3月12日付け朝日新聞(ネット版)に、「日産が恐れた取締役会出席 検察は『思い上がり』と批判」という見出しの記事がありました。
 保釈されたカルロス・ゴーン氏が日産の取締役会への出席を求めたものの、検察(と日産)の反対に遭い、裁判所の許可を得られなかったという記事です。
 この記事に、「別の検察幹部は『関係者だらけの取締役会に出ていいわけがない。出席を希望するなんて、どこまで思い上がっているのか』と批判した。」というくだりがありました。

 今回に限らず、ゴーン氏の件についての検察幹部の物言いは異様です。あまりにも感情的だと思います。

 これを愚かだと言うのも間違いではないでしょうが、幹部たる人が、記事になることを分かった上で言うからには、何らかの思惑があるはずです。
 それは、とりもなおさず危機感の裏返しだと思います。
 ゴーン氏の事件が無罪になるかも知れないという危機感もあるでしょうが、検察はさらに「これまで守ってきたシステムが変わってしまう」という危機感を抱いているのではないでしょうか。

 被疑者はのべつ幕なしに逮捕・勾留し、連日厳しく取り調べて自白させ、調書を揃えて起訴する。証人にはその台本(調書)どおりに証言させる。
 逮捕した時点で被疑者が犯罪者なのは間違いないから、勾留の段階から処罰を始める。
 否認する被疑者・被告人は輪をかけての悪党だから、少なくとも罪を認めて降伏するまで外に出さない。
 検察に文句を言う弁護人は悪の手先。その弁護人の言うことに耳を貸す裁判所をたしなめ、一から十まで検察の言うとおりの判決を出させる。

 挙げればきりがありませんが、これが連綿と続く「我ら検察こそ刑事司法の主宰者なり」というシステムです。

 ここでは、それが客観的に正しいか否かは問題ではありません。「とにかく昔からこうなんだから、これからもこうなのだ」という思考です。

 こうしたシステムが、いくらなんでもおかしいと世に知られるようになったので、検察はマスコミを使って「ゴーンはとんでもない悪党だ」と喧伝することにより、「そりゃそうだ」と思う人々の支持をとりつけ、世論を追い風として、新しい動きを始めた裁判所を牽制(あるいは統制)しようとしているのではないでしょうか。

 もっとも、検察も新しいものを採り入れてはいます。
 ですが、それは専ら捜査手法で、犯罪捜査機関である検察に有利なものでしかありません。古いところでは盗聴しかり、新しいところでは司法取引しかりです。

 他方で、検察に不利にはたらくものは、まずは徹底的に拒否します。
 取調の録音・録画がそうです。
 ところが、取調の可視化が必要だという世の流れに抵抗しきれなくなると、検察はなんとかして有利な方向で使おうと知恵を絞り、録画映像(それも編集したもの)を法廷で流して有罪判決に導く手法を編み出しました。
 これも結局は、昔からの「取調と自白こそが金」という伝統に沿うものです。調書の代わりに映像を使っているだけなのですから。

 考えてみれば、保守反動勢力の最たるところが検察なのかもしれません。
 「今までこうだったのだから、これからもこうなのだ」という、さしたる思慮のない「社訓」を掲げる組織が検察なのでしょう。
 
 特捜部が起訴したゴーン氏が、否認しているのに早々と保釈されたことによって、検察の伝統にまた大きな風穴が空こうとしています。
 そこで検察は、マスコミを使って「こんな悪党が社会に出てきていいのか」と訴え、世論を繋ぎとめようとしているのではないでしょうか。

 検察は、今までの手法が通用しなくなることを嫌うのです。このような考え方は、真っ当な意味での改良、改善を怠ることにつながります。
 世の趨勢と諸外国との違いという、いわば縦軸と横軸の両方から、検察の「社訓」に疑問が呈されているのですから、検察は変化を感情的に拒む態度を改め、本当に良いシステムの構築に努めてもらいたいところです。