新日本出版社から刊行されてきた『資本論』の新訳には、『資本論』を何十年も研究してきた専門家から批判が殺到している。多くの人が生涯をかけて研究し、学会で共通の理解になってきたことを、間違っているなら間違っていると学会で指摘されるならともかく、何の批判もしないで(できないで?)あっさりと覆すのだから、当然のことだろう。理論的にもそうだし、文献学的にもそうである。
本来なら、そういう研究者全員に集まってもらい、議論をして、その成果を共著として出すのが筋だと思う。しかし、高齢の方が多いし、新日本出版社が相手だと、その背後にあるものに気を遣ってしまうわけである。純粋な学問的批判なのだから気遣い不要だというのが私の立場だが、相手が学問としてではなく政治の問題にしてしまうのではないかと、いらぬ気遣いが生まれるのである。
若手で「全集」刊行に携わっている研究者は、そういうしがらみがないので、自由な批判が可能である。けれども、高齢の研究者と違って、自分が生涯をかけてきたものを否定されたというわけではない。その微妙なラインを出すには、やはり古くからの研究者に依頼したいと思ったわけである。
ということで、1年かけて議論してきたが、私なりにその著作にタイトルをつけるとすると、この記事のタイトルのようになる。『「資本論」はいかに編集されてはならないか』。
エンゲルスの編集にも問題があるのは事実で、それはそれとして明らかにされなければならない。マルクスが残した膨大な草稿をどうやって刊行にこぎつけるかは、気の遠くなるような作業で、それを担ったエンゲルスが仕事を終えたとたん、生命を維持できなかった事実からも理解できる。草稿はいろいろな時期に書きためたものだから、その中には、マルクスが自分の経済学説を確立する以前のものもあり、私は知らなかったが、以前の新書判の翻訳でも、その作業にたずさわった人に聞くと、それらは注のようなかたちで分かるようになっているわけではないそうだ。
だから、エンゲルス編集版の問題点を指摘する必要はある。しかし、それならそういう新訳にすべきであって、今回の新訳のように、マルクスが捨て去った見解であることが文献史学的にお理論的にも明確なものを、さも唯一の正しいものとして出すのはいただけない。
ということで、タイトルはこんな感じなのだ。エンゲルスの編集の問題点にもふれるので、こんなタイトルになっている(というか、私がつけたものなので、最終的にどうなるかは分からない)。今年中という感じかな。
ただ、他の研究者も、関連する本を出すそうだ。ということで、今年は新訳をめぐって、活発な議論が起きる年になるかもしれない。学問の世界なら当然のことだけれどね。