「ポリアモリー(を含む、一夫一婦制によらない家族)と子供」について、考えていきたいと思います。
 

先日、櫨畑敦子さんが主催した「かぞくって、なんだろう?展」のなかで、彼女と私、そしてSEX and the LIVE!!の仲間である卜沢彩子さん・たかだまなみ社長の4人でのトークライブをおこないました。

そのなかで、たかださんの「かぞくは定点」という話が印象的でした。

彼女は、「私にとって、かぞくとは定点で、北極星みたいに動かないもの。帰れる場所。いまも帰れる家があって、そこに行けばお父さんとお母さんがいる」と言います。

それを聞いた私が思い浮かべたのは、「安全基地」の概念――子供は親との信頼関係によって育まれる「心の安全基地」の存在によって外の世界を探索でき、戻ってきたときには喜んで迎えられると確信することで帰還することができる、という人間の愛着行動に関する概念です。

たかださんにとっては、実家とお父さん・お母さんが安全基地なのでしょう。

ポリアモリーを研究している臨床心理士の方と、ポリアモリー家族や共同保育によって育てられた子供は、安全基地をもてるのか?について議論したことがあります。

私は、必ずしも血縁や法的な繋がりが安全基地だとは思いませんが、安全基地を作るには何が必要か、今後も考えてゆきたいと思います。

イベント後、私は櫨畑さんの『ふつうの非婚出産 シングルマザー、新しい「かぞく」を生きる』を読んで、ドキュメンタリー番組を観て感じていたモヤモヤが晴れた気がしました。

分かったのは、彼女は何も考えずに“とりあえず”で妊娠したわけでもないし、妊娠や育児に対して無責任なわけでもない。契約結婚やゲイカップルとの人工授精など、いろんな試行錯誤やチャレンジの集大成としてついに妊娠したんだ、ということでした。

産まれるまでにも、スタンダードなかたちではない「かぞく」を実践している人たちを訪ね、成功や失敗談などを聞いて、じゃあ自分はこうしよう・ああしようとイメージしたそうです。

櫨畑さんの子供は、間違いなく望まれて産まれてきて、多くの人に愛されて育てられている。

もちろん、共同保育がうまくいくかどうかは別の問題ですが、それは法律婚夫婦のもとに産まれた子供だって同じことです。

わたしは出産した。こんな世の中クソくらえだと思っていながらも、新しい生命を産み出した。「こんな世の中に産まれてくるのって不幸になるだけだ」なんて、それはあくまでわたしの人生においてのわたしの考えなのである。産まれてきた人には産まれてきた人の人生があって、産まれてきてよかったかどうかはその人が決めることである。わたしが決めることではない。だからわたしは出産することにした。
(2018年、p.173)

私がこの本でいちばん大切だと思ったのは、櫨畑さんが今までの人生経験を通して「この世界は信頼するに値する。自分から頼ることができれば、誰だって助けてくれる。世の中、悪いもんじゃないな、捨てたもんじゃないな」と思うようになったという点です。

子供には「こんな世の中クソくらえだ」と自分や他人を憎むようになってほしくはないし、そのためには親自身が世の中に希望をもっていられることが大切ではないでしょうか。
 

また、ポリアモリー家族や非婚出産における育児に対する「子供が可哀想」「無責任な親のエゴ」という非難を念頭に多くの当事者と話す中で、私にとって最も衝撃的だったのが、次のような彼女の言葉でした。

「そんなの親のエゴじゃないの?」
これは完全にわたしのエゴだと思います。
ただ、わたしも親のエゴで産まれてきたんだと思っています。みんな誰かのエゴによって産まれてきて、今生きているのではないのでしょうか?
(2018年、p.185)

「振り回される子どもが可哀想だと思わないの?」
(略)基本的には産まれて来ること自体、親にすでに大きく振り回されているし、振り回されていない子どもなんていない。ひかりさんが可哀想かどうかは周りの誰かが決めることではなく、本人が決めることだと思っています。
(2018年、p.186)

婚外子として産まれ、母親を含む多くの大人に共同で育てられた加納土さんも、同じようなことを述べています。

「突き詰めれば、どんな子どもも可哀想じゃないですか。たとえば、親がどんな職業だとか、どこに住んでいるだとか、収入とか、どんな料理を作ってくれるだとかの一切を選べない。子どもは親に従わざるを得ないという時点で、デフォルトで"可哀想"なので、保育の仕方だけを切り取って可哀想っていうのはどうなのかなと思いますね。」
(佐々木ののか「「沈没家族」で僕は育った。“普通”じゃない家族で育つ子供は、不幸せなのか。」ハフポスト日本版 2018年6月27日)

私自身、「ポリアモリーなんてエゴ」といった意見を受けて「エゴであってはいけない」と思っていたのですが、「そもそもエゴなんだよ」という言葉に、目から鱗が落ちる思いがしました。

どんなに望まれて産まれてきたとしても、出産は一人の人間を突如この世に投げ込むことであるという事実に変わりはないし、どんな子供もそのように産み出されるということに何の抵抗もできません。

でも、そもそもエゴの全くない出産も育児もあり得ない。どんなタイミングでどんな養育環境で産むとしても(あるいは産まないとしても)、私自身、それを心に留めていたいと思いました。