものはなく、最後は自分で首を掻き切りました。その首は、遠く北条早雲のいる小田原まで飛び、新井城が落城してからも3年もの間、松の木に生首が引っ掛かっていたそうです。
そして自害した荒次郎の胴体が網に掛かり、そこが胴網海岸と名付けられたそうです。
正面の森の中に、道寸と荒次郎の供養碑があります。


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