「世論の曲解」菅原琢

本屋さんでパラパラと読んでいて、おもしろい!と思って即買。あとがきを読むと、「犯罪不安社会」、 「子どもの最貧国・日本」 でもお世話になった担当編集、黒田さんではないですか。骨のある著者を出されますねえ。刺激になります。後藤さんも評価、参照されつつ、データの解釈のところできちんと批判されていて、はじめて内容で指摘受けられたんじゃないかしら。きっとこの本喜ぶだろう、お知らせしなきゃと思っていたら、すでにtwiiterで喜んでいらっしゃいました。まだちゃんと読み込んでいないので、内容についてご紹介するのは、今控えますが、「このように若者の右傾化をめぐって、いくつかの見解、議論が各所から提示されている。しかしこれらの指摘は、それが新書や雑誌記事という媒体でなされていることを考慮しても、実証性に乏しいものばかりである。これらの議論で取り上げられる例の多くは、数的に規模の小さい、局所的な現象であり、世間や若者を論じる上で無理のある、かなり限定的な「証拠」であることに注意が必要である。たとえば、たまたまテレビに捉えられた(テレビ局が報道したい)映像に収まった人間の挙動、発言が、日本の社会を代表しているとは、とても言えないだろう。もちろん小規模な現象だからといって、そういった現象を分析することが学問的に重要ではないと言うつもりはない。しかし、若者の右傾化、日本人の右傾化という一般的な傾向を指摘したいのなら、「最近の若者は」と言いたいのなら、ある程度の数を背景として持つべきだろう。このような指摘と議論は、後藤和智『「若者論」を疑え! 』などでも提示されているので、本書はこれ以上踏み込まず、ネット言論をどう捉えるべきかという点に限定して考察と分析を深めておきたい。」という著者です。こういう本が新書が出されて良かったです。
で。一方で、なんでしたっけ。「ゴッキー問題」(笑)。そう言っている人たちについてですが、読みましたよ。「早稲田文学vol2」。これ、ただの卑屈な敗北宣言じゃないの。
-------------------
宇野 ゴッキー(後藤和智)ですね。
東 ぼくはあのひとの本を読んでいるということ自体いわないことにしているので、いえません(笑)。でもそのひとの文章を読んでいて、なににいちいち驚くかというと、人文知的なものに対する敬意がないことなんですよ。(略)
-------------------
統計も「人文知」ではないんだろうか。
-------------------
福田 これをいうとまた極論になっちゃうんだけど、それは編集者の問題だと思うんです。ぼくも雑誌をやっているし東さんもやってらっしゃるから、そういうリテラシーが機能しているあいだは大丈夫だし、もっと極端にいえば、「○○」の○○ってやつがいるあいだは大丈夫だし、彼はエースですからね。そのへんのイレギュラーで人間的な要素は多いと思います。
-------------------
「統計」を知らない編集者との人間関係がある間は大丈夫ってこと?原文では実名で編集者が出ているのですが、この編集者がどんな仕事をしているか知らないので、こんなところで、名前出されたら私ならかなり恥ずかしいので、控えます。本を出している理由が「人間関係」って言われたい編集者っているのかなあ?
-------------------
宇野 あ、あと大澤さんに対しては、「ぼくみたいなひとの居場所も残しておいたほうが、きっと世の中豊かですよ」という感じです。
-------------------
東 しかしぼくや宇野さんが危機感を持っているのはそんなくだらないリアリティでもなくて、そういうの「気にしなくていい」はずのもんがぼくたちの同世代かその下ぐらいの世代の編集者に与える影響は、いっぱいあると思いますよ。「東や宇野とかが出てきて、サブカル論壇が盛り上がってんのか」とかって近づいてきていた編集者が「あれ、後藤とかにいわせると、こいつら馬鹿らしいぞ」とかってシューとか離れていく、みたいな。そういう現実がないわけではないですよ。
-------------------
で、サークルとか同人とかが防波堤なんだって。「われわれはトキという絶滅危惧種なので、「論壇」セーフティネットで保護してください。そのほうが世の中豊かになりますよ」とってことだよね。まあ豊かかもしれないけどね(笑)。ゴッキーがゴキブリって意味かよくわからんですが、そうならゴキブリのほうが繁殖力あっていいんじゃない。内容で後藤さんのことは「批評」しておりませんよね。この人たち批評家なんだよね。よほど「人文知」や「言葉」に敬意を払っていない気がするんですけど。一応、「統計では、すべてはわからん」みたいなことは言ってます。プロのシェフに「料理の仕上がり如何は、包丁のとぎ方次第ですよ(キリッ)」みたいなこと言ってるようなものだね。
そして「リアルのゆくえ」で大塚さんが怒っていたことについて。
-------------------
東 大塚さんが要求することは、ぼくはほとんど満たしていると思う。最終章なんて、「ぼくは秋葉原事件で変わりました」とまでいった。変わってませんよ、本当は。でも「変わりました」っていうことで終章まとめようと思って、ぼくから申し込んでプレゼンテーションにいっているわけですよ。秋葉原事件もあったし、宮崎事件の死刑も執行されたし、ここでなんかうまい具合に最終章でまとまると新書として体裁もいい・・・・って(笑)。もうどうしたらいいかわかんないよ。
-------------------
宮崎みたいな人とえんえんつきあい続けた大塚に私はあまりに失礼な発言だと思います。新書の体裁と大塚がかけていた何十年レベルの話をこういうふうに並べて、さらに、「変わってませんよ、本当は」ってばらしてしまい、さらに活字にしてしまう人ってどうなの?それで「満たしている」んだ。ふーん。
そして、「人文知」についてですけど。
-------------------
宇野 (略)エッセイなのか「生き方論」なのか社会分析なのかわからないですよ、彼らの書いている文章は。しかしそれが「わけがわからないもの」だからこそ刺激されるものも大きくて、社会的にもそれがひじょうに力のある場を形成していたと思います。東さん自身は賛成しないかもしれないけれど、そうした文章の魅力をいちばんに引き継いでいるのは、明らかに東浩紀で、だからぼくは結果として「東浩紀」を意識してものを書き、東批判でデビューせざる得なかったわけです。これは明らかに福田さんがおっしゃる「後進性」が生んだものです。でも社会の後進性が結果的に優れたものを生むなんて珍しくもないことで、日本の「ぬえ」のような文芸評論ってまさにそれだと思うわけです。
-------------------
なにがなんだかわからないけど。「人文知に敬意を示せ」らしいので、よく似た人は最近読んだ「1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産/小熊 英二 」の下巻で拝見いたしました。「わけがわからない」と嘆いているだけのときはまだ可愛げがあるんですが、それで開きなおると、酷いことになっていく全共闘。
-------------------
○ここには自分の抱いている「現代的不幸」を語る「言葉が見つからない」なかで安田講堂攻防戦に刺激されて東大闘争の模倣をはじめた学生の姿が示されている。
○しかしこの早大反戦集会も、「自らのコトバ」を創造する力はなかった。69年6月の報道によると、彼らの一人はこう語っていた。「(略)いまでもそうだけど、しゃべるとどこかスリヌケタという感じがあるんだな。だいいちはずかしいよ。ことばがコミュニケーションの働きを持つか疑わしい。」既存の言葉のすべてを拒否し、論理も要求項目も作れないまま占拠という行動だけが先行する。そんなことに意味があるのかという記者の問いにたいしては、こう答えが帰ってきた。「僕ら自身の中に、これをやらなくてはどうしようもないという感じがあって、やる。・・・・有効がどうか、そんなことわからない。有効性というのは禁句なんです」。
彼らが信じるのは、言葉にならない自己の内的衝動による直接行動だけであった。それが政治的に意味があるのかどうかは「禁句」だったのである。
そんな早大反戦連合は、「自分たちをノンセクト・ラディカル」をもじって「ナンセンス・ドジカル」と自称していたという。反戦連合のメンバーが当時の雑誌『現代の眼』に書いた「ナンセンス・ドジカル宣言」には以下のような言葉が語られている。「『闘いの展望?』そんなものはありゃしない。『革命?』『くそっ』ボクは拒否する。一切な空虚な言葉を、マルクスを、理性を、モラルを、そしてオノレ自身をも。ボクはいっさいの『責任』を放棄する。いっさいのあたえられる『自由』も拒否する」。「『ボクにはいっさいの語るべき言葉はない』。そうなのだ、ボクでさえ、このボクのドロドロとしたイカリを説明することはできないのだ。」こうして彼らは、自己の「イカリ」や「展望」を表現する言葉を見つけられず、大学当局やセクトやマスコミの既存の言葉を拒否した。しかしそうした彼らにできるのことは、ひたすら「否」を叫ぶ展望のない直接行動しかなかった。
-------------------
「時計台をとりあえず占拠してから考えよう」と、内容ではなくて、方法論に終始する姿勢。「言葉にならないこと」について開きなおる姿勢。似てるなあと思いました。時代が時代なら目的も要求項目もなくゲバ棒だけ振り回してたカワイソウな人になっていたかもよ。読んでなかったら、読んでみるといいかも。人文知には「歴史」も入りますからね。しかし、この対談実際に聞いた人って何が勉強になったんだろうか。