なお慎重に冷静に考えてみたいと思います。
タイトルにしてるのは、コメントでいただいた言葉ですが、非常に嫌いな言葉です。
意味としてではありません。
著者でも、こういうワーディングを書いたときは冷静な議論でも、そのたたき台でもいいが提示している姿を私はあまり見たことがない。同じく「試行錯誤しなくてはならない」とか。大方書くことがなくなった場合か悩んでるかである。「思考停止になってはならない」とかもそこで「思考停止」したっちゅうことである。冷静な議論なっているか、思考停止してないかは読めばわかりまっせ。不必要なワーディングだと思う。
痛いのはこの陳腐なるワーディングをこれまた自分が大人的対応ができまっせと他人に見えるだろうと思って、一応こういう本の編集をしている私に「これは小娘め一発言うてやらなにゃあいかんな」とでも思っていらっしゃるのだろう。また失礼な物言いをしないあたりがいやらしい。で、それが、私がわかってないと思っているのが痛々しい。
私小宮先生とかいっけんまともそうなこという、おやさしい言い回しをする人のほうが、世間大制覇しちゃうんで、よほど姑息でタチ悪いと思ってますんでね。
で、こういう人って知識人なんてエリートで、自分は大衆だから、バカですよどーせと開きなおるんだよねーって思ったら案の定である。なになに「人権意識が低い私が納得するようなこというてみろ」(大意)と。・・・はいはい。人間開き直ったら、よりバカになるばっかと思いますけどね。
まあこれは個人的意見だが、このDHさんのように「文字通り思い付き程度のお気楽雑文です」と表明しているブログで、大して調べもせずに「死刑」やら「私刑」やらを平気で書けるような神経だけは一生涯持ちたくないと思う。
さて、なぜこう「死刑反対論」はここまで人気がないのだろうか。死刑存置か死刑反対かをここで述べるつもりはない。どうして「死刑なくすなんて許せません」という人がこれほど多く、その「堂々さ」はなんなのか、という言説空間の空気の推移のほうに私は興味があるのである。
今この「死刑反対運動」とか「アムネスティ」について、「バカバカきちがい話」は巷にあふれている。まあ変だなと多くの人が思っていることは否定はしません。
実際、日本国民の意識はどのように変遷しているのか、内閣府の調査 を参考にそれをグラフにしてみました。「死刑存置」に反対か賛成か以下のグラフである。
基本的には昔から「死刑反対」は人気はありません。ちなみに今回調査というのは平成16年度のことである。
さてその「死刑存置」の理由がこちらである。「そのほか」と「わからない」はすごく少ないので省かせてもらいました。
犯罪が減っている今の人たちのほうが死刑がなくなると「犯罪が増えると思う」といってるし、さらに「被害者」の気持ちに同調している人が増えている。・・ちなみにこの質問自体が「誘導・啓蒙的」であると批判はあります。それもそうだと思う。
都市規模別に見ると「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」を挙げた者の割合は大都市で高くなっている。
性別に見ると「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合は男性で高くなっている。年齢別に見ると「死刑を廃止すれば凶悪な犯罪が増える」を挙げた者の割合は70歳以上で「死刑を廃止すれば被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合は50歳代でそれぞれ高くなっている。
「場合によっては死刑もやむを得ない」とする者(1,668人)に,将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか,それとも,状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよいと思うか聞いたところ,「将来も死刑を廃止しない」と答えた者の割合が61.7%,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合が31.8%となっている。
さらに前回の調査と比較して見ると「将来も死刑を廃止しない」(56.5%→61.7%)と答えた者の割合が上昇し「状況が変われば将来的には死刑を廃止してもよい」(37.8%→31.8%)と答えた者の割合が低下している。
ちょっとおもしろい広告があるのでご紹介します。これ1991年の広告である。どこの広告だかわかりますか?
これ実は「アムネスティ」の広告である。で、ちょっと驚いたのだが大貫卓也さんがアートディレクションを担当している。知ってる人はあたりまえに知ってるでしょうが、大貫卓也さんは非常に有名なCMプランナーである。としまえんの「プール冷えてます」、日清カップヌードル「hungry?」などといえばわかるだろか。 ちなみに「hungry?」の広告はカンヌで連続受賞されていてイギリス、ドイツ、香港、フィリピン、ブラジルでも放送された(飽食と飢餓が混在する地球に先進国のインスタントラーメンを!と原始人が右往左往するという3重くらいの皮肉がこめられたCMである)。
これ「広告批評」の記事なのだが、このようなことが書いてある。
「アムネスティは英語で『恩赦』の意。アムネスティ・インターナショナルはロンドンに本部を持つ人権擁護運動の国際的民間組織。1961年に弁護士ピーター・ベネンソンが「人権侵害を防ぐには、世界的な市民運動で圧力をかけることがもっとも効果的である」と思い立ち、新聞に投書したことがきっかけになって誕生した。政治・宗教などの信条や人種、皮膚の色、言語、性などを理由として囚われている非暴力の人々の釈放を求め、すべての拷問や死刑に反対する非政府組織(NGO)で、国連の諮問的地位にある。1971年にノーベル平和賞を受賞。ミュージシャンやデザイナーなど多くのアーティストがボランティアで支援を表明している。
「人権」という意識が芽生え、それが誰の前にも等しく与えられたものであることを誰もが知ったのもやはり20世紀である。が、この「人権」は絶えずアピールしないとたちまちのうちに誰かに奪われてしまう危ういものである。」
つまり、「言説空間」において「アムネスティ」は91年くらいの段階では、「イケテル」大貫さんがやってるわけだな。
警察が「被害者」に目を向けはじめたのが88年である。金澤警察庁長官の就任の年であり、警察が国家公安警察から被害者に耳を傾ける国民警察にシフトした年である。被害者関連の記事も88年から増加に転じていく。そしてサリン事件を受けて96年の被害者対策基本要綱から、また記事件数も増えていく。そして97年酒鬼薔薇事件での「人権派」大バッシングである。少年法も改正される。
「被害者」が発見され、それが政治的に力をもつことで、もちろんよかった面も多々ある。とくに犯罪被害者の状況は惨憺たるものだった。
でも、感情的に国民がふきあがることによって覆い隠されることがあるのである。犯罪被害者の「人権」は大事である。被害にあった人が「加害者」をとっちめたいのは自然な感情ですよ。それをとめる権利はありませんよ。
本村さんはお気の毒だと思う、なんてひとことでいうのもほんとうに申し訳ないほどである。しかし、たとえば強姦致死という犯罪は日本ではほとんで起こらない犯罪のひとつでもある、たったひとつの稀な犯罪を旗印(ネタに)にふきあがっているひとたちのほうが、もしくはふきあがらなくてもいいけど、「自分が被害者にいつなるかもしれない」という「被害者意識」が無意識的にでも意識的もいいけど、そのほうがもしかしたら怖いもの作っているのではないか、大事なものを壊してるのではないか、だからその副作用部分をきちんと出したほうがいいのではないかという言説も同じように誰にもとめる資格はありません。
「裁判」は「事実認定」を争うものだ。犯罪被害者も「知る権利」をずっといってる。そのとおりだと思う。
しかし、どうも見ていると違う。刑事裁判において、あたかも「死刑反対運動やってるからきちがいだ」的な話で攻め込む。犯罪被害者を支える運動家やジャーナリストが世論のよくある「正義感」だけにのってしまっている。それほんとに前田さんとか小宮さんと変わらないんですけど。
世界的にみれば「死刑反対運動」はおかしい話ではない。でもそういうと「世界的にみればというのは関係なくて日本の実情に即してない」と反発する。わからんのだが、日本の実情(犯罪少ない)に即してみれば「話がされること」自体はぜんぜん変な話ではないと思うが?
こんなニュースがあった。北朝鮮の拉致被害者が北朝鮮に拉致被害者の返還を求める根拠に「骨が偽ものであった」という根拠ある。この根拠そのものであるDNA鑑定について、イギリスの有名な科学誌である「Nature」が疑義を掲載している。果たして日本のマスコミでこれをきちんと取り上げているところはあっただろうか。これかなりな話だと思うけど。いくら世論が北朝鮮がトンデモな国だ!とふきあがっているからって、そこにトンデモな話で対抗していいって話ではないだろう。
「被害者」への感情移入において覆い隠されてしまったもののひとつではないか。
DNA is burning issue as Japan and Korea clash over kidnaps
David Cyranoski
SUMMARY: Cremated remains fail to prove fate of Japanese girl abducted in 1977.
CONTEXT: Tokyo A bitter dispute has erupted between Japan and North Korea over DNA tests used to establish whether cremated remains belong to a Japanese citizen abducted in 1977.
トンデモな話である↓
「Nonetheless Yoshii, who has no previous experience with cremated specimens, admits his tests are not conclusive and that it is possible the samples were contaminated. "The bones are like stiff sponges that can absorb anything. If sweat or oils of someone that was handling them soaked in, it would be impossible to get them out no matter how well they were prepared," he says.」
ちなみにこの経緯をのせてらっしゃるブログ 。
これはある警察関係者が書いている論文の一部である。 2004年の論文です。
「犯罪対策においては、正義の問題を無視することはできない。国民にとって正義感が満足されることは当該政策のひとつとして考えなければならないし、現に大多数の国民から正義に反すると考えられる政策を実施することはできないのであるから、現在の次元での日本の国民の「正義」として考えているのが何であるかを探ることは、可能な政策の枠組みを判断する上で必要である。」
「国民が正義と思ったら正義である。それがたとえ科学的でなくても事実でなくてもいいんです。国民がやってまえと思ってたらやるんです。」ということである。
ひらきなおる警察って怖い。ひらきなおる一般市民たちの警察的視点というのも怖い。ホラーハウス社会がほんとうに化け物を作ってしまう瞬間を見ることにはなりたくないものである。
(続く) いいたいことがある人いると思いますが、次回エントリーに続くのでできればそのあとにしてください。あと賛成論でも反対論でも一生懸命考えている人に失礼なので、私が死刑反対か賛成かをここで書くつもりありません。その是か否かどうしたらいいかを語るつもりもありません。いろいろちゃんと語っているブログもたくさんあるのでそっちをみてください。